ネバーランドに希望は無い

神崎閼果利

ネバーランドに希望は無い

 無限に広がるセルリアンブルーの空を、白いビル群が目指している。どこまでも続くグレーのコンクリートの道を、人々が歩いている。

 天を仰いでいた私の水晶体に映るのは、零と一の羅列だ。規則的に、しかし不規則的に並んでいるそれを見るだけで、なんだか眠くなってしまう。それでも分かるのは、小さな小さな零と一から、あの雲一つ無い晴れやかな空は出来ているということだ。

 そうしていると、どん、と鈍く何かが腕にぶつかった。私の腰くらいの背丈の少年だ。小麦色の肌に、大きな目。きらきらとした笑顔。彼が、おーい、と声を張って呼べば、 同じくらいの身長の子たちが同じような笑顔で私の隣を歩いていく。

「次は何する?」

「サッカーしようぜ!」

「えー、サッカーは昨日もしたじゃん」

「じゃあ何する?」

 そんな会話が続き、私の前からフェードアウトしていく。私は小さく息を吐くと、また歩き始めた。

 通りすがる人、全てが太陽のように笑っている。まるで、何かに希望を抱いているように。軽やかに足を進め、どんよりと曇った私の横を通り過ぎていく。

 ここは、楽園だ。誰もの願いが叶う、楽園。ヒトが生み出した、欲望と絶望の世界だ。



「ねぇねぇ、この間の投稿見た?」

「あぁ、アレでしょ、電脳世界に行ってみた! ってやつ。なんか面白そうよね」

「いいなぁ、あそこには学校も家も無いんでしょ? ノゾミはどう思う?」

「えー、あー、良いよね、好きなことだけできるのって」

──今日は何時からだっけ? もう学校向かってるからね。

 そんな通知が来たのを、右にスワイプして消去する。会話の邪魔だ。スマートフォンを机に置いても、バイブレーションは煩く鳴く。私は足を組み直すと、ストローを差したカフェオレのパックを手に取った。

 私が応答すれば、会話はそのまま進んでいく。みんなスマートフォンで電脳世界のことを調べている。私もなんとなく、SNSで流れてきたネットニュースを開いてみた。コメント欄には、諸手を挙げる者、疑念を示す者、自称批評家。言葉での殴り合い。流れ出した血で鉄臭そうだ。

「なんかアレじゃん、センセーたちはなんか、みんな電脳世界に反対みたいな感じでさ。課題減らしてから言えって感じ」

「どう考えたって電脳世界のほうが楽じゃん。えー、行ってみようかな。どこで行けるんだろ」

 みんなの目は一色、世界への好奇心に染まっている。私はそんな話を聞き流しながら、遠くを眺めた。

 グラウンドからは運動部の掛け声が聞こえてくる。廊下からは吹奏楽部の練習が聞こえてくる。重厚な音になって学校中に響き渡っている。私の足元にはテニスラケットバッグが置いてある。

 みんな頑張ってて偉いな、と思う。

 チャイムが鳴り響く。もう時間だ、思わず大きな溜め息が出る。バッグを肩に担ぐと、マイはにやにやと笑って私に目を向けた。

「あー、ノゾミ、もしかして三者面談?」

「そーそー。ほんとウザ、って感じ」

「かわいそー。あたしも親とセンセーが手ェ組んで最悪って感じだった」

「まー、適当に話しとくよ」

 頑張ってねー、と声をかけられて、適当に手を振っておく。

 教室を出れば、さきほどから聞こえていた努力の音がぶわっと顔に吹き付けてきて、ずっしりと体にのしかかってくるようだ。面談に向かう足が重たい。その体の重たさは、廊下で椅子に座っているおばさんを見た瞬間にさらに酷くなった。

 皺が入った疲れ切ったような顔。ぶよぶよと太った体。着ている安っぽい服に似合わない高そうなバッグを掛けているのがさらに厭らしい。ノゾミ、と低い声で呼びかけられ、苦々しい寒気が走った。

「何度も連絡したのに、一回も返事寄越さないじゃない。何やってたの」

「時間どおりに来たんだからどーでも良いでしょ」

「そういうことじゃないでしょ。そういうことしてると大切な連絡ができなくて困るでしょ」

 ウザ、と小さく呟く。そうしていると、教室から眼鏡の男性が顔を覗かせて、どうぞ、と声をかけてきた。半袖シャツに、しっかり締めた黒いネクタイ。不細工な笑顔を浮かべ、親はそれにつられてへらへらと笑う。薄ら寒い。広い教室にぽつんと置かれた四つの椅子が恨めしい。

