7.6㎝の枷
瀬野荘也
7.6㎝の枷
長い勤務を終えた夜。更衣室のロッカーを閉じた私は、複数の従業員に囲まれた。
その勢いときたら、緊張を生むなんてものじゃない。獲物に群がる肉食獣を想像し、薄らとした恐怖すら抱かされる。
気に触る何かをしてしまったのか。それもこんな、輪を作るまでの人を集めるまでのことを。
増産される疑問符。なんとか言葉にしようとした瞬間、正面にいた少女からズイと何かを渡された。
「誕生日おめでとう、篠岡さん」
その台詞を聞き、この時初めて自らの生を受けた日を認識した。
貴女らしいね。そう笑う彼女らに、愛想笑いが溢れ出る。こういう時に気の利いたジョークでも口にできれば良いのだが、思いとは逆に唇が重くなっていく。
皮肉めいてる場合じゃない。受け取ったのはパッと見は100均か何かで購入したであろう紙袋。しかしその中へ視線を落とせば、美容に疎い私にすら覚えのあるブランドのショッパーが眠っていた。
「ち、ちょっと待って下さい!!」
気づかれてしまったねと視線が交差する中、私は一人抗議の声を上げる。
こんな高級な物、戴けない。中身が何かはわからないが、ブランド名からしても、ゆうに数千円は下らないだろう。
しかしその反応は不躾だと諭される。これまで急なシフト変更にも応えてくれた事、バイトリーダーとして教えを受けた事……そうした礼も含まれているのだからと伝えられれば、受け取らざるを得なかった。
「ねぇ、折角だから開けてみてよ」
返品は避けられた。そう認識したであろう1人が、反応見たさにそう告げる。
折角だし、良いよね。伝染するかのような興味に対し、答えぬ度胸など持ち合わせていない。
「……これは」
小ぶりながらも美しい装飾を施されたそれは、封を開けずともその大きさから察することができる。
「口紅。似合いそうな色を見つけたから」
補足の台詞に、色めき立つ空気。ここのは発色がいいだとか、自分も欲しかった新シリーズだとか、キスの日が近いだとかでなかなかの盛り上がりを見せた。
「折角だから、好きな人とか出来た時に使うといいよ。
コンセプトが、なんだっけ。恋の色、そのものに……って感じだったから」
恋という単語が出て、一層その場が盛り上がる。ここの女性陣はそういった話題が大好物だ。
あまりにも広い話題からか、時間がかかりそうな空気を察した店長が帰宅を促した。色恋沙汰に疎い私だ。それが救いになったことは言うまでもない。
散り散りになる更衣室。帰路に就こうとした私に、途中まで歩きたいと願い出る後輩がいた。
普段は閑散としている夜道だが、お喋りな彼女のお陰で随分と賑やかだ。彼女が向かう先には新たな恋人がいるらしく、それがまた一段と燃料となっていたのだろう。
「先輩は、恋愛とか興味ないんですか?」
自らの事を粗方語り終えた彼女から、素朴な質問を投げられる。
恋人はいないのか。昔はいたのか。誰かを好きになった経験は。その全てに首を振れば、好奇を含んだ声が上がる。
「いやいや、勿体無いですよ。先輩、仕事とかめっちゃ出来るのに」
「それとこれとは関係ないよ」
如何にレジを早く打とうが、商品を綺麗に籠へと詰めようが、それが色恋沙汰へと比例する筈もない。
告白の経験がないのなら、その逆は。その問いかけにも私は愛想笑いで否定する。
「楽しいですよ、恋愛。先輩も変わるかもしれないっすよ」
「それも聞くけど、何だかよくわからなくて」
その温度や衝動もわからなければ、自らが変わっていくと言うのもわからない。
素敵なモノだということは知っている。美しく煌びやかなモノであることもそう。
だがそれに自らとはどうしても繋がらず、別世界の宝石かのように思えてしまうのだろう。
「先輩も、いつか素敵な恋ができるといいですねぇ」
そう最後に、彼女は駆け出した。向かう先には同い年くらいの青年がいる。軽やかなその足取りは羽でも生えているかのようで、夜だというのにとても眩しく思えるほどだ。
彼女と別れ、路地を曲がれば、その輝きも遠くなる。
静かな住宅街。場所が場所だけに、空き家の数も歩を進めるごとに増えていく。
恋をすれば変わるかもしれない。
彼女の言葉に、ショッパーが重くなる。いつも使っているのは、ドラッグストアのワゴンセールで購入した色付きリップだ。それが勿論悪いとは思わないが、どこか後ろめたく思う自分がいる。
恋をしていない私は、一体何だと言うのだろう。
変わると言うのなら、その前は何。羽化を待つ蛹のようだとすれば、私は一体何になる。
私は私であろうに、それを揺るがすものとは、何。ガラスの靴を履いたシンデレラのようにでもなるのだろうか。
「可笑しい」
自虐的な笑みの中、それでも少し考えてみる。
足元にはパンプス。少しだけ高いヒールに、細やかなビジューが付いているのがいい。
纏うのはスカート。いや、ワンピースの方が合うだろうか。ありきたりだけど白いやつ。フリルよりはレースをあしらって、朝風を受けるカーテンのように広がっていく。
小さめのバック。光を集める髪飾り。暖かい青空の中、ガラスペンのように道を綴る。
メイクもそう。扇のような睫毛、体温の向上を思わせるチーク。
軽く開いた唇には、頂き物の口紅を。いつか触れるであろうその時を、待つかのような滑らかさでーー
「ああ、本当に……似合わない」
遠心力でもかかるように、ぐるりと一周回ってみる。
こんなにも空想は働くのに、隣にいる誰かのことは全くもって想像できない。彼女のように駆け抜けど、辿り着く先が闇なのだ。
とてもとても滑稽だ。誰かを求めるだけ、独りを感じるのだから。
願う前に理解せざるを得ぬ関係。迷惑をかけることなく生きることを強いられる世界。
そんな中で、恋という異物を浮かべてみてよ。宙ぶらりんのシャンデリアは何の光も灯さなくて、無理にスイッチを入れて仕舞えば、伽藍堂の空虚さが浮き彫りになる。
虚しさを抱くだけでしょう。誰かに思いを馳せるだけ、きっと孤独に震えるでしょう。
「ならば、恋なんてしなくてもいいじゃない」
ステップ、アンダンテ。空を見上げれば、愛と喩えた月もない。カーブミラーには草臥れた女が1人。薄く笑った先には、歪んだ虚像が応えるだけ。
「もうこれ以上は、無理なのよ」
決して美しくはないけども、日々を過ごすだけなら十分だ。適度な笑みさえメイクにすれば、誰かの敵にはなるまいから。
特別に思うこともなく、特別になることもない。それでも、生きていくことは出来る。私はそうやって、孤独な夜を生きてきた。
帰宅後、私はその足で戸棚へ向かう。
日用品の籠の向こう。口紅はショッパーのまま、深い眠りに就いていく。
思い出せない程の未来で会いましょう。遠く遠く、彼女達がいなくなったその先に。
その時はきっと、唯の道具として捉えることが出来るから。
7.6㎝の枷 瀬野荘也 @s-sew
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