きっといつか、忘れてしまう。

「……き…………おき……」


 誰かの囁く声が聞こえる。


「て………お……きて……」


「起きろ!」


 苛立った表情を浮かべ、教師が怒鳴った。


 教室中に声は響き渡り、周囲の生徒がビクリと体を浮かせる。


「うわぁぁあぁぁ!!」


 先程まで机に横たわっていた居眠り生徒が、立ち上がって叫んだ。


「うわぁじゃない! しっかり授業を受けなさい!」


 今にも即発してしまいそうな顔色を浮かべている教師に対して、居眠り生徒は余裕の笑みでへらへらと軽く笑っている。


「なんだ~、超ビビったわ~」

「なんだぁでもない! いいから席に座って黙って授業を受けなさい!」


 彼はその軽薄な笑みを変えずに、

「はい!!!」

 彼を起こしたときの教師と同じくらい大きな声で、右手を挙げ敬礼しながら言った。


 周辺の女子生徒は控えめに声を細めて笑い、男子生徒たちは何やらガヤを入れている。

 居眠り生徒はペコペコと頭を下げながら椅子に座り、そのまま授業は再開した。


――――――――――――――――――――


 突然だけど、ここで問題。俺はこの中で誰、だろうか。教師、居眠り生徒、周囲の笑っていた一般生徒、様々な人物がいたけれど俺は―――――、


 居眠り生徒を取り囲む、笑っていた生徒たちの周囲で傍観していた生徒の一人だ。


 そう俺は簡単に言えばモブAだ。Aですらないかもしれない。いてもいなくても変わらないのに、一番数の多い凡人。



 俺は根っからの凡人なようで、生まれてこの方自分を中心とした出来事が起こったことがない。そういう『呪い』にかけられている。



 俺は常に観る側の人間で、観られることはない。



 誰も俺を知らない。


 

