3

※※※※

初めて会った時も

あいつは笑顔だった


あの直線的な建造物


あれを見た日の夜


笑って佇むその人影


それに対する僕の第一声は

何が可笑しいんだよ

だったと思う

我ながら幼稚すぎて赤面する

自分がつまらないのは自分のせいで

なのに自分を満たす何かを見つけようともしない

だけどそんな僕にもあいつは慈愛の表情を向けてくれた

何故僕に笑いかけてくれたのか

あなたが寂しそうだったから

だそうである


何故一人なのか

と問われたから


友達も家族もいる

と言ってやった


でもあなたは一人

と言われて


僕は何も言い返せなかった


探しに行かないの?


何を


あなたを満たしてくれるもの


きっと一人では見つからないんだ


会いに行かないの?


誰に


あなたと探してくれる人


いれば一人になんてならない


そういう僕の手をとって

あいつは笑顔でこう言った


ならあなたはこれで二人

一緒に探しに行きましょう


直ぐには意味が分からなかった

体が先に反応を返す

頬を熱が伝っていく

それは僕には止めようがなかった


止めようとも思わなかった

※※※※




「鬼がやったのよ」



 他に考えられないといった断定的な口調で、途直みちなお愛子あいこは忌々しそうに吐き捨てた。


 大人数の使用を想定された机。それが複数設置されたここは、食堂として使用されている場所である。調度類は木目調で品が良く、施設と言うよりも“家”にいるような気分にさせる。

 壁には所狭しと絵が並んでいる。クレヨンや絵の具によるもので、上手くはないが温かみがある。

 室内は清潔に保たれ、シミ一つ見当たらない。壁際に観葉植物や最新の加湿器、空気清浄機能付暖房、戸棚や本棚といった家具類。

 正直に言って、ちょっとここに住みたいと思う自分がいる。

 戸棚には、ここの主がとかく物を貰ってくるために溜まってしまった物品の数々。   カラフルで煌びやかな色ガラスが配された吊り下げ型のライト、エキゾチックな柄の手拭いらしき何か——汗拭きや風呂敷代わりに使われていることがある——、デフォルメされた蛇の木製キーホルダー、グネグネと細く捻じ曲がったような四肢を持つ木彫りの人形、半透明な貝で出来た風鈴みたいなもの…エトセトラエトセトラ。

 本当に何でも持って帰って来るようだ。

 外の砂場では小学生くらいの男女が、高校生とじゃれあっている。前来た時と比べると、人数が随分減ったような気がする。そう、自立心や反抗心が強かった連中の姿が見えない。恐らく独り立ちしたのだろう。自由がどうのとか真顔で言ってしまえる奴らだった。


「あれから私、ずっと探したんだ。だけど見つからなかった。だから、あれは鬼の仕業よ」

 愛子は机の上に視線を落としているが、多分その場所を見ているわけではないのだろう。その姿に見える執念から、彼女が夜持を大切な家族だと、そう思っていたことが伺える。

 俺はそんな彼女を見るのは初めてだった…ような気がする。しかし、この3年間何度も繰り返された表情なのかもしれない。その隣で彼女の双子の妹である優子ゆうこが、姉に寄り添い支えながら、気遣わしげに様子を伺う。

 その湿った瞳が、彼女の心労をくっきりと映していた。


 途直姉妹とは顔見知りである。共通の知人によって繋がった縁であり、その“共通の知人”というのが件の夜持だった。

 夜持と幼馴染と言っていい俺は、当然その家族ともちょくちょく顔を合わせており、俺の人生を構成する人間関係の中では、夜持の次に濃い繋がりだ。と言っても、向こうは兄弟の友人といった程度の認識しか持っていないだろう。ただ、夜持のことを大切に思っていた彼女達は、友達が少ない彼の為に、俺という人間も大切に扱ってくれた。


 夜持行人の友達であること。

 彼女達が俺に願ったのは、それだけだった。


 夜持の「目」が見つかったあの日も、俺は彼女達に会っている。

 そう、この姉妹は夜持と“家族”である。そしてどうやら“依頼人”でもあるらしい。


 愛子は未だ制服姿だった。

 俺と同じ渠蔵教育学校に、姉妹揃って入学したのは、夜持の影を追い求めてか。現在中等部の2年生である。

 よく思い出してみれば、うちの学校に入りたいと何度も口にしていた気がする。

 小学生時代から生物学に興味を持ち、成績優秀、学校での人望も厚い彼女は、「生物研究部再興」という生物科教師の野望を一身に背負わされており、「生物科」に足を運ぶところをしょっちゅう目にする。今日も今日とて、遅くまで捕まっていたらしい。