 どかっと足を開き、ネクタイを締め直して薄っぺらい笑みを浮かべる先生。頬に手を当て、愛想の良いフリをする母親。最近娘さんの調子はどうですか、家ではどうですか。私はその中で一人、そっぽを向いて耳を閉じている。

 ところで、と先生が話を切り替える。笑顔のまま、目元が真剣に鋭くなった。

「娘さん……ノゾミさん、実はあまり成績が良くなくてですね」

「そうなんですか? うちの子、あんまりテスト用紙とか見せないものですから……」

「はい。それと、部活の顧問のほうから無断欠席が多いと聞いていまして」

 舌打ちをしたくなる。親の目の色も明らかに変わった。生き生きとして、まるで餌を出された犬のよう。自分の手を揉みながら言いにくそうにしているように見えて、その実話したいことが話せて先生は楽しそうだ。私の悪口になると、大人はみんな目をぎらつかせる。

「高校生にもなると、もう目標に向かって自分で自分を律していかなくてはなりません。ノゾミさんにはそういう自覚を持ってもらいたいですね」

「そうですよね、本当! ノゾミ、あんたにも目標とか無いの?」

「そうですね。やりたいこととか、無いの?」

 胃が沈むような感覚を感じる。嗚呼、もう大嫌いだ。私は眉をひそめて、無いです、と答えた。

「ほら、将来の夢とか作らないと。そのためにも勉強と娯楽の時間をコントロールできるようにならないと。今は毎日どんなふうに過ごしてるの?」

「チャット見て、SNS見て、動画見る」

「勉強はテスト前だけじゃ駄目なんだよ。ほら、忘却曲線ってあるだろ? あれに則ると──」

 母親は食い入るように聞いているけど、私の頭には言葉は届かない。足先がむずむずする。一刻も早くここを出たい。話が終わってくれないかと祈るばかりだ。

 そうやって時間が流れていき、担任も母親も苦笑しながら話を終えた。先生も後半は私に話を振ることも無く、ずっと進学や就職の大切さを母親に説いているだけだった。ペチャクチャお喋りな鳥みたいだ。

 ありがとうございました、と恭しく頭を下げる親に目もくれず、私は教室を出た。息苦しい空間から出てようやく息を吸いたいのに、部活動中の学生の熱気でまた喉が詰まる。

「あんた、ちゃんと部活出なさいよ。私たちがお金出してるんだから」

 そう吐き捨てるように言った母親を無視して足を動かす。地面を踏み締める感覚が怠くて仕方が無い。

 いっそ、電脳世界にでも逃げてやろうか。

 そう思っていると、手元でスマートフォンが震えた。画面には友達からの通知が写し出されている。

──電脳世界、行ってみない?

 少し薄暗くなった廊下で、画面が白く光っていた。



 私たちの世界に張り巡らされた糸、それがインターネットだ。その絡まる先を追っていけば、まるで迷路の先にある宝物のように、美味しい情報が手に入るものだ。

 SNSで拾った情報を元に、私たちは夜の繁華街にいた。人々の波を掻き分け、目指すは暗い暗い路地裏。

 スカートのポケットで絶えず通知が成り続けている。手に取らなくても誰からなのか分かる。

 人の良さそうな笑顔を浮かべたお兄さんに話しかけられ、うちのトラブルメーカーであるマイが明るい声で応答する。

「こんな時間に出歩くなんて、お姉ちゃんたちノってるねぇ」

「だってさー、ここで電脳世界? だったっけ? に行けるってネットで見たからさ」

「おー、興味あるんだ。行ってみる?」

「行きたい行きたい! みんなも行きたいよね?」

「え、うん」

 釣られるように相槌を打つ。歩き出した友達の後ろで、ナミが眉を寄せて、私にコソコソと話しかけてくる。

「なんかヤバくない? ノゾミも行くの?」

「え、まぁ……うん、みんなで行けば大丈夫じゃね?」

 そうか、と口篭るナミを見ながら、私は足を先へと進めていく。

 ヒートアップしていく子もいれば、クールダウンしていく子もいる。それでもお構い無く、男は私たちを連れていく──まるで、ハーメルンの笛吹きのように。

 寂れたシャッター街に入り、小さな部屋に辿り着くと、そこにはいくつかのVRゴーグルが置いてあった。

「これを付けると電脳世界に入れるんだ。楽しそうだろう?」

「うわ、ほんとだ! ほら、ノゾミも付けてみなよ!」

 一度被った友人が、私にもとゴーグルを押し付けてくる。まるでオタクの所業だな、と思いつつも被ってみれば、目の前に青空と白いビル群が広がった。辺りを見回してみれば──現実の原宿と同じとは言えないけれど──人もそれなりにいるようだった。

