5

※※※※

夜はいつだって僕を圧し潰してくる

その帳の中では誰だって独りになる

見えないということの恐怖

何も無いということの絶望

抱えきれなくなった頃

“家”を抜け出し闇を歩く

追うように

逃げるように


そんなついの無い行程の果てに


いつも決まって千代子と出会う


全てが黒に沈む時間

千代子はいつもより輝いて見える

僕とあいつはいつだって

同じ時に耐えられなくなる

こんなところまで

僕らは似ている

千代子と共にあるのなら

暗闇の中でさえ


僕らはふたり


見えていないということは

そこにいないも同じということ

何もないということは

失うことすらできないということ

だから僕は恐ろしくなる

あのまま千代子が目に入らず

独りのままであったなら


僕はきっと


瓦解していた

※※※※




「どうして“鬼”なんだろうな」



 園からの帰り道、ぼやくように呟いてしまう。

 そこには意図も好奇心も無い。

 口惜しさと無力感を誤魔化すために、口を動かしておきたかっただけ。

 ただあの目を忘れたかった、それだけのため。


——声がね、聞こえるの


 別れ際、愛子が言っていた言葉が、耳にこびりついて離れない。


——夜持が泣きながら探してるの。どこだ、どこだって探してるの


 何を探しているのか。それを質問したことを、俺は本気で後悔した。


——両眼よ。夜持、両眼を無くして困ってるの。だから探してあげないと


 「気持ち悪い」と、そう思った。

 何故だか悲愴感や同情よりも、違和感に近い嫌悪感が、俺の中で先行した。

 言葉を紡ぐ愛子の瞳は、彼女が至って冷静であると物語っていた。

 優子によると、夜持を見つけることさえできれば、失った目を元通りに出来ると、愛子は本気で信じているらしい。


——実際のところ、にいさんの眼は保存されているんですか?


 救いを求めるような優子の問にも、「分からない」としか返せない自分が、今は何より忌まわしい。

 それに対する日下の答えが、「証拠品として保管されている」だった為、気分の悪さは更に増す。まるで、夜持が物みたいに。

 いや、物になってしまったのか。

 そんなことすら、今更実感する。

 絶望的な周回遅れ、もどかしさはあれど、出来る事は頭の空転。


 脳漿がかき混ぜられ、胃の中のものが逆流する。


 今夜にでも夢に出てきそうだ。虚無の眼孔を覗かせる夜持と、冷え切った双眸を光らせる愛子。彼らにただ見られる夢だ。身動ぎひとつ許されずに。


「どうして、というと?」

 隣にいる日下探偵様が、俺の無為を耳聡く拾い上げてしまう。

 捨ててくれても良かったのに。

 放っておいて欲しかったのに。

「目に見えないなら、単なる“透明人間”でいいだろ?鬼である意味が無い。というか、ただ目に見えないだけのヤツなんて、“鬼”と呼ばれる程怖くないだろう。都市伝説としては今更パンチが弱すぎるような気がするぞ」

 仕方なく、後付けで疑問をでっち上げる。考察というより難癖に近い。

 日下は目を閉じ首を傾げる。どうやら思索時の癖のようだ。


魑魅ちみ魍魎もうりょうの類が何故暗がりを好むか分かりますか?」


 日下の話の始まりは、いつもどこか脈絡が無い。

「相手の姿が見えにくい時間帯の方が、対処が難しくなるからか?」

「半分正解ですが、難しく考え過ぎです。実際はもっとシンプルですよ」

 日下は右手の人差し指を立て、俺に教えを授けるように。

「それは彼らが暗闇から生まれたからです」

 そう言ってこちらを振り向いた。

「暗いということは見えないということ。見えないならば、そこに何もいないと断言できない。『いる』と思ってしまえば、それを否定するのは不可能に近い。そんな時、未知の体験や滅多に起こらない偶然に出会ったのなら。貴方は闇の中に、『何かがいるかもしれない』とは考えないと、今起こったことが、『“それ”の仕業ではないか』と疑わないと、そう言い切れますか?」

