第45話 大洋

 ジヤに触れた瞬間、周囲の粉塵が活発にうごめき出した。その勢いに体が吹き飛ばされそうになるが、床に爪を立てて何とかこらえる。やがて、ジヤを覆っていた黒い粉塵は少しずつ吹き飛んでいった。



 禍々しい、化け物の姿ではない。懐かしい、友人の姿が見えてきた。俺は久々に見た、その美しく光る赤い目に見入る。ボサボサの黒髪は、相変わらず毛の一本一本が好き勝手な方向を向いていた。俺は、彼の頬に左手を伸ばす。




 裏の反対が表で




 黒の反対が白で




 怒りの反対が喜びで




 悪魔の反対が天使で




 ならば、魔王の反対は何なのだろう




 今の俺は、一体何者なのだろう




 いや、わからなくていい




 きっと、わからなくてもいい




 ギルは、懐かしい友人の頬をゆっくり撫でた。




 「「ああ、やっぱり君はすごいね」」




 「「君の……言った通りだ」」




 二つの声がその場に反響した。一つは間違いなくギルの声だ。もう一つの声も、誰かの声に似ているような気がしたが……いや、そんなわけがない。今、あの三人は動けないはずだ。自分の勘違いだろうと、先ほどの声のことは振り払い、目の前の出来事に集中する。俺の体は、もうほとんどが羽毛に覆われていた。骨格も、人間の物から鳥類の物へと変化している。



 パリン



 何かが破裂するような音が聞こえた。俺の何かが、壊れた。同時に変身魔法が完全に解かれて、俺は人の姿を失ってゆく。目の前の友人は、あまりの衝撃に気を失ったようだ。俺の視界も、白くホワイトアウトしていく。最後に俺の目に映ったのは、白い空間に浮かぶ彼の黒髪だった。





 誰かが遠くで話をしている。聞いたこともない声だ。懐かしい友人の声を期待していた俺は少しがっかりした。意識が浮上していく度に、その声ははっきりとしてきた。太くて低い男の声と、変声期前の高い少年のような声。



 俺は、ゆっくりと目を開けた。しばらく視界がぼやけていたが、何とか焦点を合わせてみる。俺は仰向けに倒れていたようだ。ゆっくりと首を声のした方に曲げると、そこには先ほどの声の持ち主と思われる二人の人間が座っていた。いや、人間と呼んでもいいのだろうか。一人は黒く肩上ほどの長さの髪をした大男だった。人間の姿をしているとはいってもその目の白い部分は黒く塗りつぶされ、背中からはヒレのようなものが生えていたが。一方はまだ十歳ほどの小さな少年だった。小麦色の髪の両側からは角のようなものが飛び出ている。彼もまた、人外であることを示すように両手が鱗に覆われていた。



 ふと少年のエメラルドグリーンの目が俺の方を向いた。



 「あ、起きたみたい」


 


 少年は振り返り、後ろに声をかけた。俺も体を起こすが、長くこの部屋にとどまっていた体は鉛のように重かった。そこで顔をあげた俺はあることに気付いた。大男と少年の後ろに、白い柔らかそうなものが座っている。よく見ると、白いラプターがこちらを見ていた。



 「ギル……」


 


 そのラプターの青い目を見て、それが懐かしい友人であることを確信する。俺は重い体を無理やり立たせ、友人の元へ歩み寄った。



 「お前が、助けてくれたのか」



 ラプターは何も言わない。いや、言えないのだろう。彼は本来なら変身魔法を使って人間になれるはずだ。にもかかわらず、彼はただ何もせずにじっとこちらを見ている。



 「お前を助けた代償だ」


 


 唐突に、足元に座っていた大男が言葉を発した。驚いた俺は、その白いラプターに手を伸ばした。



 「ギルから伝言だよ。“今度は自分をもっと大事にしろ”ってさ」



 今度は少年の方が声をあげた。正直半分も状況が理解できていないが、ただ目の前の友人が自らの変身魔法を代償に俺を助けてくれたことだけは理解できた。現に怒りと悲しみのエネルギーに満たされ、光すら入ってこなくなるほどに黒ずんでいたこの部屋には、今は陽光が差し込んでいる。今は日暮れ前なのだろうか。窓の外は、太陽の光を反射した海がオレンジ色に輝いていた。長くここにいたのに、潮の香りがひどく懐かしく感じた。