 見て見て、と声が上がったほうを見れば、マイが立っている、はずだった。そこに立っていたのは、明るい茶髪にくりっと大きな目をしたモデル体型の女性だった。

「アバターも好きに設定できるらしいよ。めっちゃ可愛くない?」

「えー、いいなー! 私も変えよ!」

 ナミはさっきと打って変わって、楽しそうにくるくると回ってアバターを変えている。他の子たちもアバターを変え始めて、ああでもないこうでもないと言い出した。

「あれ、ノゾミは変えないの?」

「なんかメンドーくさいなって」

「ふーん。あ、せっかくアバター変えたんだからどっか行ってみようよ!」

 私たちの体は現実では椅子に座っているだけだ。だが、私たちが動こうと思えば仮想現実の体も動き始める。一歩進めば世界も動き出す。

 ビル群の隙間を通っていけば、そこにはコスメの店やらファッションの店やらが並んでいた。自分たちと同じような女子高生たちが片手にクレープを持って歩いてくる。

「あっち行ってみよ!」

 マイに言われるまま、私たちは路地へと入っていく。最初に見つけた店先にはきらきら輝く韓国のコスメが並べられているが、そこに値札は置いてない。中を覗き込んでも、店員がいる気配は無い。

 ナミがぼそっとこう呟いた。

「もしかして、この世界ってお金とかいう概念が無いの……?」

「え、マジで? じゃあリップ貰い放題じゃん! いろいろ試してみたかったんだよねー!」

 友人たちは挙ってカラフルなリップやアイシャドウに手を伸ばす。ノゾミもほら、と言われて、私も一つ適当に手に取った。定番の赤いリップティント。確か有名人がつけていた気がする。

 コスメを貰い漁るのに飽きたのか、今度はみんなで隣のクレープ屋へと寄っていった。特徴的な甘い香りが漂ってくれば、みんなの目が煌めく。イチゴにアイスクリーム、バナナにツナマヨまで。もちろん値札はついていない。

 みんなが各々選んでいく中、私は何にしようか迷った挙句、鉄板のアイスクリームとイチゴのクレープにすることにした。まるで自動販売機から出てくるようにすとん、とクレープが受け取り口に滑り落ちてくる。

 手に取れば触感も本物で、口に運べば味覚も本物。少し安っぽい甘さがあるのも、舌がべたつくのも、いつも帰り道に買っていくクレープそのものだ。

 それで盛り上がったのか、マイたちはクレープ片手にいろんな店へ梯子し始めた。コスメ専門店、ロリィタファッションにパンクファッション、パンケーキ専門店にタピオカ専門店。行きたい店も無いので、私もついていく──ついていくだけでだいぶ楽しめるのだから。

 あちらこちらで騒いでいると、あっという間に空が紺碧へと変わっていた。あー、と残念そうに誰かが呟く。

「夜になっちゃった。帰らないと」

「え? 何言ってんの、ここは電脳世界だよ? 寝なくて良いし学校行かなくて良いじゃん!」

「それもそう! じゃあカラオケ行こーぜ!」

 その場のノリで女子会は続行。夜通しカラオケで歌い倒して、喉を潰して。親からの通知なんて少しも気にしないで、朝まで遊び倒す。課題も家事も部活もそっちのけだ。

 そのうち、さすがに疲れて足もへとへとになっていた。そこでようやく解散となった。それでも、電脳世界から出ようと言う人は誰もいなかった。

 こう言ってはなんだけれど、新しいコスメを使って、新作のファッションに身を包んで、顔立ちの整ったアバターを使っている友人たちは、現実なんかよりずっと綺麗だった。デフォルトのアバターである私だって、メイクでだいぶ映えるようになった。

 みんな分かっているはずだ、ここに長居してはいけないと。家族は心配しているだろうし、先生は私たちのことを探しているだろう。課題も家事も部活も置き去りになっている。私だって分かっている。

 でも、分かっていながらここを離れようとは思わなかった。全部全部嫌だったからだ。何かを押し付けられて、金型に押し込まれて、何かになるように矯正されるなんて最悪だ。

 疲れたらカラオケで寝て、また遊びに出かける。押さえつけられてきた私たちには、行きたい場所もやりたい場所もたくさんあった。そのうち、私たちは変わっていった。

「ねーねー、この間会った男子とファミレス行くんだけど、誰か来ない?」

 バーガンディのネイルを塗りながら、金髪の少女が私たちに話しかけてくる。蛍光灯に照らされて、髪がきらきら光っている。私たちの中では静かなほうだったナミはもういない。マイがすぐに手を挙げて、あたしも行く、と言い出す。

