第50話 井の中の獣
足音が聞こえた。間も無くだ。
扉に耳を当てていた鷹生が皆へ合図をする。深月は工具箱から取り出した大きなハンマーを両手に持ち、水槽の側で構えている。この二人はなんとダイバースーツを身につけていた。両手両足と顔だけを出しており、さらに腰に巻きつけたロープを壁のパイプに結びつけている。
網野、釣井、天海、大波田はと言うと水槽に浮かべたゴムボートにティナを囲うようにして乗っていた。本来なら三人乗りのものだ。しかもティナは平均的な成人男性よりも大きいので、かなりのキャパオーバーである。
しかしこの博打に賭けるしか網野らに脱出の方法はない。
ドアノブが回される音がした。扉が勢いよく開かれると同時に銃を持った三人が入ってきた。その内の一人が浦田だと認識できるや否や、深月がハンマーを水槽にぶつける。割れてできた小さな穴から水が溢れ始め、何が起きているか理解できなかった浦田らに出来た隙を鷹生は見逃さなかった。開かれた扉の陰から飛び出し、浦田の仲間の公安の銃を奪い二人に構える。
「お前ら二人には撃ちたくないぞ」
彼がそう牽制している間に、深月は二つ三つと水槽の穴を増やしていく。やがて負荷に耐えられなくなった水槽のガラスは粉々に砕け、放水のように溢れていた水が津波に変わる。その波に乗って、ゴムボートも流れていく。当然扉の前にいた浦田ら三人にも直撃し、彼らは波に流され廊下の壁に体をぶつけた。ゴムボートも同様だったが、生地のおかげで大した衝撃はない。網野ら四人はすぐさまゴムボートを下から抱え、関係者用出入り口へ向かう。
しかし浦田もさすがは公安の人間。それを見逃さずに「待て」と銃を構えるが、ロープで体を繋いでいなかったことにより流されなかった鷹生の銃口もまた浦田に向けられていた。
動けなくなった浦田を助けるように、今度は麻里が鷹生へ銃を構える。
「鷹生さん。銃を下ろして。私もあなたを撃ちたくないの」
「じゃあ、ここは夫婦仲良く下げるか?」
「……いいえ」
「ならお互いこのままだ。網野君! 今のうちに! 早く逃げなさい!」
彼の言う通り、脱出の好機だった。この場を鷹生と深月に任せ、網野らは建物から再び浜辺へ向かって飛び出した。
「玲! 戻ってくるんだ! 目を覚ませ!」
浦田が玲の背中に向かって叫んでも、彼は振り返ることなく網野と共に逃げていった。
「クソ! どうしてなんだ!」
水浸しの床へ浦田は唾を飛ばす。濡れた髪の毛を掻き回し、呼吸は荒く、瞳は獲物を狙うシャチのように鋭くなっていた。
「裕貴君、君は変わったね」
鷹生の発言が気に入らなかったのか、彼にその恐ろしい視線を送る。
「何だよおじさん。説教か?」
しかし鷹生も怯まずに浦田から目を離さない。彼の問いを無視しながら話を続けた。
「昔はあんなに心優しい子だったのにな。ここに遊びに来ては子犬のようにはしゃいでいた」
「だから何だよ!」
「お前が変わったのは、志鶴が死んでからだ」
志鶴という名を聞いた麻里と深月は一瞬だけ目を合わせるとすぐに俯いた。浦田志鶴。深月の叔母、鷹生の妹。そして浦田裕貴の実の母親だ。
随分と昔の話だ。シングルマザーだった志鶴は幼い浦田を連れてハイキングへ出かけた。しかし道に迷った先で彼女は熊に襲われた。泣きながらその場から逃げた浦田は近くを通りかかった他の観光客に無事に救助された。無事にというのは外傷の話だ。目の前で引き裂かれる母親の姿は今でも彼の記憶の奥深くまで根を張っている。
それからしばらくして麻里の人魚研究が落ち着いた頃、暗くなった浦田の傷を癒すことも兼ねて汐入家四人と浦田の五人で海水浴に向かった。そこで再び悲劇は起きた。
過去を振り返る浦田の銃を握る手は小刻みに揺れていた。
「また裕貴の心に傷をつけてしまった、と本当に後悔した。そして麻里。お前はどうしてそんな裕貴を海王会へ誘ったんだ」
銃口は甥から妻へ向けられる。
「深い傷はただじゃ癒えない。憎しみで救われることもある。私もそうだったから」
「本当に救われているか? 少なくとも玲はその犠牲になってる」
「……そんなことない」
「じゃあ、どうしてここに玲がいない?」
「それは……」
言い淀む麻里。
鷹生は深く深呼吸すると、彼女の前へ奪った銃を投げ捨てた。その行動に、誰もが目を丸くして驚く。
「父さん?」
自衛の手段を失った父への心配となぜ銃を手放したのかという気持ちを込めて深月は呟くが、鷹生がそれに対して答えることはなかった。
「麻里、お前も薄々気がついていたんじゃないか。自分たちのやっていることは玲のためになどなっていないって」
「……」
「どうして何も答えないんだよ」
浦田は共に戦ってきた叔母の異変に苛立ちを隠せない。
「俺たちは常に玲のことを一番に考えてきた。だけど、玲を網野光来に奪われた! 洗脳までされてる! だから取り返しに来たんじゃないか!」
