鬼
1
※※※※
どこだ
どこだ
どこにいる
あいつはどこに
どこに行けば
時間がないのに
約束したのに
手遅れなのだろうか
諦めるべきなのだろうか
奴らが言ったように
皆が言うように
いや、もともと見えてなかったのだ
この世界は青くなかった
ならば探し方は自ずと分かる
きっと会える
必ず見つける
あいつが待っているのだから
今頼れるのは
彼女しかいない
※※※※
「鬼が…いえ、あまりイメージが湧きにくいですね」
少女は小首を傾げ、少し間を置いた後に改めて問う。
「暗闇で人を刺し殺すにはどうしたらいいと思いますか?」
渠蔵高校3階西端、生物科。
ホルマリンの陰気な匂いとやたら精巧につくられた人体骨格模型、身ぐるみ剝がされた成れの果てたる骨格標本達、水槽やケージの中で蠢く下等生物共に、色とりどりの物体を閉じ込めたシャーレ群。それら妖しい物品によって、室内の空気は見事に澱んでいた。特に人体模型は新しくなってまだ3年程であり、新品だからか「触るな」と貼り紙がしてあると言うのに、この場所に充満する瘴気のようなものに
この空間は忘れ去られて、そのまま腐ってしまったのだろうか。
まるで死がみっしりと詰まった結果、時が止まったかのような閉塞感があり、探せば人の死体でも出てきそうだ。
しかし、俺の目の前に腰掛けている美少女が居れば、魔窟は秘境へと早変わり。そこに立つだけで場を
「お前は一々俺の気を滅入らせなければ会話を始めちゃいけないのか」
「ほら、また質問に答えてませんよ?実は言語能力猿並ですか?丁度生物科ですし標本にしましょうか?お仲間も居ますし寂しくはありませんね」
そう言いながら、彼女はまたその視線で俺を
学校には持ち込み禁止だろなどと、どうでもいいことに対してすら憤ってしまう。
今この時、彼女の言動も仕草も、万事が神経を逆撫でする。
「お前に聞きたいのは一つだけ、『何故あいつの名前を出したのか』。それさえなければお前への評価は、“頭のおかしい奴”で終わりだった」
「ふーむ、では今は?」
「暫定で敵だ」
そうだ。
この少女は、危険だ。
「それは本当に私に言ってます?誰か他の人間に向けたものでは?」
薄目を開けて、見透かすように、少女は俺の内側に踏み込み、「まあいいでしょう」あっさりと引く。
「それではその“敵”を暗闇で殺すにはどうすればいいか分かりますか?」
こちらの敵意もどこ吹く風で、少女は強引に話題を戻す。
話が進みそうにない為、一旦振られた問に乗ることにした。
「暗闇ならむしろ殺す側が有利だろ。忍び寄って後ろからグサリだ」
「著しい想像力の欠如ですね、先輩」
上から目線な物言いなのは、彼女の常なのだろうかと辟易する。
「暗闇で最も困るのは、自分の姿すら見えないことですよ」
そう言って彼女は立ち上がり、両手を横に大仰に広げ、
「ほら、目を瞑りながら私を捕えてみてくださいよ。ここから読んであげますから、位置は分かるでしょう?暗闇に自身がある根暗先輩」
挑戦的にそう言い放つ。
芝居がかった所作と口調、しかし表情は冷然として変わらず。どうやらこいつは無表情がデフォルト、偶に顰め面という配分らしい。
取り敢えず言われた通りにやって見たところ、俺の三半規管は存外に頼りないという結論が出た。因みにその時追加のチョコレートをパクついていた少女の瞳は、「本当にやるのか」という呆れを雄弁に物語っていたが…それは見ないことにした。なんだよ結構表情出るじゃねえか。
「流石に例えが極端過ぎんだろ、そんなに気になるなら暗視ゴーグルでも買うことをお勧めする。誰を殺すか知らんが」
一旦前段の過程を取り繕ってみるが、成功しているかは知らん。