 化け物の本質は分からないこと。分からないから原因を探す。求めたものを、暗がりに見る。


 彼らは、人が納得する為に生み出された。


 「何かがいるから、こんなことが起こってしまう」と。


 化け物とは、人の想像力と宵闇の合の子。

 暗闇が無ければ人は化け物の姿を描かず、誰一人見ていない暗闇は意味を無くす。

 怪物は見た目でおどかすのではない。おびやかすのだ。


 見られる側には、見ることができない。


 見えないものには、対処できない。


 そこにいることがはっきりしているのなら、脅威ではあっても、恐怖ではない。


「シャワーの最中に背後に気配を感じて振り返ったりするでしょう?あれはつまり、常に存在する見えない範囲、視野角およそ200度の外側、そこに対する恐怖です」

「見えない場所に何かがいる恐怖、か?」

「より正確に言うならば、見えない場所が決して無くなってくれない恐ろしさ、ですね」

 背後を振り向けば、死角は移動し、またその背後に見えない場所が。

 振り払っても付いてくる。


 憑いてくる。


「そう考えれば、透明人間とは最も単純な恐怖演出と言えます。どこにでも発生し得る位には。何せ相手の状態が分からない。出方を見れず、機嫌も伺えず。そもそもいるかどうかも分からない」

 そうなると人は、常に最も恐ろしいことを想定してしまう。化け物の姿だけの話ではない。いついかなる時も傍で見張られていると、その可能性に囚われ続ける。

「心休まる時が無くなる。自分が作った化生で自分を追い詰める。ミシェル・フーコーがジェレミー・ベンサムの“パノプティコン”に見た、内視の構造そのものですよ。監視者はいつでも囚人を見れるのに、囚人からは監視者が見えない。すると常に監視されている感覚が形成され、囚人は何時だって従順にならざるを得ない。理想的な監獄の在り方です」

 俺は社会科の授業で見せられた、円形の監獄の俯瞰図を思い出す。

 それはとても不気味な図形に見えた。


 罰から逃さないという執念。

 安息を奪い続ける仕掛け。


「それに人間は、他の視線に特別敏感な生物です。人間の強膜、つまり白眼は、他の生物と比べて、段違いの広さを持ちます。目が何方を向いているか、それを判別しやすくする為に。音の出ないコミュニケーションによって、『群れ』としての連携を高めていった、それが我々の進化の歴史、という説もあります」


 社会性を獲得した人類は、それで「可能」を増やそうとして、逆にその仕組みに囚われたのか。


「最近知ったのですが、『人を幸福にする研究』と称して視線を感じるメカニズムを調べている方がいらっしゃいました。手術や投薬などの手法で、『一人じゃない』という気休めを、実現しようとしていましたが、あんなのホラー装置にしかなりませんよ。実現しても幽霊屋敷か、ディストピアにしか役立ちません」

 そして、「鬼」と「姿が見えないこと」との間には、深い関わりがあると、日下は言う。

「『鬼』とは本来、『魂』や『死者の霊』を表す漢字でした。また、『和名類聚鈔わみょうるいじゅうしょう』を基とする解釈では、『暗闇・姿を見せないもの』を意味する『おん』という言葉から、『おに』という読みが生まれたとされます。これらの説が正しいかどうかは別にしても、『鬼』というものが原初的な、『見えない』という恐怖と結びついてきた概念であるとは言えるでしょう。姿無き死者。『死』という未知。“透明人間”から“鬼”への変化には、ある種の必然があります。“透明人間”は『人間』ですが、“鬼”なら姿の制約が広がる。見えない物を、より好きなように恐ろしがれる。極端な話今回の事件は、何の特性も語られない“鬼”がやったと言われたとしても、おかしくないくらいと言えるでしょう」