 誰も俺に気付かない。



 誰も俺がわからない。



 誰も俺を、認知できない。




―――――じゃあ俺は、本当に存在しているのだろうか。


――――――――――――――――――――


 五月二十八日。


 雲が、本来青いはずの空を覆い隠し、白に近いグレー色の空ができていた。


 今朝は確か、予報外れの雨が降っていて、俺たちの登校が終わる頃に止んでかなりヘイトを食らっていた。


 しかしこの鉛色の雲は、俺たちが帰る頃にまた、雨が降るような気がしてならない。


 はぁ、この雨のおかげで、自転車での登校ができずバスでの登校が余儀なくされた。


 そのため普段よりはやくに家を出たから、お弁当を作るのを諦めることになった。


 だから今、昼下がりの昼食時に学校で最も混む食堂横の購買で、わざわざ長蛇の列に並んでいる。


 そのとき、半可通な声が耳に入った。


 別にここは学校で、入学して一ヶ月も生活を送っていれば聞いたことのある声なんてさして珍しくないのに。けれどこの声は何か引っかかった。


「俺さ、この学校見に来たときからずぅっとここの食堂でご飯食べたかったんだよなぁ」

「そうなのか? 私立じゃ普通の光景って感じじゃないか?」

「いやいや、そんなこと言われちゃ元も子もねぇけどさ、公立でこれは凄いだろ!」

「まあたしかに、そうだな……」


 声の正体は、直ぐわかった。先刻の授業で居眠りをしていた生徒、向日アオイとその取り巻きだ。


 彼らの会話が、横の食堂から聞こえて俺はそっちに意識を向ける。


 彼の言っている通り、俺たちの通うこの学校は購買の他、食堂があり二クラス程度の人数なら楽に入れるほどの広さである。


「折角だし、ここで食おうぜ! 俺オムライス食べたい!」

「なんでそんなガキみたいなんだよ。ここで買ったものは教室でも食べれるんだから、教室で食おうぜ」

「そうだよ……アオイくん、みんなで教室で食べよっ」


 会話は続き、アオイはここでの昼食を提案する。

 しかし取り巻きたちは、今までのアオイに肯定的だった雰囲気から一転して、まるで彼を食堂から遠ざけようとしていた。


 それは当然、アオイにも伝わっていたようで、

「どうしたんだよ。今日くらい別にここでたべてもいいだろぉ」

「…………」

 縋るようにアオイは言う。しかしやはり賛成を得られることはなく、沈黙の否定が流れた。


「ここっ! ちょうど六席、空いてるぜ! 他はもうほとんど全員じゃ座れないけど。ラッキーだな。ここで食べよう!」

 彼はそういって食堂のカウンター前にある空いた六席の一席に座った。


 取り巻きたちはというと、少しの間互いに目配せをし合って、

「ま、まぁ今日くらいは別に……」

 とアオイに続いて席に座ろうとしたそのとき、


「よいしょ~、ここの席いいよなー。カウンターは目の前だし、なんかいつも空いてるしな!」

 三年の先輩と思わしき長身で体付きも良い、おそらく運動部に所属しているだろう男が、アオイの取り巻きが座ろうとしたその席に割って入ってきた。


 もちろん一人なんかじゃなく後からぞろぞろと、女子も含めた三年の先輩たちが次々に座っていく。


 先輩たちの人数は六人。この席はちょうど六席で、その一席はアオイが座っている。


 だから当然、


「え、ちょ、俺の席は!? 俺の席ねぇんだけど!」

 余った一人の軽薄そうな男が、婉曲にアオイに退くように騒ぐ。


 この男が、無駄に大きな声で騒いだおかげで、かなり周囲の人間がこのやりとりに注目し始めた。 


 割って入られたアオイの取り巻きはこの六席から一歩さがったところに戦いて退き、場は完全にアオイ一人と、六人の先輩という構図が成立してしまった。


 けれど、アオイという男がここで引くような人間ではなかった。


「ちょっ! 先輩たち!? 先輩たちには悪いっすけど……ここは俺たちが先に取ってた席で! 他のところに……」

 すぐさまアオイは抗議を始めた。けれどアオイも自分で言いながら気付いてしまった。


 もう他に六席空いてる席なんてないことに。


 カウンター前という絶好の場所にも関わらず、アオイたちが座るまで誰も座ろうとしなかった不自然さに。


 もっと言えば、この食堂に座って食べている人たちが全員、二年か三年の先輩のみであることに。


 社会には、どうしても不文律が存在する。


 誰も口には出さないけど、誰もが守る法律が、少なからずあるものだ。


 この学校という小さな社会にも、誰もが共通認識のルールがある。


 その一つにあるのだろう。

 食堂で食べていいのは、カーストの高い二年と三年だけ。


 そうなれば必然ここで食べる人は固定化される。 

 だからそこでもまた、不文律が生まれる。

 ここは誰々のグループの席、なんて誰が言うまでもなくみんなが、自然と空けていく。

 そんな不自然なルールに、アオイはようやく気付いたようだった。


 悪いのは誰だろうか。


 当然、割って入った先輩たちだ。けれどここは、当たり前のルールを守れなかったアオイを、断罪する場に成り代わっていた。


「…………」

 アオイも、顔を暗くし親に処罰を待つ子供のように萎縮して俯いてしまった。


「なんだ? 黙ってるなら、そこ退いてくれるかなぁ、邪魔なんだよ」

「っ……い、いや、」


 そんなやりとりを最後に、俺はそこから目を離そうとした。長かった購買の列も俺の番がすぐそこになったからだ。


 それなのに、


「待ちなさいっ!!」


 突如、曇り空に差す薄明光線のように、どこまでも透き通った声が響いた。


 声の主は、同じ購買の俺より後ろの列の中から発せられた。


 ミディアムな黒髪に、少し横にハネた前髪が特徴的な女の子が、アオイと先輩たちの居る席に向かって歩いて行く。


 彼女はそのままアオイに近づいていき、リーダー格の先輩の間に入って向かって言う。


「あたしはあのチャラそうな男の人が騒ぎ始めてから観ていたけど、ここの席は彼が座るまで空席だったはずでしょう。何故彼が先に座っていたのに、あなたたちは彼に退くように命令しているのですか?」


 彼女は切り裂くような声色で、自分よりも頭一つ以上大きいような人間を、全うに諭していた。


 誰もが呆気に取られ、空気は一瞬止まったように感じる。


 それほどまでに、多くの人がこの会話に注目していた。


 少し遅れて、


「い、いや、それは……つーかお前は誰だ? いきなり出てきたと思ったら色々と……」


 リーダー格の先輩が少し縮こまった様子で対応する。


「あたし? あたしは今関係ないでしょ? ……でも確かになにも名乗らずにいきなり話し出すのは丁寧とは言えないわね……。あたしは芦原凛音。一年だけれど、この学校の仲裁者よ」