それでもなお、麻里は口を開かなかった。深月も同様で、鷹生は頭を抱えた。
「……洗脳させているのはどっちなんだ」
「は?」
「海王会のことだ! お前たちの私欲を満たすために、MML解体と人魚撲滅を掲げた忌まわしき組織だ」
「人魚を嫌っている人がいることは事実だろ!」
「お前たちと彼らは目的が違う。嘘をついているのと変わらない」
「どうして叔父さんはそう頭が固いんだ」
「固いのはお前だ。狭い視界の中で、柔軟な考えを持てていない」
その言葉が浦田の気に触ったのか、彼は目にも止まらぬ速さで駆け出すと鷹生が手放した銃を拾い上げた。
引き金が引かれたのと、深月の叫び声が上がったのは同時だった。
施設を抜け出すとやはり漁師たちが行手を阻んでいた。しかし彼らが待ち受けているのはわかっていたこと。網野らもしっかりと対策を練って来ていた。
「おいおいどうした、自分たちから出てきて。とうとう頭がおかしくなったか?」
先頭の男の言葉に笑う一同。彼らの前へ玲は歩みを進めた。彼の姿を見つけた瞬間、皆の顔から笑顔が消え、辺りは静まり返る。
「玲様……、よくぞご無事で」
「玲様! 早くこちらへ! さぞお辛かったでしょう!」
すぐに漁師らが玲に駆け寄り、彼らの方へ引き寄せようとするが玲はそれを拒んだ。肩に置いた手を跳ね除けられた漁師は何が起きたか信じられないといった様子だった。
玲は冷たい目を彼らに向けながら、
「道を開けろ」
と言い放った。
「会長の命令だ。問題は解決した。僕たちに道を開けろ」
そう続けるが、それでもなお漁師は動かない。玲の目の鋭さがより一層強まった。
「何だ? 先導者の言うことが聞けないのか? 海王会においては会長よりも上の存在であるはずだ」
「し、しかし」
「僕に口答えをするのか?」
刺し殺してしまうような眼光。それに誰も逆らえなくなり、漁師らは体を震わせながら網野らへ道を開けてくれた。
「会長が戻って来れば再び指示があるだろう。それまでは待機だ」
玲に対し頭を下げる二つの列の中央を、網野らはティナを抱えて進んでいく。海王会において玲がいかに絶対かわかる瞬間であった。玲が通り過ぎた後も彼らはしばらく頭を下げていたままだったのだ。
「玲、お前がいてくれて本当に良かったよ」
天海が感謝を述べる。皆も同じ気持ちだと頷いた。
「僕も、初めてほんの少しだけ海王会の先導者で良かったと思った」
冗談なのか、本心なのか。それはわからない。しかし玲の存在が窮地を脱するきっかけになったことは事実だ。網野は彼に心の底から感謝していた。
「さあ急ごう」
漁師たちの列を抜け、網野らは少しだけ歩みを早める。浜辺へと続く階段の前を通り過ぎ、海を横目にコンクリートの道を歩いた。すぐ先に船は見えてあるが、ティナを抱えているせいか随分と遠く感じてしまう。
誰も口を開かずにひたすら船を目指して足を動かしていた。だからこそ、その音は辺りによく響いていた。
乾いた発砲音が二発。小さな水の星の方からだった。
皆思わず足を止める。特に玲や天海は残った汐入家の人々の身を案じるように、後ろを見ていた。しかし彼らを裏切るように施設から姿を表したのは銃を片手に持った浦田の姿だった。
「走って!」
大波田の声と同時に、皆は力強く地面を蹴る。
ティナの乗っているボートが大きく揺れ、それによって走りづらくなる。しかし走らなければ追いつかれる。緊急事態だった。
「待て!」
背中から浦田の声が聞こえるが誰も振り返らない。とにかく船を目指した。
「急いで船に! 僕がいるうちは撃たないはずだ!」
と、玲も皆を鼓舞した。
ようやく船と網野らの距離が現実的になってくる。それと同時に浦田との距離も縮まっていた。
「早く乗って!」
玲が船の手前で待機し、他の四人を甲板へ誘導する。大波田はティナの運び込みを網野らに任せるとすぐに船のエンジンをかけた。モーター音が鳴り始め、船体が岸から離れていく。
網野は波止場に残っている玲に向かって叫んだ。
「玲! ありがとう!」
答えるように手を振る玲の後ろへ浦田が追いついた。彼は背後から玲の体を抱えると、銃口を網野の方へ向けた。天海はすぐそれに気がつき、網野の頭を抑えようとする。
発砲音。
天海の手が網野へ触れる前に、抉られた横腹から噴き出た血が白い甲板を汚した。
「先輩!」
意識が飛び、膝から崩れる網野。釣井は抱き止めようとするが、それさえも間に合わない。網野は頭から海へ落ちた。
「網野!」
天海は船から下を覗き込むが、意識がなくなっている網野はもがくことなく、沈んでいっていた。
「大波田さん、止めて!」
釣井は操舵室にいる大波田に叫ぶ。玲は小さな体で浦田の胸ぐらを掴む。天海は潜るために上着を脱いだ。
しかし、天海よりも早くティナが海の中へ飛び込んだ。
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