 「さて、帰るか。休んで魔力も少しは回復したしな」



 そう、大男が言いながら立ち上がる。それに続くように、少年も立ち上がった。するとそれまでじっとしていたギルが歩き出そうとする二人を止めるように腰を上げ、くちばしで大男の服を引っ張った。



 「なんだよ」



 ギルはくちばしで男の右腕を軽くつつく。怪我でもしていたのか、軽く小突かれただけだというのに大男は痛そうに顔をしかめた。ギルのくちばしからは青い光が溢れていた。



 俺は、この魔法を見るのが大好きだった。誰も傷つけない、優しい魔法。海のように冷たくも温かく、淡い光を放つその魔法が。



 「全部終わってなかったの?」



 小さな少年が、首をかしげて尋ねる。



 「このくらい、寝てりゃ治るってのに……」



 大男はそう強がりながらも、おとなしくギルの治療を受けていた。ギルのくちばしから青い光が消えると、男は右腕を振って動作を確認するような動きをする。



 問題ないようだとでも言うように、大男がこちらに頷く。と同時に、嬉しそうに小さな少年は飛び跳ねていった。少年は塔の上部に取り付けられた大きな窓から身を乗り出す。



 「あっ」



 そう俺が言葉を発する頃には、彼は窓のわずかな出っ張りを利用してするすると屋根の方へ上っていった。



 「ギル、マーヴィ」



 窓を通して上の方から少年の声だけが聞こえる。



 「楽しかったよ。ありがとう」



 その言葉と同時に、何か大きなものが上を這うような音も聞こえてきた。



 「じゃあ、またね」



 窓から外を見ようと身を乗り出した俺の頭上を、何かが通る。長い尻尾に、大きな翼。太陽の光を反射した鱗はキラキラと黄金に輝いていて、まるで収穫時の小麦畑のようだと思った。その生き物は、翼を一生懸命に上下させていた。最初こそ下に落下していっているように見えたが、海の方へ出ると同時に上昇気流に乗って徐々に上へ上へと昇っていった。


 


 久々に見る美しいドラゴンの姿に見とれていると、誰かが俺の左肩に手を置いた。見ると、先ほどの黒い目をした大男がいた。男は俺の体を押しのけると、塔の窓から身を乗り出してあっという間に飛び降りた。



 慌てた俺が下を見ると、男が氷の魔法で足場を作りながら下へと降りているところだった。男は城の一番下の階までたどり着いてもその歩を止めることはなく、今度は崖に足場を作って迷わず海の方へ降りていった。そして飛び込んでも問題ない高さまで来たところで、大男は海の中へと飛び込む。飛び込むまでのわずかな間に、男がこちらを向いたような気がするが気のせいだろうか。



 あっという間に二人きりになってしまった空間で、俺はギルの方を見る。ギルもまたしばらくこちらをじっと見ていたが、やがて俺の体をくちばしでくわえ、そのまま自分の背中の方にひょいッと投げた。俺を背中に乗せたまま、ギルは先ほどの窓に身を乗り出す。何をしようとしているのか理解した俺は、ギルの背中の羽毛を両手で強く握りしめた。



 同時に、ギルが窓から飛び降りる。大きく翼を広げ、何回か羽ばたくと海の方へと俺を乗せたまま飛び始めた。



 俺は、友の背中にしがみついたまま上を見上げた。そこには相も変わらず、黄金のドラゴンが飛び続けていた。だがその姿も永遠には存在せず、やがて上に向かっていたその黄金は徐々に小さくなっていった。


 


 その姿を見送っていると、空を見上げていた俺の真下から大きな水音がした。少し身を乗り出して下を見ると、黒いものが何度も水面をジャンプしながら泳いでいる。だがその黒い影もしばらくたった後に、その巨体をくねらせた大ジャンプを最後に見せ、二度と水面に上がってくることはなかった。