「みんなも行くよね?」

「あ、うん、行こうかな」

「ノゾミはー?」

「あぁ……私も行こうかな」

「っていうかさ、ノゾミ、その見た目は地味じゃね? アバター変えたら?」

「うーん……彼氏いるし男ウケしてもなぁ」

「でも最近ハクトくんと連絡取ってないじゃん。『ここ』でも彼氏作っといたほうが良いんじゃない?」

 ごくり、唾を呑む。ずしり、お腹が鈍くなる。珍しくマイの言葉が重く感じた。それでも私はへらへらと笑っている。ここで何か口を挟むのも感じが悪いからだ。

 マイの言うとおり、彼氏とは連絡を取っていない。彼は確かに良い人だったけれど、現実世界にまで戻って会いたいかと言われたらそんなことは無い。顔が良いかと言われればそんなに良かったわけでもないし、人柄が良いかと言われればそんなに良かったわけでもない。手を繋いだりキスをしたりしたけれど、別に好きだったわけでもない。

「まー、そうだね。でもアバターはめんどいから良いや」

 私はそう言って話をかわすことにした。あっそ、とだけ言って、マイは別の話を始める。

 話を適当に聞きながら外を眺める。ネオンライトに当てられて奇妙な色になった私がガラスに映っている。外では、ナミと同じようにきらきら光っている人々が歩いている。みんながみんな隣に恋人を侍らせて、派手な色の服を着ている。けれど、その一人ひとりには大した個性が無くて、誰が誰でも同じような見た目をしていた。



「それじゃあ、よろしくね! あたしはマイで、こっちがナミ! で、ミキで、ナツキで──」

「そうそう! マイとあたしの投稿見た? バズっちゃって──」

「で、こっちがノゾミ!」

「ノゾミでーす、よろしくねー」

 スマートフォンを弄りながら話に応じる。顔を上げれば、みんながみんな同じような韓流アイドルメイクをした男子ばかりだ。

 ともすれば、サラダが運ばれてくる。ナミが受け取って分け始める。男子たちの注目を集めてほんのり頬を赤く染めている。続いてピザとドリアが運ばれてきて、マイが目を輝かせる。そんな様子に男子たちも目を奪われる。

「ねぇ、ノゾミちゃんはなんでその見た目なの?」

 液晶画面から顔を起こせば、まるで少女漫画から出てきたようなイケメンが座っている。にこりと笑うだけで煌めきが広がっていく。それでも、私には無彩色に見えて仕方が無かった。

「めんどくさいからかな」

「そんなんだからモテないんだよ」

「うるさいなぁ、別にモテなくてもいいし」

「こんなこと言って本当は彼氏と別れたばっかりでね……」

「へぇ。カケルと同じだな」

「カケル?」

 名前を提示されて、ふと男子たちの端に座る少年を見る。あまりにも地味すぎて、周りのきらきらに紛れてしまってたようだ。黒髪にきりっとした太い眉、がっしりとした体つき。黒い目は輝かしい女子陣ではなく、運ばれていたドリアに向けられていた。

 地味で、目立たなくて、ノリも悪い。でもなぜか、私は彼から目が離せなかった。

「え、なに、ノゾミとカケルくん合いそうじゃない?」

「分かるー、地味なとことかね」

 自分が悪口を叩かれていることは分かっていた。だが、言い返す気にもならない。どうせジョークだ。

 カケルくんはこちらを一目見たが、すぐに目を逸らして食べ物に向き合っている。時めく女子たちには目もくれず、たいそう不味そうにドリアを食べている。

 私もちょうど不味いと思っていたところだ。

 男女揃って歓談し、美味い美味いと言いながらイタリアン料理を食していく。飲み慣れぬワインをあおってぐずぐずになっていく。私とカケルくんを固定カメラにしてタイムラプスになっていく。

 気がつけば顔を赤くした男女が出来上がっていて、下品にゲラゲラ笑っていた。

「あはは、皆このあとカラオケ行かない?」

「いいじゃん! じゃあお会計してくるねー」

「連絡先交換しよー!」

「ノゾミは二次会行く?」

 うん、と頷きかけて、黒髪の男子のほうに目をやる。彼は友人に肩に回されても、俺はいいから、と低い声で言って軽くいなしてみせた。

「……私はいいかなー」

「え、なに、カケルくんのこと気になってんの?」

「そーゆーことじゃなくて。私疲れたからこのへんにしとく」

 クスクスと紫陽花色の暗い笑い声が女子たちの間から聞こえてくる。そして男子たちに連れられて、女子たちの笑い声は遠ざかっていった。

 取り残されたカケルくんはじろりと私のことを見ると、バッグを背負っていなくなろうとする。白地に青のシンプルな四角いリュック。どこででも買えるような量産型だ。

「なに? 俺もう帰るんだけど?」

「連絡先交換しない?」

「え……なんで?」

「なんで、って何? 別にいいじゃん連絡先交換くらい」

「良いけど……」

 彼は渋々といった顔で紺色のスマートフォンを取り出した。いかにも純正といったケースに入ったシンプルな見た目だ。

 交換し終えると、それじゃ、と言ってカケルくんはスマートフォンを後ろのポケットに入れて去っていく。それを見送ってから、私は大きく伸びをして立ち上がった。

 レストランを出てからSNSを開いて、カケルくんに一言連絡を入れる。

──今日、なんで帰ったの?

