4

※※※※

今日は本当に楽しかった


昨日僕は

勇気を出して

千代子を水族館に誘ったのだ


見つけるのは大変だったけど

それに報いるには十分だった


陸上を生きる僕達には

その目で見れないはずの場所

刺激だらけの不可視世界

夜に浮かぶ秘密の領域


青に包まれるあの場所へ


あいつは僕と一緒に驚いてくれた

笑ってくれた

楽しんでくれた

知っているもの

知らないものを

あいつと僕とで共有できた


二人で一つ


そんな気がした


二人で別々


そうも思った


僕は千代子の知らない顔を知れた

千代子は無邪気な僕を見た

僕とあいつはよく似ていた

出会いが必然だったように


その交わりにあった不安は


心地よさも伴っていた


あいつと別れた後になっても


僕を取り巻くその青さは


変わらず世界を繋げてくれた

※※※※




「透明人間の研究?」



 暗宮は失望している自分を見つけた。「ああ、こいつもそうなのか」と。

 それは彼が期待していたことを意味する。このどこか自分に似た似非ジャーナリストに。

 多数のポケットが付いたカーキ色のジャケット、長袖の黒シャツにインディゴブルーのデニムジーンズ。パンパンに物が詰まったボストンバッグとポーチは、収納力で選ばれたのだろう。

 そんな機能性重視の見た目とは裏腹に、その口からは夢幻が立ち昇る。

「違いますよ、人を無力化する研究です。恐らく透明人間は結果的に生じた何かで、本来想定されていないものだったんじゃあないですかね」

 運転席の男はそう言い、目を爛々と輝かせる。

 それは一種の狂気だが、暗宮はその目を信用したのだ。

 なればこそ、彼の口からその言葉が出てきたことには我慢がならなかった。他の誰でもない、彼までもが、現実から逃げるのかと。


 地下駐車場、暗い車中。二人の男が密会していた。

 同じ目的、同じ執着、同じ方向を向く同志。

 その筈だった。そう信じていた。


 暗宮は彼を仲間だと思っていた。


「どっちも似たようなもんだ。考えることが面倒くせぇのに、分からないことには怖がる奴らの、つまらねえ言い訳みてえなもんじゃねえか。」


「旦那、そうじゃないんです。きっと、考えてなかったのは僕らだった。何の根拠もなく、『あり得ない』と思考から除外した。それはきっと、僕らが恐れていたからです。だから深く掘り下げなかった。怖がりは僕らの方だったんですよ」


 胡散臭い笑顔を浮かべながら、しかし男は大真面目だった。ここに来て暗宮は、失望が困惑に変わる。このあまりにも唐突な宗旨替え、彼は一体どうしてしまったのか。少なくとも暗宮の知る男は、心霊オカルト狐狸妖怪の類を笑い飛ばすような、分かりやすい人間であった筈なのに。

「ほどほどにしろよ、あまり連絡はするな」

 そう言って暗宮は車を降りた。変わってしまった相棒から逃げるように。

 

 真文提を切り捨てるように。


 しかしあの時真面目に取り合っていれば、今のこの事態は無かったのだろうか。


 あの男は、あんなことにならずに済んだのだろうか。


「先パーイ、あまりにも無茶な要求ッス。お断りッス。絶対嫌ッス」

 そう言ってゴネていた彩戸あやとこうすけに頼み込んで——というより脅し付けて——情報収集と調査を約束させたのが四日前。

 進展があったと報告があったのが昨日の夜。

 相変わらず怠惰だが仕事は早い元部下に会うため、暗宮は繫華街へと足を踏み入れていた。


 意外に思われるかもしれないが、ここ三絵図にも繫華街がある。

 昼は閑散としているが、夜になれば目が痛くなる程のネオンが咲き乱れ、酒、香水、吐瀉物にごみ溜めの匂いを発し、通りがかる者を別世界へと誘う。


 “BARウェルズ”はそんな不夜城の一角にある、オフィスビルの地下一階に潜んでいる。細くて視界の悪い階段を降りていると、気分はアジトに向かうレジスタンスだ。

 中に入れば典型的なバーと言った風情だ。薄暗い照明に長いカウンター。気取った様子のバーテンダーの背後には、名前の分からない酒が大量に並んでいる。

 BGMはルイ・アームストロングの“What A Wonderful World”。

 現実と戦っているのか、夢に逃げているのか。不思議な安らぎのある歌だ。


 彩戸が座っていたのは、一番奥のカウンター席。既に一杯引っ掛けている。それも見たところ高い酒だ。暗宮はその隣に腰掛け、注文しないのもおかしいと思い、けれども詳しいわけでもないので、彩戸と同じものを頼んだ。