 そうして日下はまた前へと歩き出す。その行動は、この講義の終わりを告げていた。


 “お天道様が見てる”。


 湯田さんのありきたりな脅し文句だが、結局はそれに収束する。

 一方的な視線とは、時に“神”の領域へと至る。

 見られる側を縛り付け、片時も離さぬ無上の呪縛。

 透明人間の真の恐怖とは、俺たちが勝手に観測してしまうことにある。一度宙空に監視者を見てしまえば、最早誰にも逃げられない。


 何故ならその視線は、他でもない自分のものなのだから。


 見ている者に罰せられない行動。

 それは自身の規範における“正しい”行為。

 他者に正義を押し付けることはできない。

 けれど自身を納得させることは容易。

 自分が思う正しさならば、ストンと腑まで落っこちる。

 ならばどれほど目を盗んだところで、死角に入れる筈もなし。

 自分から逃れる術なんてものは、生きている限り無いのだから。


「あいつらも、内に鬼を飼ってるのかね。見えない何かに囚われて、意味わかんねえことばっか言ってさ」

 それでも俺は往生際悪く、隠れる場所を探していた。

「見つかる筈のないものを探す。これほど不毛なこともないよな」

 二人のあの目、あの執着を、否定しないと揺らぎそうで。

「愛子もいい加減、もう少し落ち着いててもいいころだろうし、優子も思い詰めてるなら、もっと早く俺に相談すりゃあ良いんだよな。それでいきなり本気がどうとか言われても…夜持も夜持で、思わせぶりなこと言いやがって、きっと大したことないんだろうに。らしくないようなことまで言って、一体どういう勘違いをしたんだか——」


「身勝手な思い込みを否定されるのが怖いからといって、駄々を捏ねないでくれませんか?」


 そう吐き捨てられた瞬間、俺はその言葉で、大きく平衡を失う。


 氷柱つららで胸を抉られたような感覚に陥る。何故だか酷い眩暈めまいがして、背筋を悪寒が駆け抜ける。


 寒い。

 ただ寒い。

 傷口から熱を奪われる。

 頭がガンガンと痛む。

 呼吸が浅くなる。


「どういう…意味だ…」


 思考の余裕などなく、憎々しげに問いかけるしかない俺に、名探偵は追い打ちをかける。

「夜持行人が異常な行動をとった。途直愛子が知らない顔を持っていた。途直優子に全てを押しつけていた。そうやって自分を原因として悪い方に捉え、悦に浸っているのが気持ち悪い、と私は言ったんです。貴方の影響力を過大評価し過ぎでは?」


 極寒にポッと灯がともる。

 しかし今度は熱すぎる。

 じりじり

 じりじりと肌を焼き、

 頭の中では対流している。


 これは怒りか、それとも羞恥か。いずれにせよ図星らしい。


「他人の全てを理解できるとでも?人間がそんな便利に出来ていると思っているんですか?だとしたら相当な甘えん坊ですね」

「なっ…お前に夜持と俺の何が分かる!気がつくとどっちかの家に居るような、何も言わないでも自然とつるむような、そんな関係性だったんだ。それを——」


 夜持行人は、孤独な男だった。

 

