僕とあなたの5分間

ハル

僕とあなたの5分間

 僕の通学距離はたった徒歩5分、バス20分

 マンションから駅までの歩く時間が僕にとってとても輝ける時間だ。辛い学校生活の中、何か楽しみがなければこんなに在宅を叫ばれている中、学校に行こうという気は起きない。ただ、僕にとっては一週間の在宅はとても辛いものだったが、通学が再開されて椅子の上に立って両手を思いっ切り振り上げ歓喜していたのは、中学生の中で僕だけだっただろう。

 それほどに、僕はこの5分を手放せなかった。もう過去形だ。映画や偉人なんかも言っているように、始まりがあれば、必ず終わりもあるのだ。僕にとっては中学校が終わることで、幸福が終わった。


 最後の幸福の5分が始まった。朝、マンションから出るとちょうど目的の人の背中が見えたので追いかけた。


「おはようございます。」

「あら、みつる君、おはよう。」


 黒いコートを着てマスクをしてマフラーと手袋で重装備の女性は冬の重い空気を飛ばしてしまうほどの軽やかな声で僕に答えた。彼女の名前は橋本香苗はしもと かなえさんと言って、僕が住むマンションの2つ下の階に僕が中学入学の年に入ってきた。彼女は駅を利用して通勤しているようで、僕とたまに時間がかぶっていた。

 最初はお互いに挨拶程度しか話さなかったが、僕の頭の悪さに辟易した両親が塾のことを有名大学を卒業して大企業勤めの彼女と世間話程度に話してから、休みの数時間だけ僕の勉強を見てもらうことになったことで僕と彼女は気安く話すようになった。

 彼女は教えることが上手で赤点常連だった僕が急にたった1年で一桁の番数に上りつめたときは教師や同級生に驚かれた。香苗さんのことは誰にも教えたくなかったので、


『参考書で勉強した。』


 と嘘を言った。


 しばらく、騒がしかったが僕は知らぬ存ぜぬで通したことと、あれからも番数も成績も落としていないので、それが当たり前になり全員が受け入れていった。そんなことを香苗さんは知らなかった。そういった経緯で、そこで彼女に心惹かれた僕は彼女に合わせた時間で家を出ることにした。その時間帯で出ると少し早いのだが、本を読んだりしていればいいので全く問題なかった。


「そういえば、志望校受かったってきいたわ。おめでとう。」


 と、彼女は思い出したように言った。僕は志望校の結果が昨日わかったので今日言おうと思っていたが、昨晩母がテンションが上がって彼女に報告していたことを思い出した。


「うん、そうなんだ。なにもかも、香苗さんが僕に最初の基礎を教えてくれたおかげだよ。本当にありがとう。」

「けれど、継続して勉強したのは満君でしょ?十分あなたの実力よ。努力家だって知っていたけれど、あなたのお母さんから昨日の夜に連絡をもらってとてもうれしかったわ。」

「喜んでもらえてよかったです。香苗さんにせっかく教えてもらったんだから中途半端な学校ではなく、とびっきりの学校に行こうと思いました。」


 本当に褒められる彼女に僕は本心を伝えると、彼女は苦笑いだった。「そんなこときにしなくてよかったのに」と彼女は肩をすくめた。


「気にするよ。香苗さんの教え方は本当に上手だったんだから。それを証明したくて。うちの両親もとてもあなたに感謝しているんだよ。」

「確かにあなたのお母さんは結構涙流したような声だったわね。感極まっているような。」

「やっぱり。でも、僕ら家族は香苗さんに感謝しているんだよ。」

「そっか。お世辞でもとてもうれしい。そう思ってもらえてよかったわ。」


 香苗さんはそう言って僕から目をそらして前を向いた。少しだけ俯きがちになるが背中まで曲げることはなく凛とした立ち姿は彼女の魅力だった。彼女は身長が女性の中でも高いほうだが、いつでもどんなに疲れていても背中だけは曲げて歩くことはなかった。僕はすぐに背を曲げてしまうから、周囲から舐められることが多かったので、そんな彼女に憧れた。

 シンと静まった空間、寒波のおかげでまだまだ吐く息が白くなっていた。


――このまま息で霧ができて僕ら2人だけ閉じ込めてくれればいいのに


 いつもいつも願っていた。

 彼女と一緒に歩き始めた中学1年の冬からこの丸2年、願わない日はなかった。知っていくほどに遠い存在だと認知せずにはいられないのに、手を伸ばす距離を歩いていた彼女。蜃気楼を見ているような心地。幻に夢見る人の気持ちが僕にはわかった。


