伍の目
⚀
真っ暗な闇の中、ほのかに光る何かがいた。
近づいてみると、フカフカで艶やかな毛並みの獣が丸くなって寝ている。俺の気配に、獣が頭を持ち上げた。
金色の目はどこか哀し気な光を帯びている。その瞳が俺を捕らえると、哀しい光が鋭い光へと変わった。
獣は、フサリと大きな尻尾を揺らした。大きくて太い尻尾は、何房にも分かれている。
その数は九本。
姿かたちが狐で尻尾が九つに分かれているということは……あの悪名高い九尾の狐ということか。
妖怪となった狐は、その妖力に応じて尻尾が九本まで増えるとされ、九尾の狐は強大な妖力の持ち主で、その強さは全ての妖狐の中でも最強だと云われている。
古くは神聖なモノとされていた九尾の狐だが、絶世の美女に化けて国を傾けさせる妖怪として語られている。
大嶽丸、酒吞童子と並ぶ日本三大妖怪と名高い九尾の狐が、宗介の目の前にいた。
『わらわをここから出せ』
よく見れば、九尾の狐は檻の中に捕らわれていた。
状況を全く把握できず、ただ茫然と九尾の狐を見ていた。
『クモに喰われたくなければ、わらわをここから出せ』
その言葉に、足元を見た俺はギョッとなる。
「わぁあああッ」
思わず飛び上がったが、逃げ場がないほど足元には蜘蛛がいた。
『早よう!』
焦燥感に駆られた九尾の狐が急かすが、何故捕らわれているのか、誰に捕らわれているのかも分からない。
「もしかして、お前が匠実に魂を奪うように差し向けたのか?」
そういえば、匠実が檻の中にいる獣と話をしているのを見た気がする。
『たわけッ! わらわはそんなこざかしい真似などせぬ。魂を欲するは下等なモノのすること』
そう言われて、はいそうですかって信じることはできない。悪名高い九尾の狐の言うことを鵜呑みになんかできるわけがない。
余市さんたちの話では、絡新婦の仕業らしいけど、どうしてここに九尾の狐がいるのかわからないことには迂闊に動けない。
そもそも、俺にはその檻を解く方法が分からない。分かっていたとしても解くわけにはいかないが……。
今俺がしなければならないのは、この蜘蛛を払う事。
異空間だからなのか、空気が研ぎ澄まされているこの空間は、意識を集中させやすく慣れない呪術を具現化するにはいい環境と言えた。
ここならできるかもしれない。
胸の前で両手の指を組む。
一文字ずつゆっくりと印を結びながら唱えていく。
「臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前!」
最後の印を結び終えた時、足元に迫っていたクモが一瞬にして消え去った。
サワサワとクモが這う音が消え、暗闇が支配する。
ホッとする間もなく、異質な空間にポッと青白い光が灯った。
その光の中から、怒りを露わにした絡新婦が姿を現した。
『よくも我の大事な子らを……』
絡新婦がギリッと奥歯をかみしめたが、九尾の狐の姿を見つけると、ニヤリと意地の悪い笑みを浮かべた。
『ほう、懐かしい姿を見た』
高らかに笑う声に紛れ、チッと舌打ちする音が聞こえた。
見れば九尾の狐が忌々し気に顔を歪めた、ように見えた。獣の表情はわかりにくい。
けれど、明らかに九尾の狐は腹を立てている。
優位を確信しているのか、ゆったりと近づいてくる絡新婦をみて、九尾の狐がフサリと尻尾を揺らした。
すると、九尾の狐がみるみる人の姿へと形を変える。
床にまで届く艶やかな長い髪に、色鮮やかな十二単を着た九尾の狐は、修学旅行の時に源氏物語ミュージアムでみた平安時代の女性そのものの姿をしていた。
不満の表情を浮かべてはいるが、傾国の美女と言われるだけのことはある。陶器を思わせる白磁の肌に、ぷっくりとした赤い唇。切れ長の目はややきつい印象を与えるが、気品があり知的さをいっそう引き立てている。
その姿に遠い記憶の妖が重なる。
おじいちゃんと親しげに話をしていた妖だ。そして、鬼に襲われた時、俺を助けてくれた妖でもある。
まさか九尾の狐だったとは思いもよらなかった。
絡新婦が心を惑わす美しさなら、九尾の狐には心を狂わす美しさがある。
絡新婦は嘲笑の笑みを浮かべた。
『人間ごときが作った檻に、むざむざ捕らわれているとはお笑い草じゃのう』
声にたっぷりと皮肉を込めた絡新婦の言葉に、九尾の狐がクスリと笑う。
『お前の気配を察し、思わず己を見失い捕らわれてしもうたのはわらわの失態。じゃが、お前をどうやって
九尾の狐はいったん言葉を切ると、絡新婦に同じような皮肉を込めた視線を送り言を続けた。
『それよりお前こそ、石に成り果てどこぞの坊主に打ち砕かれたと思うておったのに、まだくたばっておらなんだとは、ほんにしぶといのう』
絡新婦も顔が屈辱に歪む。
『あの射手と坊主を差し向けたは、お前か?』
『じゃとしたら、何だ?』
涼し気に答えた九尾の狐の言葉に、一瞬絡新婦の表情が屈辱に歪んだが、すぐさま冷ややかな笑みを浮かべる。
『あれごときで我がやられるとでも?』
絡新婦がフンと鼻をならした。
絡新婦も九尾の狐も笑顔を張り付けてはいるものの、その場の空気は穏やかとは程遠く、ピンと張りつめている。
先ほどから二人のやり取りをジッと見ているだけで、全身に冷や汗が流れるような不気味さを感じていた。どうやらこの二人には浅からぬ因縁があるようだ。
それが何なのかはわからないが、九尾の狐、石、坊主というフレーズから、ひとつの伝承に行き着く。
九尾の狐の伝説は数多く存在する。
古の伝説では、九尾の狐の姿が確認されると泰平の世や名君のいる代を示す瑞獣とされ、天界より遣わされた神獣と云われた時もあったようだが、どちらかといえば人に化け世を惑わす悪しき存在という印象のほうが強い。
中国では
また、時を経て武王より十二代後の幽王の后、
そして時が流れ、九尾の狐は16歳ほどの少女に化け、遣唐使が日本へ帰る船に乗り込み日本に上陸したと伝えられている。
日本で九尾の狐といえば、玉藻前の伝説が有名だ。
北面の武士、
藻女はやがて美しい姫に育ち、鳥羽上皇に仕える女官となり、美しいだけではなく非常に博識だったことから、上皇から玉藻前と呼ばれ寵愛を篤く受けるようになる。
それからというもの、鳥羽上皇は病に伏すようになり、日に日に病状は悪化し衰弱していった。
医師に診せても原因がわからず、陰陽師に祈祷させることにした。
陰陽師の
だが、上皇は信じず病は更に重くなる一方。
そこで、上皇の病を治すためという名目で『
那須野原に逃げ出した九尾の狐を討伐軍が追い詰め、
九尾の狐は巨大な石と化したが、石から邪気が発せられ、近づいた動物や人はその邪気に充てられ命を奪われた。
『殺生石』と恐れられ、長い間人々を苦しめていた。
二百数十年後、
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