 少ししてから返信が送られてきた。顔文字も絵文字も無いぶっきらぼうな文章だった。

──つまんなかったから。

 ふーん、と一人呟く。スマートフォンを見ながら、街の外れのホテルへと歩いていく。

──わかる。

 既読はついたが、返信は来ない。必要最低限しか喋らないということだろうか。

 ならば、と私は質問を投げかけ続けた。それでも返信は一言、小さな吹き出しが返ってくるだけだ。

 気がつけばホテルの部屋に着いていた。従業員に何を返したかすら覚えていない。点きっぱなしだったスマートフォンの充電はもう十パーセントを下回っていた。

「……はー、つまんな」

 スマートフォンをベッドに投げうち、そのまま枕に顔を埋める。うつ伏せで寝ているからか、心臓がバクバクと煩く聞こえた。変に目が冴えて、眠れる気がしない。

 通知が来なくなった画面を見つめ続ける。カケルくん以外からは連絡が来ていたが、返す気にならなかった。その中には、母親からのものも含まれている。

──どこ行ったの。お願い、返事をちょうだい。

 小さく舌打ちをしてから、強く目を閉じた。



 グループ表示画面の一番上に、赤い通知のマークがついている。隣にはくたくたのスパイクが映されたつまらないアイコンが並んでいる。

 トーク画面を見てみれば、短い言葉の応酬が表示される。スタンプも絵文字も顔文字も無いつまらない会話だ。最初こそ日付を跨ぐ表記が会話を切っていたのに、今ではその間隔が広くなっていた。

──おはよ。

──おはよう。

 私の投稿にはたった一言こう返ってくる。これ以上は無い。私が何か言うと、それに対して答えるだけだ。それでも、カケルくんと私の会話は実に長いこと続いていた。元カレとだってずっと会話を続けることは無かった。

 一つ戻れば、他にも様々な通知が表示される。一日一回両親から連絡が来る。大人数グループではこの間の会合で加わった男たちと私の友達が昼夜問わずずっと連絡を取り合っている。もう追いかけるのも面倒臭くなって、長いことトーク画面を開いていない。

──今日、十時から。

 珍しくカケルくん側から連絡が来たと思ったら、そんな短い文章だった。

 スマートフォンのアラームを止める。カーテンを開ければ、眩しい白の光が差し込んできて私の寝ぼけ眼を焼いた。

 鏡に向かい合って、メイク道具に手をかける。どれもこれも高いだけあって、見た目が魔法少女の変身道具みたいだ。しかし、鏡を見ているのはごく普通、ごく平凡な女性の顔だ。そんな顔がマシになったところで、時計は九時半を指していた。

 最短経路でホテルを飛び出す。待ち合わせは大きな駅の前だ。人が多いにもかかわらず、カケルくんは周りの綺麗さの中でかえって目立っていた。服装だけ最近のアイドルをなぞっているけれど、髪型も顔立ちもぱっとしない。

 彼は腕時計を見ると、小さく溜め息を吐いた。

「五分遅刻」

「うわ何それ、面倒臭いんだけど」

「連絡くらい寄越せ」

「ごめんて。それで、私が行きたいところなんだけど──」

 私が言ったのは、近場の大きなビルの服屋と、化粧品売り場だ。カケルくんは太い眉を顰め、また溜め息を吐く。

「女子ってそんなんなの?」

「そんなんだよ」

 カケルくんは文句を言いながらも先へと歩き出した。私もその後を追う。

 スクランブル交差点で一瞬彼の姿を見失う。その瞬間、ふわり、と顔に香水の臭いが吹きつけた。見回せば、辺りは手を繋ぐ男女を問わないカップルばかりだ。左右対照な目を欲望でぎらぎらと輝かせて、整った体つきを欲望でぎらぎらと着飾った二人組が、私のことを押し退けて迫ってくる。

 呑まれそうに、圧されそうになって減速していると、前のほうから手を差し伸べられた。握ってみれば、節のある固い手だ。ぐい、と引っ張られて顔を起こすと、眉間に皺を寄せたカケルくんがこっちを見ていた。

