第2話 残り49,999,500円

 ――どうして、こうなった?


 俺は霧島の迫力によりもつれた足のせいで尻もちをつき、彼女はというと校舎の壁に手をついて俺を見下ろしている。


 学校一の美少女に壁ドンされるとは。流行りはとっくに去ったものだと思っていたのに。

 聞く人が聞けば垂涎すいぜんものだろう。代わってあげられるならもう今すぐにでも代わってあげたい。



 ドスの効いた声。一応俺は二年生なのだが、今この場には先輩後輩などという上下関係は存在しないらしい。



 確認するように繰り返される言葉。

 照りつける七月の日差しに相反するように、月の無い夜の闇のような光を失った瞳。

 俺の知る笑顔の素敵な霧島きりしまりんは、そこにはいなかった。


 お、落ち着け、俺。

 なぜだか分からないが、きっとなにかの偶然が重なり、彼女は奇跡的に俺のことを認識できている。それは確かなことだ。


 明らかな異常事態。

 だが大丈夫だ。冷静になれ。

 俺は自らに言い聞かせ、深呼吸をする。


 ……こういった異常事態の時のための策がある。俺はポケットから500円玉を取り出すと、霧島にそれを掲げるようにして見せる。


「…………? 金で解決ですか? 桁が五つは足りないんですが」


 不満そうに首を傾げる霧島。

 なんでこの子はこんなに偉そうなんだ。

 足りないのは彼女の頭ではなかろうか。

 むしろ、おまえだろ金を出すべきなのは。


「まあ聞いてくれ。俺はここで、なにも見ていない。だからお互い今日のことは忘れよう」

「は?」

「…………あの。だから」

「はいそうですねってなると思いますか?」

「思いません」


 怖すぎる。思わず敬語になってしまった。

 やはりまともな交渉は不可能か。俺は覚悟を決めて口を開く。


「……だから、これだ」

「あのですね。私はそんなはした金なんかで」

「じゃあな」


 そう言って俺は霧島に向けて掲げていたお金を、彼女の左側へ弧を描くようにして投げる。(お金を投げるのはやめようね!)


 これは俺が『消滅する硬貨ディサピアーコイン』と呼んでいる技で、一度俺から意識が別のものへと逸れれば、こちらを認識することが出来なくなるのを利用して姿をくらませる技だ。


 500円は高校生には大変痛いが、背に腹はかえられない。彼女も意識をお金の方へ持っていかれたのか、硬貨が転がった先へと視線を向ける。そして、ととと、と数歩歩いて当然のようにそれを拾った。


 ふふ、いくら彼女が強がっても500円は大金だ。霧島凛。俺を見つけた時は一体何者かと思ったが、他愛の無い。もう俺は彼女の認識の外だ。


 じゃあな後輩。もう話すこともないだろう。

 これでまた、いつも通りの日常が訪れる。

 俺が砂のついた制服を適当に払って立ち上がり、彼女の脇を抜けようとすると。


「なに帰ろうとしてるんですか。足りませんよ。あと49,999,500円」


 歩き出した俺の背に、そんな声がかかる。

 衝撃が走る。馬鹿な。こいつ、本気でプラス五桁を請求するつもりか? ……じゃなくて。


 見えて、いるのか? い、いや。見えているはずがない。俺は急ぎ足で校舎へと――。


「ちょっと」

「ぐえぇ」


 襟元が掴まれる。変な声が出た。

 夢か? 夢なのか?


「どこいくんですか? せんぱい、まだ話は終わっていませんよ?」


 霧島の瞳は確かに俺を捉えていて。

 彼女は拾った500円を、スッと自らの制服のポケットに入れた。


 …………う、嘘だろ?

 この後輩は、さも当然のように俺の『消滅する硬貨ディサピアーコイン』を看過したというのか? これでは、ただ500円のおこづかいを後輩にあげただけの優しい先輩である。


 霧島はにっこりと微笑む。

 天敵に出会った時の絶望感というのを、俺は生まれて初めて知ったのかもしれない。

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