 彩戸は細面に切れ長の目、薄い唇と高い鼻を持った、それなりに女性にモテるタイプの顔付きをしている。仕事帰りだからだろう。ストライプのYシャツは第一ボタンが外れ、ネクタイは見当たらない。紺のスーツの上着も、小脇に抱えられている。


「先パイ、どうせ分からないなら、無理してオシャレなところで集合しなくても…」

「余計なお世話だ。相変わらず口を開けば、要らねぇことばっか吐きやがる」

「そんなこと言ってぇ。乗り気じゃないのに、尊敬する先パイのために必死に調べてきたかわいい後輩に、何か労いの言葉は無いンスかあ?」

 こんなことを言っているが、暗宮は知っている。こいつには義理や人情、義務感のようなものはない。


 こいつが動く時はいつも、面白そうと思ったからだ。


 より事態の先が読めなくなる方、新しい体験が出来る方へ。

 その欲望にはどこまでも忠実。

 だから暗宮はこいつに頼んだ。彩戸が新たな娯楽を自分から手放すことは無い。つまり上に報告もしない。


「結論から言うッス。先パイのお友達が言ってたような噂は、一時期確かにあったッス」


 彩戸は軽薄な奴ではあるが、高価な酒を嗜む姿は、なかなかどうして様になっていた。

 「友達じゃねぇ」という暗宮の小言も、すました顔で流して捨てる。

「先輩がやらかした事件と関わりがあるかは分からないッス。けれど、『人の意識を操る実験が行われている』っつー話が、一時期やたらと囁かれていたみたいッス」

「一体どこからそんな噂が?」

「流石にきっかけは不明ッス。とにかく『敵の無力化』、それが必要とされているから、国が秘密裏に行っているらしいッス」


 なんとも馬鹿げた話だと、暗宮は呆れ、怒りすら覚えた。


 国は確かに秩序を守り、外れるものを弾き出す。そして疎外された者は、国を悪徳の権化と見なす。だから国家は敵役で、自分達がヒーローだと信じている。


 馬鹿馬鹿しい。

 国家が悪を行おうとして行動するわけがない。どんな独裁者でも、誰かの支持が無ければ成り立たない。つまり国が為すことというのは、有権者の多数派の正義だ。それを悪と断じることが愚か。

 そもそも本来有権者とは、国の未来を決める者達。権力を得たい者の手段が、その多数派に媚を売ること。


 それは当然。


 指導者の摂理。


 有権者になれる者は、きちんとその座に就くことで、指導者から意識され、「支持者候補」として意識される。

 しかしどうだ、現実として、その立場を捨て去る愚者ばかり。

 自分から指導者の視界に入る機会を放棄し、有権者の数を減らす者達が、後から見苦しくがなり立てる。

 「話が違う」

 「こちらを見ない」

 派閥とは誰かの味方になること、力を貸すことの表明である。無関心とは、何をしようが見ていないことを、自分から白状する行為である。

 自分の味方にならない者に、尻尾を振る馬鹿が何処に居る。

 こちらを見ていないことが明らかな視線に、怯える臆病者が何処に居る。

 何も要求しない者を、満足させることなどできない。

 見ていない者は、誰にも見られていない。

 見えない者は居ないのと同じ。

 それを忘れている者の多いこと。

 そういう度し難い手合い程、全てが幸せになれないと解っていない。


 自分の中で燃える正義が、必ず行われると信じている。


 何も言わずとも。


 何も変えずとも。


 誰かがやると疑っていない。


 だから自分の敵は悪。思い通りにならない国も、それを動かす有権者達も。

 だが彼らの行いは正当なものだ。土俵に上がり、勝ち取ったものだ。そこに挑まなかった惰弱な蒙昧が、彼らを罵って良い筈がない。


 あの暗宮でさえ理解したというのに。彼でさえ、黒と白を別つことを諦めたというのに。


「戯言だな。いつもの権力アレルギーだ。権力に選ばれる努力もしてねえ癖に元気なもんだ。確かに丹畝市は不祥事でしょっちゅう頭が挿げ替わるが、そいつら選んだのだっててめえ自身じゃあねえか。そういう奴らの言うことなんて決まってる。どうせいつも通り、『政財界の黒幕が云々』とかも言われてんだろ」