 つり目がちな眼、パーマがかかったセミロング、どちらも色は明るい茶色。中学生とは思えないほど発育のいい体型に低身長。


 一方優子は白のニットワンピースという私服姿。

 おっとりしたたれ目は柔らかな印象を与え、黒いロングヘアーはさらさらと指通りの良さそうなストレート。彼女は常に表情を崩さず、微笑んでいるか、哀しんでいるかしかない。肌色面積が制服の時より広く、二の腕や太ももが無自覚にはみ出ており、あまりそちらの方を見れない。ただでさえ体のラインが出ているというのに。いや、彼女と向き合うのが落ち着かず、元から目も合わせられなかったのだ。そう考えると、何も変わらない。あどけなさの中に、色気を持つ少女で、姿形は同じであるのに、印象は姉と対照的。器の広さが表出しているのか、姉よりも一回り大きく見える。

 清楚で可憐、その形容が似つかわしい。

 意外と強かな甘え上手で、「『お願い』されると断れない」とは、男女問わない彼女への弱み。俺自身も思い当たる節がある為、彼らを笑うことはあまりできない。

 美人で優しく、母性のようなものを感じさせる一方で、年相応の幼さも見せる。弱冠(じゃっかん)14歳の少女でありながら、包容力の権化である。俺のような奴でも夜持の友人というだけで、家族同然に親しみを持ち、自慢やら愚痴やらを受け入れてくれた。世の中高生男子からすると理想的な異性であり、だから当時小学生だった彼女に、気に入られようとしていた俺は、悪くないと弁明したい。

 得意分野は姉と同じで、幼い頃から愛子と一緒に、解剖やら標本作りやらをよくやっていた。


 これで愛子がインドア派で、優子が空手だか柔道だかを嗜んでいるというのだから、やはり人とは分からないものだ。


 藁にも縋りつき溺死する勢いだった愛子に、優子が伝手で“探偵”を見つけて来たことが、今回の“捜査”の発端だったらしい。

 ついでに、俺を巻き込んだのも、彼女達の要望だそうだ。


 どうしてそんなことを願い出たのかは、分からない。


 赤の他人のように振舞われても、文句は言えない。そう思っていたのに。

 顔から火が出そうな気まずさを紛らわす為、愚にも付かない質問を口に出す。


「あの当時、あいつの周囲で何か変わったことあったか?」

「何かから逃げてた。見えない何かに怯えてるみたいだった。何もないとこに向かって、何か呟いてることもあった」

 愛子はまるで視線を動かさない。

 優子は勇気づけるように背中をさする。


 一方俺は少なからず衝撃を受けていた。

 俺は夜持のことを親友だと思っていたし、向こうもそう思ってくれていると当然のように信じていた。

 だからこそ、行方不明になるまであまり様子が変わらないように——むしろいつもより明るく——見えた夜持が、何かに怯えていたという話が受け入れがたいものであった。


 つまり夜持行人は日高創のことを、悩みを打ち明けられる程の友だとは考えておらず、日高創は夜持行人の様子がおかしいと気づけないくらいには彼のことを知らなかったということを意味するからである。


 だが、目の前の“遺族”を差し置いて、俺がそんな傷つき方をすることはきっと許されない。

 何故なら俺は、夜持行人の死から逃げ続けてきたからだ。

 いけ好かない自称探偵にこうして引っ張り出されるまで、調べようとすらしなかった。認めるのが怖かったのか、ただ忘れたかったのか。

 俺はチラリと、優子の方を盗み見、直ぐに罪悪感にまみれ目を逸らす。

 優子は美人だが、日下のような怜悧なタイプとも、愛子のような情熱型とも違う。暖かい太陽の下、温もり広がる原っぱのような人間だ。

 そんな彼女が、肌寒い曇天の如き形相だ。沈んでいながら焦っているような、濁り切ってしまった必死さ。

 それを直視出来る程、開き直れやしなかった。

 そんなにも悔いるなら、何故あの日、俺は逃げたのか。

 今からでも、その決断を覆したかった。


 こんなクソ野郎とは違い、夜持の“家族”は諦めていなかった。きっと、手を尽くして方々探し回ったのだろう。それほどまでに「答え」が欲しかったのだと分かる。それこそ名探偵を僭称せんしょうする、怪しい少女に頼み込むほどに。


