我が身より出づる

西野ゆう

我が身より出づる

 岐阜県七宗ひちそう町。

 深夜ともなれば、岐阜県東部を高山方面へ縦断する国道の交通量も減り、静寂に包まれる。

 静寂、とはいえ、この広く小さい世界から音が消えるわけではない。

 水を張った田からは蛙の声が聞こえ、深く手の届かぬ森からはフクロウの声が聞こえる。ただ、それらの音が静寂を作るのだ。

 おそらくその静寂に耐えかねて目が覚めてしまったのだろう。私は、さして眠気を引きずることもなく、ベッドから体を起こした。

 インスタントのコーヒードリッパーから、濃いめのコーヒーを落とす。

 その音にはさすがに静寂もパチンとはじけて消えた。

 コーヒーの香りを嗅ぎながら、目を覚ました原因を知る。それは私の内側にあった。

 眠りの途中、覚醒することはしばしばある。だが、そのまま瞼は開かず、次の眠りの波をただ待つのが常だ。

 私はこれからあの沢へ行かなくてはならない。神淵川かぶちがわへ。その思いが、私の身体を動かしたのだ。そこで、今しがたまで見ていた甘い夢の続きを見なくてはならない。

 コーヒーをカップの半分ほど飲むと、私は霧が降り始めている外へと出た。

 街灯のない細い道。かろうじて普通車二台がすれ違うことはできる道を、ゆっくりと進む。深い静寂に、モーターの音はすぐに吸い込まれる。

 その道の途中、僅かな待機場所に私は車を止めた。

 ヘッドライトが消え、動力を切られた車の車内灯が、ゆっくりと消える。

 そこは完全な闇だ。川のせせらぎと、気の早い虫の声だけが頭の中で直接鳴っているように聞こえる。

 窓を開け、ドアを開いて外に出る。

 谷底を流れる川に沿う道は、よほど好天が続かない限り湿っているものだ。この夜も、湿ったアスファルトは闇を濃く反射していた。だが、この闇がこの後の演目には都合がいい。

 私は窓から車内へ腕を伸ばし、ハザードランプを数回点滅させた。それが開演の合図だ。

 光の点滅に誘われて、黄緑色の光が空を泳ぎだした。

 ひとつ、ふたつ、みっつ。

 数を数えられたのは最初の数秒間だけだ。たちまちにそれは無数の光の舞になった。


 妻がこの世を去って十年になる。

「少し数が減ってきたか……」

 空を舞う蛍の数が、十年前より減った気がした。

 この世にさまよう魂が、減った気がした。

 妻との思い出も、随分と減っている。

 蛍の光は、私の身体から出てきた魂にも見える。

 減ったのは、私の魂なのだろうか。私の、亡き妻への想いなのだろうか。

 さまよう魂を存分に眺めて、私は再び車を動かした。

 あれほど飛んでいた蛍たちは、ヘッドライトから隠れるように消えている。

 その代わり、私の胸には、毎年のようにここでホタルを見ていた妻の笑顔で満たされていた。


 物おもへば沢の蛍も我が身よりあくがれいづる魂かとぞみる(和泉式部)

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