「分かるッス?とにかく偉いヤツが気に入らないのか、『とある実業家が陰に居る』なんて冗談まで」

 風車を化け物と勘違いし、挑みかかったドン・キホーテみたいだと、暗宮にはそう見える。

 想像の中だけの悪役相手に、元気にシャドーボクシング。

「そういう話なら俺も知ってるぜ。政府の機密に関わる事件のカバーストーリーや、世論の誘導の為の噂を流す、警察と防衛省の上層部のみが知る組織」

「“吟遊”ッスかぁ?あれもこれも、よくもまあ出てくるもんッス。大馬鹿ッスよねえ」

 いつもの彼らしからぬ、吐き出すような台詞。

「結局自分の首を絞めながら、『殺される』っつって喚いてるなんて笑えねえッス。欲しいものは自分で手に入れるのが普通ッス。当たり前のことッス。そんなやつらには政府側だって、興味ないッスよ。『“敵”と思われている』だなんて酷い思い上がりッス。見られる為の行動がないのに、見られていないとやる気が出ないって、じゃあ監視社会が良いっていうんスか?」

 

 彩戸は嫌悪感を剝き出しにする。しかしそれは一瞬のこと、すぐに元のヘラヘラとした表情に戻る。


 彩戸にも熱くなる一面があるとは、暗宮は少しだけ意外だった。


「まあそういうわけで、いつもならオレもそんな感じで笑い飛ばすッス。ただそうも言ってられないような、奇妙な話がありまして…」

 そこで彩戸は暗宮に顔を近づけると、


「当時、オレと同じように噂話を嗅ぎまわっている連中が居たそうです」


 これまでよりも絞った声音で囁く。

「そいつは…」

 一瞬、何かが進展したような錯覚に包まれる。が、実際ははしゃぐようなことじゃないと持ち直す。

「興味を持った暇人が他にもいただけだろ。それこそ週刊雑誌のネタにでもされたとか」

 そう、自分達がやったように、取り敢えず調べていた誰かの可能性が高い。そんな噂を精査したところで、得られるものは何もない。

「オレもそう思ったんスけどね?ただ、ミョーに気になることを言ってたヤツがいまして」

 彩戸の声はどんどん小さくなる。そして内容はむしろ強調されていく。

「そいつは、当時その話を熱心に聞いてきた新聞記者の顔を覚えていたッス」

「それは…」

「いえ、違うんス。真文じゃないんス。その刑事は真文にも話を聞かれたみたいで、それとは別口だったらしいッス」

 複数のブンヤがネタを掴んでいるのは意外だったが、しかしあり得ない話ではない。となると必然、問題はここから。

「そいつ——まあ同僚なんスけど——、その時の男を偶然他の場所で見たそうッス。その時一緒にいた上司が」


——クソ公安が、ウロチョロしやがって——


「そう言ったそうです」


 暗宮は——


 酷く混乱した。


——待て、何故そこで公安が出てくる?

 それではまるで——


——噂が本物だと認めているようなもんじゃねえか?