 夜持や途直姉妹は孤児である。


 夜持はふざけた罪滅ぼしと共に、姉妹は二人揃って、ここ「未来の故郷ふるさと園」の前に置き去りにされていたらしい。

 ここの園長の湯田とうだ夕刻せきときさんは、恰幅の良いオバちゃんであり、行動力の伴ったお人好しである。いつもエプロン姿で、口癖は「ウチの子達は、この国の未来を作る宝だもの」。20年程前、個人でここを立ち上げた傑物でもあり、その溢れ出る博愛の精神で、見捨てられた者達を拾う神となっている。

 若い頃には諸外国を巡る自由人で、戸棚の怪しい物品の数々も、その時の土産物なのだと言う。

 在りし日の夜持曰く、「最近凝り始めた特製ジュースが最悪であること以外に欠点が無い人」。それだって子ども達の体調管理の為に、自家製のスムージーみたいなのを作っているという、徹底した聖人振り。

 いつも豪快に笑い、暇を見つけては子ども達と遊び始め、口癖は「お天道様が見てるよ」。明るくおおらかな女性だったが、夜持が居なくなってからは、どこか元気が無い状態が続いているらしい。

 余計なことを考えないようにするためか、最近は以前にも増して忙しそうにしているのだと言う。引き取り手が見つかる子どもも増えているとか。

 さっきちらりと顔を合わせたが、姉妹をかなり気にしていた。憂慮するかのような顔で、彼女たちを見守っていたが、目を離したその隙に、どこか遠くへ消えてしまう、とでも案じているのだろうか。怯懦きょうだな態度が表面化していた。

 そんな、血の繋がらない“息子”の失踪に本気で心を痛めるような、絵に描いたような聖人に夜持達は育てられた。


 同じように捨てられ、同じように拾われ、同じようにここで育ち、そうしているうちに彼らは自然と、互いを家族だと認識していた。俺には分からない夜持の機微も、この姉妹なら分かるのだろうか。


「夜持さんが何に怯えていたか、具体的な心当たりはありますか?」

 縋られた探偵は平常運転。憎らしいほどにぶれない態度だった。

 首を傾け腕を組み、目を閉じながら思考する。

 さっきから手だけは、湯田さんから出された茶菓子の類を、遠慮会釈なく摘まんでいるが。

 と言うかこいつ、随分馴染んでいるが、信用できないのは俺だけか?

 今時探偵の仕事内容を、推理と事件解決と決めつけて、実行する中学二年生など、「怪訝な目で見ろ」と言ってるのと同じ。

 もう少し警戒されても良いと思うが。


「分からない。ただ、何かを奪われるって言ってた。でしょ?」

 愛子の視線もまた揺るがない。相も変わらず机上を睨む。


 同意を求められたところで、俺には何も分からない。

 今もその口から語られる、夜持の生前に納得できない。

 「奪われる」。

 その言葉に引っ掛かる。否定の言葉が喉まで出かかる。


 俺の知る夜持は物欲の薄い、執着しない男だった。


 正確には「欲しがっても手に入らない」と、欲しくなる前から諦めるタイプだ。


——人は、どうしたって、どれだけの時を重ねたって、独りなんだよ。

——自分と世界の間を補う何かが無い人は、完全にはなれない。

——“絆”とは、それを為したと錯覚するための仕掛け。

——自分の気持ちを100%相手に理解させることが出来ないなら、分かり合えたとは言えない。

——そして、そんなことは無理なんだ。

——だから、何を貰ったとしても、どれだけ失ったとしても、徹頭徹尾意味なんてない。

——初めから、一つも自分の物になんてなってないんだから。


 今思い返しても、中学生らしからぬ思い詰めっぷりである。


 夜持のその理論は俺にとって、絶望でも、安らぎでもあった。

 自分が何をしようと、大して変わらない。

 その思い付きは、反吐が出る程甘美だった。

 だってそうだろ?