 家族は居た。俺という友人も居た。愉しみもあったし、何でもそつなくこなした。

 周囲から見れば、全てを持っているように見えたかもしれない。


 だが、俺は知っている。

 夜持は、決して満たされることのない男だった。

 終わりの無い渇望を、その内に飼っていた。


 きっと、一度捨てられたという事実が、夜持にとっては大き過ぎた。

 当たり前にあるものが、離れて無くなってしまうという憂患ゆうかん。夜持行人という男にとって、只管ひたすらに重いリアリティを持った、逃してくれないドス黒い煩悶。


——何をその手に掴んでも、最後には指の隙間から、敢え無く零れ落ちて行く。そんな気がする。


——本当の意味で、自分のものになった何かが、一つとして思いつかないんだ。


 何時だったか、そう言っていた。


 本当は、誰よりも欲していたのだ。

 ただ、何が欲しいのかが分かっていなかった。

 つまり、自分を裏切らない何か。


 一時期は必死に探していた。

 多種の技術を身に着けて。

 多様な芸術に手を出した。

 愉悦、快楽、慰安、癒し…果ては苦痛や嗜虐にまでも。

 部活動やら地域のクラブやら、不良との付き合いから科学コンテストに至り。

 その結果人は「多才だ」と言った。

 感心し、尊敬し、妬み、憧れた。


 だが夜持行人にとっては、食事のように、呼吸のように、生きる為に必要だっただけだ。常に必死で、搔き集めていた。


 それでも何も見出せなかった夜持は、やがて希望を抱くことと、それに失望する反復自体に、倦み疲れてうずくまってしまう。


 優子が言っていたことは、大袈裟でも何でもない。

 「惰性で生きている」その一言こそが、端的に夜持の在り方を表している。


 その夜持が、光を見つけたというのか。

 「前向きになった」と言ったか。

 挑戦を諦めず、ささくれだった心根が丸くなり、生への疑惧を克服したのか。


 でも、俺に、何も言っていなかった。


 人生が変わる一大転機に、俺の姿は何処にも無い。


 夜持行人にとっては、俺は手離しても良かったのか。


 そんな筈は無い。


 俺は夜持と、本音で話せる親友だった。


 隠し事をしたことなんて——


「先輩が腹を開いて見せていたとして、相手もそうだとは限りませんよ。『人と人とは分かり合える』、ですか?随分と御目出度い錯覚の中で、と生きて来たんですね」


 ザクザク


 ザクザク。


 日下の一言一言が、冬空の下に晒されたガラス片のように、俺の身体を突き刺しさいなむ。

 反対に、顔は熱を帯びていく。


 この世に生きとし生けるものは、他の何かになることができない。

 故に他者の気持ちなど分からない。

 敵を許せず。

 味方を信じず。

 ただ己のみの基準で測り。

 けれども己の赤心せきしんすらも、一つの欠けなく知る者は無し。

 簡単な理屈。

 歴然の道理。

 俺はそれすら知らぬ愚鈍だと、たった今自身で露呈させた。


 俺は、思い上がっていたのか。


 夜持行人の全てを預かった気になって、主役気分にでも浸っていたのか。


 無二の親友面をしながら。


 喜劇に興じる第三者なら、面白いくらいに赤面している、間抜けな道化を嗤ってやれたのに。

 残念ながらこの場には、執行者と受刑者のみ。

 誰も笑い飛ばしてくれやしない。


「勝手に人の気持ちを決めて、それで相手を分かった気になり、そこから外れれば悲しみ憤る。随分と独り善がりな交流ですね。挙句自らの手で作った世界と、起こっている事実との齟齬に、耐えられなくなって当たり散らす」

 日下はそう言ってちらりとこちらを一瞥し、


「無様で滑稽で最悪ですね」


 そう言って興味を失ったかのように、視線を再び前方へと戻す。


「貴方は、夜持さんは変わっていないと思い込み、途直さん達姉妹の想いを妄念だと断定した。けれど彼らは彼らでそれぞれ最善を尽くしています。彼らの心がどうすれば癒えるのか、何をすれば進めるのかは、どこの誰にも分りません。ましてや何もしていない貴方に、それを間違いだとか狂気だとか、一方的に決める権利が、本気であるとお考えですか?」


——もう、いいだろう?


 そう叫ぶのをなんとか堪える。それはあまりにも哀れ過ぎるという、最後に残った無為なプライド。


「そもそも私は最初から、貴方の力も助けも当てにしてはいません。ですが貴方は想像以上。予想以上に期待外れ。逃げてばかりの人間が、急に何かを起こせるような、そんな優しい世界じゃないんです。それとも褒めて欲しかったんですか?何一つ行動を起こさなかった貴方が?誰も貴方を甘やかしてはくれませんよ。とっとと気持ちに整理をつけて、何物でもない自分と向かい合ったらどうなんです?」


 そうだ。


 勝手に逃げてたくせに。


 布団を被って耳を塞いでいたくせに。


 ふさいでたくせに。

 

 その時が来たら、断罪されたくなかった。


 軽んじられたくなかった。


 贖罪と成功を同時に求めた。


 当然の弾劾だというのに。


 咎める者達を、見返してやりたかった。


 元はと言えば、自分が捨てたのに。


 拾って欲しいと懇願した。


 なんて自己本位。


 なんという厚顔無恥。


「なんで、俺が、逃げたとか、言える…!」


 この期に及んでまだ逃げる。

 無駄な抵抗。

 無意味な反抗。

「初めて会った時のこと覚えてます?」

 当然日下にいなされる。

 転がされて、止めを刺される。


「貴方の反応は、友を悼む無辜の市民のものではありませんでした。そうならば、敵意より先に進展を期待する。怒りと共に知りたくなる。無二の存在の死を決着できる、ある筈のなかった贈り物」