「おい、はぐれんなよ」

「えー……ありがと」

 それだけ言うと、カケルくんは手を振り払った。私は目をぱちくりさせて彼を見れば、じとっとした目でこちらを見つめ返してきた。

 人の波を避けた先で、ようやく巨大なビルが見えてきた。零と一で出来た空を貫かんばかりに伸びたビルの壁面には、所狭しと宣伝の幕が垂れていた。遊び呆けていた私ですら、一度も来たことの無い魔境だ。

「相変わらずでけーな……」

「カケルくん、こーゆーとこ来たこと無さそう」

「キョーミ無いし」

 一歩足を踏み入れた途端に、一気に顔へと化粧品の臭いが降りかかる。洒落た髪をした女性たちがそこかしこに立っていて、テスターへと手を伸ばしてはメイク落としで拭き取って次のテスターを手に取っている。彩り豊かな人々の中で、真っ黒な服を着たカケルくんは浮いていた。

 シックな黒のケースに入った金色のリップを手に取る。人々が使ったせいでもうほとんど残っていない。それでも僅かにゴージャスな煌めきを残しているのだった。

 指でとって、自分の唇に付けてみる。そうすると、肌に合わせて色が変化する。私の唇は、嫌気の無いワインレッドに染まっていた。

 それでも胸は踊らない。へぇ、そうなんだ、という感じだ。喩えるならば、学校の授業みたいだ。知らないことをまた一つ知っただけで、そこに惹かれることは無い。

 後ろでカケルくんが頭を掻いて、やりどころが無いように目を逸らした。

「たけーな、これ。何が良いんだよ」

「ねー。何が良いんだろうね、これ」

 次から次へと高級なメイク道具を触ってみても、欲しいとは思わない。もうすでに持っている物が頭をちらつくせいだ。この一連の無駄な動作を眺め、ついにはカケルくんはこう言った。

「買わないなら次行ったら?」

 そんな失礼な一言にも、不思議と苛立ちは感じない。そうね、とだけ言って、真っ赤な口紅を落とした。

 それから上の階へ行って、たくさんの服を流し見た。カケルくんは終始つまらなそうで、私もつまらなかった。マネキンが着ているような服を見ても、ああなりたいだとか、憧れだとかは抱かないのだ。

 もう帰ろうぜ、とカケルくんに言われたときには、私もなぜこんな場違いなところにいるのか分からなくなっていた。

「でも行く場所なんて無いじゃん」

「最後に河川敷に寄って帰りたい」

「ダサ」

「途中で飯買って駄弁って帰るべ」

 なんだかとても高校生らしいな、と思った。もう今ではマイやナミたちとそんな遊びはしない。彼女らは彼氏たちを集めてレストランや飲み屋で大騒ぎして、そのままカラオケに行ったりホテルに行ったりしている。もう彼女らの目には流行と享楽しか映っていないのだ。

 高等なビルから出てきた私たちは、平凡なコンビニエンスストアに寄って、地味なホットスナックを買って、飾り気の無いただの河川敷へと向かった。そんな場所に人がいるわけも無く、川のせせらぎが聞こえる静かな場所となっていた。

 無駄に浪費した時間に呆れて、逃げるように夕日が沈んでいく。橙色に染まった空と黒い雲がノスタルジックに感じられた──それが零と一で出来ていると知っていても。

 唐揚げ棒を食べながら、カケルくんが大きな溜め息を吐く。草原に尻を着いてあぐらをかいている。私も隣に腰を据えれば、土臭い匂いが上がってきた。

「つまんねーな、この世界」

 カケルくんがそんなことを不意に呟いた。私は体育座りになって、膝に顔を埋めた。

 まるで私の心の蟠りが溶けていくような、そんな感覚だった。ぐちゃぐちゃとした何かを言語化してもらって、ようやくそれが形になったというところだ。ミントのようなすーっとした感覚が胸に広がっていく。

「……わかるー。もう飽きた、この世界」

「何でも手に入るし、何でもできるんだけどさ。そんなに欲しいものも無いし、やりたいことも無いっていうかさ」

「そうなんだよねー。メイクだってみんながやってるからしてるだけで、別に好きなわけじゃないし」

 カケルくんは額に手を当てて、苦々しく息を吐いた。そして遠い目をして、誰もいない原っぱを眺めていた。

「俺さ、親がヤになって抜け出してきたんだよね。親が学校に行け、勉強しろって煩いから」

「それなー。ウザいんだよね、親って」

「……俺んとこさ、父さんが医者で。俺にも医者になれって煩くてさ。それがヤでここに来た」

「……なんでそんなことまで話してくれるわけ?」

 私がそう尋ねれば、カケルくんはほんの少し俯いた。

「お前なら聞いてくれる気がして」

「まさかそんなこと話すためにここに?」

「悪いかよ」

 カケルくんは、ばっ、と顔を上げ、むっとした表情になる。私は小さく吹き出して顔を逸らした。

「悪くないけど……信頼されてんな、って思って」

「信頼してるわけじゃないけど……ノゾミも同じに見えたから」

「私は別に、カケルくんほど賢くもできる子でもないよ。単純に学校も親も私に指図してきてムカつくなーって思っただけ」

「どんなふうに指図してきたんだ?」

「私はアレがヤだったよね、進路相談」

 三者面談のときを思い出すと、込み上げてきたムカつきで何かを壊したくなるような、そんな感覚だ。心に情緒不安定な怪獣が潜んでいて、それはちょっとした刺激で癇癪を起こし、何かを壊し回るのだ。