「満君は将来の夢とかあるの?」


 突然の香苗さんからの話題に僕は驚いた。


「どうしたの?突然。」


 と、僕は質問に質問で返してしまった。どんな質問に対しても即座に答えていたのに、この時は冬の寒さが影響しているからか一気に年を取ったように頭の回転が遅かった。

 香苗さんは目じりを下げて小さな声を上げて笑った。


「そんなに戸惑うところを初めて見たかも。何となく、聞いてみたかったの。」


 と、彼女は言った。

 僕は、うーん、と考えていると一瞬彼女が横にいる未来像が頭をよぎったが、それは頭の片隅に投げて、考えをめぐらした。今まで将来のことなんて一ミリも考えたことがなかったから、こんな風に聞かれると困ってしまった。ただ、一つだけ漠然と考えていることがあった。


「世界中を旅するバックパッカー。」


 と、僕が言うと、香苗さんは驚いた顔をした。


「ええ、本当に?とても壮大な夢だね。」


 彼女は馬鹿にしたような口調ではなく、むしろ目を輝かせて尊敬に似たまなざしを向けてきた。


「満君、英語得意だもんね。英検1級保持者だったわね。」

「うん、香苗さんのおかげで好きになれた。」


 彼女は感心していた。

 彼女から勉強を教わるまで一番苦手科目だったが、彼女のおかげで僕の英語は一気に伸びた。それは彼女が色んな洋画を例にしたり、英語の本なんかでいろんなことを教えてくれたからだった。バックパッカーもそれによって描いたものだった。僕の中は何もかも彼女が起源になっていた。


「本当は最初から英語が苦手になることはなかったのよ。多分、満君は食わず嫌いだっただけで。急にアルファベットっていう日本語とは全く違う言語だったから拒絶反応が出ただけよ。」

「英語アレルギーって言っていたね。香苗さん。」


 こうして、彼女と最後の5分間はなぜか英語談義で幕を下ろした。5分なんてアッという間に過ぎて少し話で盛り上がると、最高潮の前に着いてしまう距離だった。駅で別れるとき、僕は彼女に握手を求めた。


「香苗さん、握手してもらってもいいですか?」


 と、僕が手を差し出して言った。すると、香苗さんは驚いたようで、それから解放されてにこやかな顔に戻ってもすぐには手を出さずにカバンの持ち手から手を離さなかった。


「何?どうしたの?急に。」


 と、彼女は僕が差し出した手を見て言った。何かを疑っているようだった。


「感謝を表したくて。違うね。ただの自己満足かも。でも、最初に僕の部屋に来て授業をしてくれた時、最初の挨拶だからって握手したよね。あれと同じ。」


 と、僕は言ったが、彼女は目を見開いて悲しそうな顔をした。その表情で彼女が僕の言葉に秘めた本当に意味を察した。少しだけ考えたように下を俯いた彼女だったが、駅が混んできたことで時間も少ないと思ったのか、慌てたように顔を上げた。彼女の目は少しだけ潤み白いマスクから見えた頬はほんのりと赤くなっていた。もともと、色白の彼女の肌は赤くなればすぐにわかった。


「満君、あなたは否定していたけど努力家だし、最後まで頑張れる強い人だよ。自信を持ってね。」

「はい、あなたにそう言ってもらえたから僕は諦めずに頑張れました。ありがとうございました。香苗。」


 彼女は僕の返事を聞いて安堵したように涙が目じりに耐えきれなくなったように一筋だけ流れた。それを僕は見ないふりをして彼女が手を差し出すまで待てずにその手を迎えに行った。


「本当にありがとうございました。」


 僕は彼女の手を強く握って言った。彼女はただ頷いて手が離れると駆け足でゲートを通って行った。


「最後にお礼を言えてよかったです。」


 僕はゲートを通りホームの方へ駆けていく彼女の背中に向かって呟き深々と頭を下げた。そして、顔を上げると、すでにそこに香苗さんの姿はなかった。


「さようなら。」


 僕はそれだけ言って駅から出てバスターミナルの方に向かった。

 寒さで凍えそうなほど心までも凍らしていくかと思ったが、案外、心は平気そうだった。昨夜から彼女と会えなくなるこの瞬間を想像して寝不足になったりはしたが、その時の絶望とは全く違っていた。チクりと痛む胸の中に、それでも最後に何かを彼女に対して言えたことと、彼女から最後に見せてくれたものが悪いものでなかったから、僕の心は十分満たされた。


「ありがとう、香苗さん。あなたがいてくれたから、今の僕があるんだ。あなたがいなかったことら、なんて考えたくないくらい。でも、これからはあなたがいなくても、僕は学校に通えるし頑張るよ。毎日、2年間の癒しの5分間をあなたが僕の中に記憶として残してくれたから。」


 と、僕は本当に心からこの終わりに感謝した。

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