「つまり、自分の姿も、凶器さえも見えない状態で人を殺すことは困難であると、そう認めるんですね?」
「だったら一体——」
「夜持行人。事件当時中学一年生、13歳。2012年の11月7日に失踪。同年12月25日の午前11時13分、深詞町内の住宅街は当時、平成25年豪雪の影響で、前日の夜に路上に大量の雪が降り積もっていました。その内の一箇所——この近辺ですね——、その雪中に投棄されていた眼球が発見され、鑑識の調べで同氏のものと判明。切断面から、微塵の容赦も躊躇いも無く、鋭い刃物で抉り取られたと思われた。以降警察は誘拐殺人事件として捜査に乗り出すも、本人も怪しい人物も目撃されていなかった。そのまま大きな進展は無く現在まで未解決」
唐突に
それは俺の
触って欲しくは無い場所だ。
「覚えていらっしゃいますか?」
覚えているに決まってる。
十数年生きてきた中で、近しい人間の死に出会うなど、あれ以外に経験が無い。
いや、本当にそうだっただろうか。
とにかく、あれだけ強烈に刻まれて、忘れることなんてできやしない。
「凶器どころか遺体すら出なかったと言います。眼球に生活反応が認められたことから、抉られた時には彼は生きていたことも分かっています。なのに足取りが全く掴めなかった。誰も彼を見ていなかった。悲鳴一つ聞こえなかった。抵抗の痕すら残っていなかった。まるで目だけを残して、きれいさっぱりこの世から消滅したかのように。もしくは見えなくなったのでしょうか。それこそ透明人間のように」
「さっきから何の話だ。面白半分で
浮かぶのは、困り眉の女の子。
あの日、俺が裏切った人。
内面の苦渋から溢れ出た、害意の籠もった恫喝に、少女は眉一つ動かさない。
「結論を急ぎ過ぎです先輩。想定通り短絡的ですね。そんな先輩の興味を引くものをご用意しました」
4人掛けのテーブルの上に、白に覆われた細い指で、一枚の紙を滑らせる少女。一瞬その指先の動きの、
それはどうやら丹畝市の地図であるようだった。ところどころに赤色で印や文言が描き込まれている。
「これは?」
「この辺りでは興味深い怪談が残っていますね。眼球を求めて彷徨う鬼がいるとか」
「ここらじゃ有名な与太話だな。“鬼”かつ“不可視”とか勘弁して欲しいな。インフレが激しいバトル漫画じゃねえんだからよ」
そう、夜持の死——あの眼球の発見後、彼の生存を信じている者はほとんどいない——をきっかけに、よく分からない噂が広まった。
曰く、「目に見えない鬼が、血に飢えて徘徊している」
曰く、「自分を見ることができる者の目を潰して回っている」
曰く、「国の実験で生まれた生物兵器だから、秘密裏に調査されている」
不可解な事件と、手がかりすら見つからない不安。そうやって積もった負の塊を、なんとか消化するために、でっち上げられた嘘っぱちである、と俺は考えている。
もしそれらが本当なら、夜持を殺した存在は、裁かれないことになる。
それではあまりに救われない。
「これはその噂が現在伝播している場所と、内容の傾向を纏めたものです。」
「暇だな、お前…」
「先輩程無意味に時間を浪費してはいません」
その憎まれ口を否定できる材料を持ち合わせてはいなかった俺は、苦し紛れに詰問する側に回る。
「この地図がなんだってんだ?見せられても『わー、すごーい』で終わるのだが」
「観察力も持っていないのならいよいよ人間である必要性がありませんよ?」
流石に人間を失格したくはなかったので、思いついたことを口にする。
地図には細かいが整った字で、“鬼”や“透明人間”といったワードが登場する噂が蒐集されていた。
それは市内全域に亘り——
——市内全域?