 誰も傷つけないし、何も間違いじゃない。


 最初から、それしかなかったのだから。


 彼との会話は、苦痛で、心地良かった。


 俺はどう頑張っても、これ以上は望めないのだと、どこかで妥協し自身を騙すしかないのだと、刻まれ続ける地獄だった。

 空っぽなのは俺だけじゃないのだと、理解されないのは普通なのだと、証明され続けるぬるま湯だった。


 諦念という揺り籠の中で、一人と一人で苦笑し合う。世界へ中指を立てるような関係性。


 だった、というのに。


 知らない間に何を得て、何を失いつつあったのか。

 まさか眼を奪われることを、予見していたとは言うまい。


「行人、何が欲しかったの?」

「あとは…青がどうとか?」

「青?ああ、何だったか…」

 その単語は記憶にあるような気がする。

 ただ、どういう話だったか思い出せない。

 常日頃から馬鹿な話ばかりしていると、思い出も自然と刹那的になるものだ。

「鳥頭先輩は何か忘れたようで」

「鳴き真似してやろうか?モノマネは結構上手いぞ?」

「結構です、余興にすらなりません」

——ああ、そうかい。

「青は青でしょ?みんな見えてない?…そっか、確かにそうかも…」

——愛子はそろそろ戻ってこい。


「人間関係に変化は?誰かに出会ったとか、誰かと仲良くなった、険悪になった、疎遠になった、親密になった、なんでもいいです」

「私、行人と仲良くやれてたと思ってた。だけど、そうじゃなかったのかな」

——まだやるかこいつ。

 愛子が孤独な思考に沈み、優子が代わりに可能性を提示する。

「にいさん、恋をしていたような、そんな気がします。そんな感じでした。」


「恋ぃ?」


 今度こそ言葉は放たれた。

 夜持行人に恋の季節。世界で最も不協和な調べ。


「夜持のやつ、人を好きになれたのか」

「誰もが先輩のようなひねくれものではないんです。話の腰を折らないで貰っても?」

 俺に対する憎まれ口も健在。どうやら当たりが強いのは俺に対してだけらしい。


「あんたまだそんなこと言ってんの?」


 そこで愛子は初めて視線を動かした。妹を睨むためというのが悲しいところだが。

「だって…あの当時のにいさん、おかしかったじゃん。それまでトゲトゲして、無気力だったんだよ?『惰性で生きてます』って感じで。なのにいきなり穏やかに笑ったり、急に前向きになったりする、生きることに積極的な人になってた。私、聞いたんだよ?『最近何か良いことあった?』って。そしたら——」


——人は一人じゃ生きられないって、分かったんだ


 夜持はそう言ったらしい。

「あれは絶対恋だって」

 優子は愛子に言い聞かせる。


 聞けば聞くほど自分の中の、“夜持”像とかけ離れていく。本当に同一人物だろうか。


 思い浮かぶ夜持の顔は、空っぽの笑い顔と決壊した雨模様。

 死に物狂いは引退し、感情は常に負に振れる。

 夜持行人はそういう男だ。

 溌剌、快活、明瞭な奴など、一片たりとも予想できない。


「夜持が誰かを好きになるなんてあるわけないでしょ。私たちにすら興味があるか微妙だったのに。ねえ?」

 言葉が進む程、語気は弱まる。

 最後に至っては目が泳ぎ、再びくうを見つめていた。


 その結論は、とても寂しい。


「もし彼と深い関係にあった人物が存在したなら、警察が真っ先に探すでしょう。暗中の光、有力な情報源、状況次第では容疑者です。しかし捜査線上にそのような人物が上がったという話は寡聞にして聞きません」