 俺は自然と前を向いた。夕日はもう半分以上、水平線に沈んでしまっている。俺は友人の背中に顔を埋め、小さく呟いた。




 “ありがとう”




 




 全てが終わった。長い長い退屈しのぎが。悪魔は、ポツリと城の地下に立っていた。その体には、傷の一つもない。僅かに背広に穴が開いて、ところどころ血が付着しているという点だけが、先ほどの激闘の爪痕として残っているだけであった。現役のころは地下牢として使われていたこの空間は、四方に硬い鉄の格子がはめこまれている。その空間の最も奥の牢獄の中で、悪魔はただ前を向いて立っている。先ほど緩めたクラバットを、しっかりと締めなおしてゆっくりとその場に腰かけた。目の前には、天使を象った石像が置かれていた。


 この世には天使を象った像というのは数多くあるが、どれも絶望的に似ていない。やはり、自分が作ったこの像こそが、一番あいつに似ている。腰まである長い髪を後ろで三つ編みにまとめ、後ろに流したその姿を見て、かつての姿を思い出す。たくさんの小さな花がその髪に一緒に編み込まれ、頭には花冠が巻き付いていた。



 「また君に負けたよ。君は死してもなお、彼らを救い続けるんだね」



 いつもの慇懃無礼な話し方からは遠くかけ離れた、ぶっきらぼうな話し方である。



 「まったく、迷惑な話だよ」



 ぶっきらぼうでありながらも、その声色は慈愛に満ちたものであった。悪魔は、体を伸ばして天使の像の額部分に自分の額をくっつけた。



 「君の偽善には、あきれ返る」



 そう言いながら、像の頭の部分を優しくなでた。石の髪は硬く、決してその指に絡まることはない。それでも、悪魔はかつての髪の感触を思い出していた。



 「あーあ。これでまた僕は、君のいない退屈な毎日を過ごさなくてはならなくなった」



 そう愚痴をこぼすように言った悪魔の顔は、優しく微笑んでいた。



 「聞いてくれ。僕の計画を止めたのは、前言ったあの“お気に入りの子”なんだ。僕の願いはかなえられなかったけれど、彼は自分の手で願いを叶えたんだ」



 今度は、像の頬を両手で優しく包み込む。



 「だから不思議なもんで、悔しいんだけれども……でもどこか嬉しい気もするんだ」



 悪魔の独り言は続く。



 「ねえ」



 悪魔は少し声のトーンを落として呟くように声を発する。



 「君は……もしこの世界に喜びが溢れれば……また僕の前に現れてくれるかい」



 そう。僕はそう信じてずっと動き続けていた。魔法なんて作ったのも、生き物たちが喜んでくれると思ったからだ。生きるか死に絶えるかの瀬戸際をさ迷っていた生き物たちは、もちろん魔法を使えるようになって喜びを感じていた。だが、それは長くは続かなかった。今度は、その魔法の力を利用する者が現れた。


 僕にはどうしようもなかった。増幅した怒りを全部食べようとしても、到底間に合わなかった。かといってまた以前のように負のエネルギーを材料に魔法を作り出したら、同じことの繰り返しになるだけであった。僕にはどうしようもなかった。この世界を喜びで満たすなど、到底無理な話だった。一つ解決策があるとするならば…………それは感情を持つ生き物がこの世から消え去ること。


 全てを無に帰して、また君の生まれる世界ができるのを待つつもりだった。なのに……



 なのに、“君が残した力”はそれを拒んだ。



 「もう何万年も待つのは飽きたよ」



 悪魔はゆっくりと目を閉じる。



 「ねえ」



 像の傍らに座り直し、天使を象ったその肩の部分に頭をもたせかけて寂しそうにつぶやいた。



 「早く、僕を救っておくれよ」



 誰もいなくなった城でただ一人、悪魔は天使の像に身を預け続けていた。朝が来ても、夜が来ても、ずっと。ずっと。

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