「バカな」

 暗宮はその思いつきを嗤おうとしたが、恐らく頬が引き攣っていることが自分でも分かった。

 本当にそんな、典型的悪役が登場するなど。


 ある筈がない。


 あってはならない。


 それが実在していたならば、暗宮の諦念が崩れ落ちる。


 世界の変化に不安なようで、それでいて何かを期待するように、高鳴る胸を抑えつける。

「仮にだ。仮に、一億歩譲って国が関わっているとして、何をしている?まさか本当にマインドなんちゃらっていうあの…」

「“マインドコントロール”ッスかぁ?どうッスかねぇ?あの当時、なんかそんなオカルト流行ってましたっけ?そもそもそんなモン作っても、特に利点は無いッスよねぇ…」

 そう、2013年では政権はそこそこ安定していたし、汚職云々の疑惑も然程騒がれていなかった。実際翌年の年末には、つつがなく首相の続投が決まった。

 あの当時に政府が躍起になって、人を統制するような事情など——


——いや、ある。


 その時暗宮の脳裏に、ある一つの光景が舞い込む。

「オリンピック」

「はい?」

「確かその前年に決まったんじゃなかったか?テレビで騒いでたのを覚えてる」

 彩戸は慌ててスマートフォンを取り出し、その記憶を裏付ける。

「た、確かに2013年9月7日ッス!でもどういう繋がりで?」

「世界的なイベントには、当然大勢の人間が集まる。そうなると警戒すべきは、東京のど真ん中での無差別テロ」


 “ソフトターゲット”。


 テロの標的として狙われやすい対象の中で、防備が脆弱なもののことを言う。

 多数の民間人が集まる空間はまさに“それ”だ。

 要人ではないから、分厚い護衛も無い。人質を何人か逃がしたところで、代わりはいくらでも居る。

 事件を起こせば必然的にニュースになるため、恐怖の伝播や主張の発信に持って来い。

 世界の注目が集まる祭典なんて、その極致だ。

 ましてやここは、軍事後進国日本。軍事に予算を下そうものなら、即どこかに叩かれる。

 テロの標的としては最適過ぎる。

「それへの対策どうすんだって心配が、おかしな風説に変わったんだろうさ」

「じゃあ無力化は無力化でも、『テロリストを無力化』…つまり“制圧”のための軍事研究っつーオチッスかぁ?」

「透明人間の出る幕は無さそうだな?」

 最初は“無力化”の噂から始まり、その後に“意識”だのという話がくっつく。珍しくもない噂の変遷。

 それでも彩戸は諦め悪く、「ステルス迷彩を持った特殊部隊とか」などと呟いていたが、最早暗宮は興味を抱かない。


 この話はここで終わり。未解決事件と国の秘密計画——の幻影——が、同時期に起こった、ただそれだけ。


 色々な偶然が重なった結果だ。

 

 そもそも

「公安が本当に動いてたのなら、簡単に尻尾を掴ませ過ぎだ。怪談よろしく誇張が入り、噂に尾鰭が生えたんだろうさ」


 その日はそれで解散となった。


 まだ納得がいかない様子の彩戸に、「とっとと寝ろよ」と伝え、独り寂しく家路を歩む。


 炎は早くも消えかけていた。燃料が尽きてしまったのだから。


 その日は自宅のアパート、その狭い一室でコンビニ弁当を突き、煎餅布団に力無く倒れ込んだ。

 

 ふと外の階段を昇る音がする。


 カン


 カン


 カン


 かん。


 金属製の音を響かせ、誰かが進む音がする。

 一歩ずつ、踏みしめるように。

 おもむろに、自室の扉が開いた。足音はゆっくりと、しかし確実にこちらに近づいてくる。


 暗宮は頬にむずむずとした、ほんの小さな痛痒を感じる。


 視線。

 これは視線だ。


 体が動かず、目も開けられない。


 相手を見たいのに、見ることができない。

 すぐそこにいるのに、捕まえることができない。


——やめてくれ


 もし目を開けて見てしまったら。

 もしそこに見えない何かを認めてしまったら。


——厭だ、やめてくれ。もう十分だ。世界は閉じてしまった。そんなの居ないって分かってるんだ。


 だから。


——だから俺を引き戻さないでくれ。このまま賢明な自分でいさせてくれ。

——ありもしないものを見せないでくれ。


 焦れた胸が焼け焦げたように苦しく、水中で走るかのような徒労感が全身を襲う。

 それが余計に動く意志を奪い、虚脱感が全身を支配する。

 足音が止まる。位置は枕元。

 そいつが屈み込み、手をこちらに伸ばす気配がする。

 暗宮は何もできない。

 なにもしたくない。


——もう厭なんだ

——探したくないんだ

——諦めたいんだ

——受け入れたいんだ

——厭だ、厭だ嫌だイヤだ

——イヤだよお

——やめてくれよお

——悪者なんていないんだ

——それを認める為には奴を——

 テーブルの上のスマートフォンが振動する。

 暗宮は咄嗟に跳ね起き、素早く周囲を警戒する。

 何もいない。

 気配も無い。

 着信を受けながら、玄関へと向かう。

「はい、暗宮」

 鍵は掛かっている。部屋は漁られた形跡なし。

「もしもし暗宮さん?」

 厭な夢。もう全て終わったというのに。

わたくし、丹畝市警察のわだちという者ですが」

 もう進展は無い。掘り下げる意味も無い。

「彩戸さんのことをご両親が探されています。昨夜『先輩に会いに行く』と言ったきり帰らず、連絡も取れないようでして、今そちらにいらっしゃいますか?もし居場所に心当たりがありましたら——」


 暗宮の耳にはもう届かない。


 体が硬直し、室内の空気は下がったように感じられ、しかし耳元ではくぐもった音がする。


 炎が勢いを取り戻すような音が。


 翌日、


 彩戸広助の捜索願いが出された。

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