「やたら広い地域に分布してんのな」
「『広い』?違いますよ、『広過ぎる』と言うべきです。明らかに一つの失踪事件としては影響力が大きすぎます。」
「まあ、そんなに刺激もない町だし…」
市内に都会っぽい場所はあるが、正直俺の住む地域は田舎であり、どこまでも続く田園風景、閑散とした商店街、住宅街から歩いて行ける範囲にある山と、あの川…は、今は関係ないか。
最近は外からの人の出入りも増えてきたが、「大都会」とは到底言い難い。
「それでも市内全域はおかしいでしょう」
「誰かが意図的に噂を広げてるとか?」
「否定はできません。しかしそれならその人物の周りのみに広がります。満遍なく浸透するのはやはり不自然です。意図的にやっているとしたらそれこそ暇人か、集団か、“政府関係者”、はたまた“秘密組織”でしょう。そんな人間居ればの話ですが」
「たまたまうまい具合に広がったんだろ」
「そうかもしれません。ですが、それ以外の理由があるかもしれません」
「それ以外って…」
その時俺は思い出す。先ほど目の前の少女は何と言った?
「一つの失踪事件としては影響力が大きすぎる」
すなわち——
「他にも消えた人間が居ると?」
「珍しく察しがいいですね先輩」
「待て待て、妄想を
「そこがこの話の肝です。こちらをご覧ください」
彼女が差し出したのは、新聞記者か刑事が持っているような、取材メモのように見えた。
——隣の家族がいつの間にか引っ越していた。理由は知らないが、鬼を見たからだと皆言ってる(40代主婦)
——明け方近くに「人殺し!」という声を聞いた。翌日の朝に刑事が訪ねてきたが、事件の話はそれ以降聞かなかった。しかしそれから、近所の顔馴染みに会わなくなった(30代会社員男性)
——今年で92歳の祖母が「目を潰された死体を見た」と騒いでいた。その後警察が事情を聴きに来たが、死体が見つからなかったことから痴呆ということで片づけられ、祖母は施設送りとなった(20代大学生男性)
——死んだ父が人が一人消えたと話していた。その人は、少し目を離した際にいなくなり、その後二度と会えなかった。父は『鬼に連れていかれた』のだと言っていた(50代パート勤務女性)
「………なんだこりゃあ…」
「噂の収集をしている際に、ついでに聞けた話です。」
それらは「どこかの誰かが」とか「友達の友達が」とか、そういった無責任な流言飛語ではない。
自分自身や身近な誰かが、触れてしまった“事件”の欠片、その名残だった。
無意味に脚色されず、元の状態のまま提示された日常の断片だった。
厭な感じがした。
いつの間にか見てはいけないものを見せられているような。
怖くて覗きたくもなかった暗闇が、向こうから会いに来たような。
——やめろ。
こういった形式の情報は、やめてくれ。
真に、迫り過ぎる。
「おいおいおいおい、お前はまさかあれか?本当に国に隠蔽された透明な鬼が人を殺し続けていると、そう言いたいのか?」
「いいえ、まさか」
「なんだお前!?」
都市伝説を裏付ける根拠を持ってきた少女は、あっさりとその可能性を否定する。
「鬼が誰にも見られず人を殺すなんてナンセンスです」
「何人も殺して死体なし、目撃者なし、警察の動きは不自然、犯人も捕まってないとなると、『目に見えない』って部分は信憑性が出てくる、ってこの流れで言いたいんじゃあないのかよ!?」
「若くしてボケが始まりましたか、先輩?さっき結論は出たでしょう。自分の姿が見えない人間が、人を殺すことは困難であると」
話は最初に戻ってくる。
自分で自分の体がどこにあるのか、視覚的に把握できない人間が、目撃者も証拠もなく人を——それも複数回に渡って——殺し続けることの不可能性を少女は説いている。
「ナイフとかの持ち物は透明にならないとかは?透明人間が服を脱がないと透明じゃないのはお約束だろ?この場合は鬼だが」
「その場合、生きた人間なり遺体なりが目撃されたり、発見されたりしていないと不自然です。透明にして持ち運べないのですから。返り血を透明にできずに簡単に見つかるという問題も発生します。それはもう、誰にも見れない透明人間ではありません」