 其奴はいつもこう叫んでいる──

「煩い、私にはやりたいこともしたいことも無いんだよ、って思った」

「……やりたいことが無いの?」

「なにさ、悪い?」

「いや……俺もそうだし……」

 ぴたり、怪獣は辺りを壊し回るのを止めた。そしてじっとその大きな目でカケルくんを見ている。

「医者にならないからって、やりたいことも無いし。なりたいものも無いし。だからなのかも、この世界がつまんないのも」

「……マイとかナミみたいなの見てると、ついてけないなーって思う。何かになりたいとか、どんなふうになりたいとか無くて」

 結局、欲望の街は、目標の無い人間を救うことはできなかった。ただ日々を無為に過ごす人間にとって、そこに希望などは無い。ハーメルンが導く先は、楽園などではなかった。

 では、私たちはどこへ行けば良いのだろうか?

 カケルくんは首の後ろを掻きながら、困ったように斜め下を見た。

「友達もみんなどっか行っちゃったし。俺もう帰ろうかな」

「帰ったら親が待ってるんだよ?」

「いや……何かやりたいこと見つけようかな、って。何かに真面目に取り組んだこととか無かったし。もっと本気になってたらなんか見つかってたのかな、と思った。少なくとも、こんなとこでずっと過ごしてるほうが退屈だ」

「……それはそうかもね」

 カケルくんが真面目な顔でそんなことを言うものだから、私の返答も真剣なものになってしまった。テニスラケットをもう長く触っていないな、ということを思い出していた。

 やりたいことがあるかと言われれば、無い。勉強も部活も家事の手伝いも全部嫌だ。だが、何かをしたことがあるかと言われれば、無い。与えられたものだとしてもやり抜くことで先に何かが見えると、カケルくんは言っているのだ。

 カケルくんは立ち上がると、だから、と言って私から顔を背けた。

「もう会えない。話し相手になってくれてありがとう」

「……もしかして別れ話をしに来たの?」

「いや。話してたらそう思った」

「私も帰ろうかな、もう」

「え、帰んの?」

「うん。そっちがどこから来たかは知らないけど、私ももう会えないかも。あ、でも……」

 私も立ち上がって、ポケットからスマートフォンを取り出した。カケルくんがこちらに目を向ける。私はスマートフォンを見せて、にっ、と笑った。

「連絡先交換したもんね」

「そういやそうか」

「楽しみだなー、カケルくんどこ住んでんの?」

「東京」

「都会人じゃん。私神奈川」

「田舎じゃねーじゃん」

 カケルくんは、ふっ、と息を吐いて、眉を下げて微笑んだ。



 いつもいたホテルの部屋を片付け終えた。買ってきたコスメや洋服は全部ゴミに出した。どうせお金がかからないのだから、捨てるのも置いていくのも大差無い。それに、向こうでは使うこともできない。

 自分の意思でVRゴーグルを外そうとしたのは初めてだった。そっと下から自分の体に触っていき、自分の体の実在を確かめた。そしてこめかみに手を触れたとき、かつん、と何かが当たる感覚がした。おそるおそるそれをゆっくりと退けていくと、視界が緑の零と一に染まった。思わずくらりと体が傾く。上手く力が入らない。閃輝暗点のように目の前がちらつき始めて、やがて頭痛に変わっていった。

 そこで止めてしまっても良かった。だが、私の脳裏には、不器用なカケルくんの笑顔が張り付いてしまっていた。

 ぐっ、と体に力を込める。そうして外すと、視界が一気に黒くなった。目を細めれば、割れた窓ガラスが床に散らばっているのが見えた。たちまち埃臭さが広がって咳き込む。

 スカートのポケットに手を入れて、黒く固い板を取り出す。スマートフォンが入っているらしい。すぐに懐中電灯機能を使って辺りを見回していても、それ以外は何も見つからなかった──何も、だ。マイやナミを始めとした友達も、カケルくんもその友達も、私たちを連れてきた男たちも、だ。

