てのひらの虚像

立花

「止まない雨はない」

 止まない雨はない、とはよく言ったものだ。天気予報などただの空想で、もしかしたら、雨は本当に降り続けるかもしれないのに。

 冷たい初夏の一夜、男はバス停に立っていた。霧雨が、男の紺色のスーツや通勤鞄、閉じた傘を撫でていく。遠慮がちに立っている古いバス停の屋根は、煽るような黒南風の前では無力だった。

 ポケットから取り出したスマホの画面には、雨水が数滴貼り付いており、それを持つ男の右手は、湿気で汗ばんでいた。男は親指で画面をタップする。

 SNSを開くと、華やかな画像とともに人々の日常が演じられていた。結婚した友人、キャリアを積むかつての同僚、田舎へ越した級友。取り残されたのか、或いは、選ぶ道を間違えたのか。

 下らない。男はそう思ったが、次第に、睨むように画面を凝視していた自身の目つきには気がつかなかった。

 雨だけが微かな音を立てていた。

 バスはまだ来ない。


 止まない雨はない、そう言えるのは、雨の降らない街に辿り着くことができた、一握りだけなのに。今まさに雨雲の下にいる人間には、それがいつ止むのかなんて分かる筈がないのに。

 己に降る雨。それは残酷に、理想と現実でできた果てしない溝に溜まり続けていた。

 諦観にも近い絶望と後悔が、いつの間にか男の右手を握っていた。やがて大きくなりすぎた黒い影は、少し上から男の方を見澄ましている。

 ちょうど、バスが来たようだ。

「今日も、明日も、続けるしかないよ。さあ、行こうか」

 黒い影に手を引かれ、男は開いたドアからバスに乗り込む。座席はすっかり埋まってしまっていて、入り口近くの手摺りを掴もうとしたとき男は、右の手のひらにべっとりと黒い液体が付着していたのを見た。彼らを乗せたバスは車体を軋ませながら発進し、暗澹とした町に沈み込んでいった。


 雨が降る。今日が終わっていく。

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