 

 もし解明を求めているなら。

 一も二もなく飛びついただろう。

 情報の真偽は後から確かめる。

 ただただ啓蒙を欲するだけ。

 視界を覆う濃い霧を、どうにか切り開いてくれ、と。


「しかし、貴方は完全に拒絶した。私をまず『敵』と見なした。犬の糞尿を処理しないことを注意された飼い主のように。死体を掘り返されたくない容疑者のように。それは故人の為ではなくて、自分の為の保身の怒り。貴方の“敵”は、向き合わせる者。更に、向き合った際に見える醜い自身。つまり、“敵”は貴方の中だけにあり、それを倒そうとするのは、風車に突撃する読書狂いと同じです」

 そうだ。

 分かっていた筈だ。

 そいつにてば、全て解決する。

 そんな何かは、どこにも無い。

「気づかれないとでも思ってましたか?頭隠してなんとやら。いつも尻尾は見えてますよ?」


 何かを言い返したい。

 身体はとっくにそれを行おうとし、口が半開き吐息が漏れる。憤懣と羞恥が突き動かす。

 焼けるような身体の内。

 刺すように冷える容赦無き外気。

 だが頭は付いて来ない。一つの意志すら声にならない。

 日下が突きつけたその糾弾に、どうしようもなく正当さを感じた。感じてしまえば黙るのみ。


 この話の最初から、この数奇な出会いの頭から、全て見通されていた。俺は丸裸同然だった。


 形勢を覆す道理はない。


「それではさようなら、役立たず先輩。一応依頼人の希望は守ります。しかし余計なことはしないでください。何もしなくても責めませんので」


 いつの間にやら別れ道。日下は振り向きもせず立ち去った。

 顔は見えていなかったが、表情に変化は無かったと断言できる。


 彼女は俺を相手にしていない。

 彼女は俺と共に歩むつもりはない。

 彼女がそこに自分らしく在る。たったそれだけで、俺はついえる。


 俺は負けることすらできず、ただただその場に立ち尽くすのみ。


 ついでに言うと、情けまでかけられた。


 しばらく放心し、ようやく足が動くようになり、そこで衝動が湧いてくる。

「クソッ、クソッ…」

 独りの帰路では、悪態が止まらない。

 視界が滲み、胸が焦がれる。

 苛立ちと焦燥が身体を駆け巡り、自然と歩調も強くなる。

 地面を蹴りつけるその無意味さが、日下の正しさを証明しており、そのことが情けなさを加速させる。

「惨めか…!俺は…!クソがッ」


 今日のことを振り返る。

 初対面の少女に傷口を掘り返され、真実を知るチャンスを与えられ、自身の最低さを思い知らされ、知り合いと探偵に痛罵された。

 皮膚の内側をぐちゃぐちゃに、攪拌されたような気分だ。

 永劫にも思える責め苦が、一秒一秒をはっきりと意識させる。

 今日一日が一年にも感じる。こんなに濃い日はないだろう。


 ボロアパートの階段とドアを、ギシギシカンカンいわせるその間にも、頭は歯痒さの終息を求める。

 そうだ、妹に電話しよう。彼女ならきっと、俺の話を聞いてくれる。


 けれども。


 自分の部屋の扉を開けて。


 自分の正常を取り戻そうと帰った場所を見て。


 見通しの甘さを実感する。


 この長い今日こんにちは、まだ終わってなかった。


 依然として俺は混沌の中。


 もはや日常は許さないと言うように。


 そこに異界が口を開ける。



——みられるのがおまえ

——みるのがわたしだ



 見られる側には、

 見ることができない。



 無計画に、搔き乱された室内。

 閉め切られていた筈の、扉と窓。

 空間に充満する、えずくような腐臭。

 壁に書き殴られた、その恐嚇きょうかく


 まるで呪詛。


 まさに呪言。


 それは始まりの鐘音しょうおんか。


 それとも終わりを告げる喇叭らっぱか。


 赤文字に支配された部屋の中、


 俺はその時明確に——


 を、


 “こわい”と思った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る