 芦原リネと名乗った彼女は、「ほら。だから、退くのはあなたたちの方よ」と面倒くさそうな顔を隠さずに言った。先輩たちは完全に虚をつかれ、立ち尽くしていた。


 けれど、相手は一年生で女子。プライドが許さなかったのか、男は言い返した。


「で、でもおかしい!?」

「何がですか?」


 すぐさま彼女も応戦する。


「あんたはこうの話し声でこっちに気付いて見始めたっていってたよな!? そんときゃもう俺たちはこの席に座ってたんだから、どっちが先に座ってて割り込んだかなんてあんたにはわからないはずだ!」


 言われてみれば、そうである。


 この状況が、先輩たち五人が先に座っていたのを、アオイ一人が割り込んだ、という可能性だって十分にある。


 あくまで、芦原リネの視点で言えばだが……。


 幼稚な主張とも取れるが、結果的に彼女の大きな弱点を突いた形になった。


 この主張は当事者であるアオイが席を取られたといっていることも、本人が言っているだけだとふいにでき、最初から観ていなかった彼女にも、仲裁には役不足だといっているのだ。


 こんな言い草は、法治された弁護の場では掃いて捨てられるものかもしれない。ただ、今この場においては彼女が先輩たちを糾弾不可能にする効力があった。


「……そう、あなたはあたしではこの場を治めるには相応しくない、といいたいのね……」


 彼女は困却した表情を見せる。それもそうで、彼女がこれ以上仲裁を計るなら、それこそこの食堂で密やかに行われた事件を、第三者でありながら初めからずっと観ていた者を出せといっているのだから……。


 ……ここで俺を推薦するのはお門違いだ。


 俺は居て居ない存在。『俺が全部見てました』なんて言えたらいいのだけど、この体に染みついた傍観の呪いがそれを許さない。


 大方そうしたところで、全員フル無視だろうなぁ。 


 と、自分を哀れんでいると、芦原リネは困り果てた表情を変え、含みのある笑みを浮かべていった。


「では彼に証言してもらいましょう。彼なら初めから全て観ていたでしょうから」


 彼女のピンと立てた指先は、


「えっ……?!」


 おもわず声が漏れた。


 同時にこの会話を聞く全ての人が、僕を観る。


 なん……で、彼女は僕に話しかけることができる!?


 驚きを隠せない僕に、彼女は近づいてささやく。


「大変驚いている中悪いのだけれど、これまでのいきさつを話してくれると助かるわ。『傍観者』の君なら」


……!! どうして、そのことを知っているんだ……。


 茫然自失の僕に、


「おーい。聞いてる? なんで、って思ってるだろうけれど、今は説明パートではないの。スピード感のない小説はあまり好みではないし……この場を治めてくれれば話してあげるから。ね?」


 変わらぬ飄々とした態度で、僕の意を介さず頼み込んできた。


 半分くらい何を言っているかわからないけど、取り敢えず僕は、あとから来た教師を加えた周囲の人に、客観的に観た事の経緯を事細かに説明する。


 途中どもりそうになっても、何故か彼女の方を見ると、変わらずの笑顔で最後まで話すことができた。


 全て観られていた事実に、さすがの先輩たちも観念したのか、教師が加わったことに戦いたのかはわからないが、直ぐに兜を脱いで謝ると、そそくさと帰って行った。


「感謝するわ……。それじゃあ」


 そう言って芦原リネは去ろうとした。しかし約束がある!


「ちょっと待ってくれ。対価が支払われてないぞ! お前は……何者なんだ?」


「それが、ほんとに君の聞きたいこと?」


 踵を返してじっと僕を見つめる。


「はっ?」


「今日、五時に図書準備室で」


 それだけいって、もう用はないと言わんばかりに人混みに紛れていった。


 その後直ぐ、俺もさっきまでの目立ちようが夢だったかのように誰にも注目されず食堂を去った。


 正直、この初めての経験と困惑に、はやくこの場から去りたかった。


 この一生忘れないであろう、あり得ないはずの体験を何故か、きっといつか、忘れてしまう、そう思った。

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