警察が介入しているということは、防犯カメラの記録、犯行時に周囲にいた人間、偶々その辺りを通りかかった浮浪者に至るまで調べ上げているだろう。
それでも見つからなかったということは、犯人は誰にも見られず、手がかりも一切残さなかった。自身や周囲の物の透明化を任意で切り替えられる便利な——というより都合のいい——鬼か。
もしくは——
「警察に匿われているって部分だけ真実…とか?」
「最悪その可能性もあるかと」
警察の側が犯人を既に捕らえており、尚且つ隠していると仮定すれば、辻褄は合う。が、そうすると今度はそんなことをする理由が分からなくなる。
「更に根本を問えば、歩くことさえ普通は困難ですよ。平衡感覚が正常に機能せず、更には見えない身体が、どこにぶつかるか分かったものではないんですから。足の小指をぶつけやすいのは、そこが身体感覚の境界線であるため、つまり見ないで感じ取れる領域、その限界ギリギリであるから、という話があります。足先とは、脳から最も離れた場所にあるもので、意識から外れやすいのだと。ならばまず間違いなく、“鬼”の小指はボロボロでしょうね」
「もういっそ、ステルス迷彩を装備した特殊部隊とかは?『特別な訓練を受けています』ってな感じで」
「プロの犯行が一番あり得ません。もしそうなら、眼球という証拠を残さず連れ去りますよ。事件自体が明るみに出ません」
いずれにしても荒唐無稽な話であることには変わりはない。
存在するかも分からない連続殺人事件。それも透明人間が犯人だと囁かれ、そうだと仮定すると不自然な点があり、それを解消しようとすると、より無理のある陰謀論へと転がり出す。
「無駄に空想の翼を広げないことです。鬼やら国家権力の暗躍やらはおまけです。事実として存在するのは、目を潰され、姿を消した人間が一人。時を同じくして透明人間の噂が立ち、急な引っ越しや不可思議な行方不明が頻発、その全てが4年前の年末から2年前の秋までに起こり、巷説が拡散。けれど明確な事件として扱われていない。その全てが、現在に至るまで表面上は解決していないということです」
出来の悪い怪談みたいだと思った。
真相もオチも用意されていない、出来損ないの御伽噺。
「私はこの一連の事件の裏に何らかの絵図を引けると考えています。それも相当複雑な」
「そうだとして、お前はどうするつもりだ。何故その話を俺にする」
「協力して頂くためです。あなたに、この事件の解決を」
少女は宣言する。それが決定事項であるかのように。
一番質が悪いのは、目の前の少女が気に入らず、状況も完全には飲み込めていないにも関わらず、その申し出を断る気がない俺自身だった。
あれは、クリスマス。
夜持の“家族”が俺に会いに来た。
——お願いです!日高クン!
——愛ちゃんが、このままじゃ…
——だから、手伝って欲しいんです!
——にいさんを、一緒に…!
あの日からずっと、俺は約束を守れないクソ野郎のままだ。
だけど、まだ間に合うだろうか?
俺は、彼らの一員になれるのだろうか?
——楽観的だな。
冷めた誰かが言っている。
——自分がどんな奴か忘れたか?
——真人間
違う。
忘れたいからやる。
忘れる為にこそやるんだ。
今再び、幕が上がる。
俺はこれが第三幕、終わりの場面だと良いと思った。
ただ、突然現れた変人の提案を、これ幸いと肯定するのも
「お前は、何者だ?何故こんな調査なんかやってる?」
こちらが拒絶しないことを察した少女は、そこでようやく俺に名乗る。どこからか取り出した名刺を手渡し、
「申し遅れました、私は
名刺には“日下調査事務所調査員兼アドバイザー”という、何を指しているか分からない肩書。
「先輩でも理解できる言葉で言えば」
——“探偵”、になりますかね。
そう言って日下真見は、
初めて、
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