 スマートフォンの電波は圏外になっていて、現在地も分からない。時間や日付は私が電脳世界で過ごしただけ過ぎていた。外は真っ暗だ。

 それからは、どうやって帰ったかよく覚えていない。外は原宿などではなかった。財布も生徒証も無いから、まずは警察に寄ったところまでは覚えている。それから、母親には泣かれ、父親には怒られ、気がつけば日が暮れていて、昼間からぐっすりと眠った。

 マイやナミたちがどこへ行ったのかは聞いていない。そのことは、外ではすっかり「ハーメルンの笛吹き男事件」として私たちの誘拐が取り上げられていた。電脳世界の普及に対して赤信号を出していた科学者たちが挙ってその危険性を唱え始めた。

 だが、私には政治や科学の話はよく分からない。代わりに、電脳世界で見たようには、空は綺麗ではないのだということしか感じない。くぐもってくすんだ灰色が空を覆う。零と一はそこには無い。上を向けば、傘を差した私目掛けて雨が降り続くだけだ。

 黒い傘をくるりと回して、交差点の先を見る。人々は不細工で、無個性で、どうしようもなく惨めだ。きらきら輝く若者たちも、華やいだ香水の香りも無い。人々は皆、無機質な黒い顔をしている。子供の呑気な声が聞こえてくることも無い。ビルに見下ろされ閉じ込められた狭い箱庭の中で、ゼーゼーと肩で息をしている。

 そんな中から一人の男性が歩いてくる。顔は平均、背丈も平均。まるで電子世界のデフォルトアバターのような見た目をした男だ。そんな彼はスマートフォンを片手に、私の方へと歩いてくる。

 カケルくん、と彼の名を呼ぶ。するとカケルくんは自分を指差した。頷けば、彼は人の波を押し分けて大股で歩いてきた。その姿にふと、彼とデートに行ったときのことを思い出すのだった。

 そのままカフェに入る。キャッシャーはあるし、店員もいる。昼下がりの店内には人が疎らに入っていた。席に着くと、カケルくんはメニューを見て、すぐにドリアを選んだ。

「ドリア好きなの?」

「まぁ」

「じゃあ私は……パスタにしようかな」

 ぱっと選んでベルを鳴らす。やってきた店員がオーダーの確認をし終えると、カケルくんは感謝の言葉を告げた。私もそれにならって感謝を呟く。

 二人きりになって、一度は沈黙が訪れる。そのままスマートフォンに目を落とそうとしたとき、珍しくカケルくんが口を開いた。

「……何か始めた?」

「え、なんで」

「日焼けしてるから」

「うわ、ヤバ。超能力者じゃん」

 何かを始めたわけじゃないが、部活動に戻った。体力が落ちてしまって、ランニングだけで上がってしまう。全部初めからだ。だが、一年生だからまだ可能性はあると部活動の顧問には言われている──

 そんな話をしている間も、カケルくんは真摯な目でこちらを見て聞いている。その様がおかしくて──おかしくはないのだけれど──思わず笑ってしまった。

「なんで笑うんだよ」

「カケルくん、相変わらずめっちゃ真面目」

「悪いか」

「悪くないよ」

「まぁ、県大会でも目指してみたら良いんじゃねぇの」

「キツそう」

 そっちは、と尋ねれば、カケルくんは真剣な顔のまま自分の身の上を話し始めた。

「バイト始めてみた」

「何の?」

「コンビニ」

「最悪じゃん」

 あはは、と私が声を上げれば、カケルくんも口角をほんの少しだけ吊り上げた。不器用で硬い笑顔は、前から変わらない。

 コンビニエンスストアではどんな作業が求められているのかを聞いているだけであっという間に時間が経って、ドリアとパスタが届いた。

 いただきます、のあとは、カケルくんは一切喋らなくなる。私も無理に喋らされることも無くて、食事に集中できる。前と違って顔を顰めることも無く、次から次へとドリアを口に運んでいるのを私は眺めていた。こうして喋ること無く気楽に過ごせるのは、彼の前だからだと感じる。お互い、アバターを飾らなかったのがその証拠だ。

 ふと、外へと目をやる。雨が上がって、空の色も変わっている。

 無限に広がるセルリアンブルーの空を、白いビル群が目指している。どこまでも続くグレーのコンクリートの道を、人々が歩いている。

 空を見上げた私の水晶体に映るのは、白い綿雲だ。規則的に、しかし不規則的に並んでいるそれを見るだけで、なんだか落ち着く。

 通りすがる人、全てが曇天のように暗い顔をしている。まるで、何かに絶望を抱いているように。重々しく足を進め、すっきり晴れきった私の横を通り過ぎていく。

 ここは、現実だ。誰もの願いが叶うとは限らない、現実。ヒトが生み出した、欲望と希望の世界だ。

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ネバーランドに希望は無い 神崎閼果利 @as-conductor

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