 何が「寡聞にして」だ。普通は捜査状況すら知らないだろう。一体どこでそんな情報を掴むのか。

 ともあれこれで三対一だ。恋人説はあまり有力ではないようだ。

しかし夜持が変わったことは、どうやら疑いようがない。その原因は一体何か。


「探さなきゃ。そして、取り返さなくちゃ、うん」


 愛子の瞳は、また何も映さなくなった。

 学校で見かける愛子は、何も変わらないように見えた。普段は抑えている反動か、それとも見えないところでは日頃からこうなのか。


 俺は本当に、何も知らない。


 ここでは俺は何に見える?執念を燃やす当事者と、それに寄り添う優しい遺族、事件を解決しに来た探偵と、ノコノコ遅れて来た恥知らず。


 我ながら、今まで何をしていたのか。

 今更、何をしに来たのか。

 ここまで一切、出る幕が無い。


 この場での一番の場違いは、日下探偵なんかじゃあなく——


——俺だ。


 今ここで最も情報が遅れている。

 今まで何もしてこなかったからだ。

 取り戻さなければならない。

 挽回しなければ、そして「約束」を今度こそ果たさなければ。


 要請はされた。向こうから呼んだのは間違いない。だがそれは、何の役にも立たないことの言い訳にはならないのだ。

 優子も、単なる傍観者を呼んだわけではあるまい。

 だから、聞き手として甘んじる事に、耐えかねてしまった。


 気持ちだけが前のめりになる。

 どちらに踏み出せばいいのか、それすら分からないのに。


「夜持は他に何か言ってなかったか?鬼だの透明人間だの警察だの目玉だの」

 結局、何かしようとして絞り出された言葉は、何の価値もない問だった。

「先輩…」

「言ってなかった…何も言ってくれなかったのよ…。どうして?行人…」

「何でもいいんだ、よく思い出してくれ、些細なことでも事件を解くヒントに——」


「思い出したわよ!!何度も何度も!この3年間思い出さなかった日はない!」


 そこで愛子が激昂した。両手で机を叩いて悲鳴のような怒号を上げる。

「私達に知らないことは、後は友人との会話くらい!それはアンタが知ってるんじゃないの?ねえどれくらい思い出した?何回記憶を遡った?アンタも当然夜持のことずっと考えてたんでしょ?だって親友だもの。夜持は何か言ってなかった?」


 情けないことに、俺は何も言えなかった。


 勝気だが心根は優しい愛子に、怒鳴られるとは思っていなかったし、何より痛いところを突かれていた。完全なる墓穴であった。

 夜持のことは、むしろ考えないようにしていた。彼女達のように、俺は強く在れなかった。

 逃げ続けたが、この敵意。居た堪れない、針のむしろ


 世の中どれだけ誤魔化していても、どこかで帳尻が合うようになっているのだろう。


 体中の穴から、重い液体を流し込まれたように、声はおろか吐息すらも——



——俺は溺れてなんかいない!



 優子は愛子を落ち着かせるように、その豊満な胸に搔き抱く。

 自分の中で、守るように。

「日高クン、私達は本気なんです。愛ちゃんの為にも、私自身の為にも、やれるだけのことをやりたい。日高クンは、学校の友達ってだけだったから、実感や喪失感が湧かないのかもしれません。けれど愛ちゃんにとっては、魂の一部がむしり取られたような痛みなんです。私も、今の状況はとても虚しい。空っぽな気分です。頑張ったのに手に入らない。だから、協力して欲しいと思っていました。私達が報われるためにも。日高クンが、あの日のことを覚えているなら、行人にいさんを親友だと思っているなら、それを望むのではないか、そう思いもしました。けれど中途半端な気持ちなら、無理して付き合って下さらなくても結構です」


 穏やかで明確な優子の拒絶、それも俺には致死の振盪。

 復調できずに無防備だった、愚かな俺はもろに食らう。

 拒絶。

 そう、俺は拒絶されたのだ。

 誰に?

 途直優子に。

 それが何故か、たまらなく悲しい。

 けれど、立て直す方策は、それを可能にする言葉は、何処にも見当たらなくて。


「でももし、日高クンにまだその意志があると言えるなら、。私達の為に、行人にいさんを探してください。」

「必ず見つけるわよ。夜持を救うの。アンタもやるわ。きっとやる。だってアンタは、夜持の親友でしょ?」

「救うって…夜持は——」

「夜持は居る。生きて居る。だったら、私が見つけないと」


 そうすることが当然だという、確固たる姿勢を見せる二人を、直視することができなかった。


 震える愛子に「大丈夫だよ、愛ちゃん。私がついてる」そう呼びかける優子。

 「進展があり次第連絡します」そう言って席を立つ日下。


 それらを前にして俺は、


 逃げ出した筈のクソ野郎は、


 到頭とうとう最後まで、


 まともな答えを返せなかった。

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