最終章

第49話 獣の牙

 少し前まで遡る。


 深夜に神奈川を出たワゴンが静岡に上陸した。ハンドルを握るのは浦田。助手席に麻里。その後ろには八尾比、浦田の仲間である公安たちが乗っていた。


 街灯に照らされるアスファルト。その景色の一点を見つめる麻里に、浦田は正面を向いたまま尋ねる。


「不安か?」

「……まあ」


 玲が自分たちの手を離れて網野と共に逃亡した。浦田自身も、網野に唆されていると玲に言いはしたが、彼は自らの意思で海王会を出たようにも見えた。家族の中でも一番の愛情を玲に注いできた麻里にとって、今回の件はショックで仕方がないのだろう。


「大丈夫だ。海王会会長として、必ず玲を取り戻す」

「海王会会長としてだと? 公安として網野を追う気はもうないのか? 俺たちが何のためについて来ているか忘れるなよ」


 後部座席に座っていた公安の一人が浦田に忠告する。しかし彼はそれを鼻で笑った。


「俺が何のために好成績を収めてきて、公安になったかを忘れているんじゃないか」

「忘れてないからここにいる」


 仲間も負けずに言い返す。


 浦田は警察学校時代から、人魚の危険性を語ってきた。生態と環境へ及ぼす影響に関しては周知の通り。浦田が主張していたのは人魚というコンテンツを日本がほぼ独占していることだ。初めて人魚が発見されたのは日本。それ以降も領海やその周辺で目撃が相次いだ。また、世界で唯一の人魚専門研究機関と大型飼育施設があるのも日本のみだ。


 人魚は数多の可能性を秘めた生物だ。どの類にも属さない。ホモ・サピエンスを上回る可能性があるほどの知能。それを日本が独占している。世界には日本が人魚を生物兵器として利用しようとしているように見えている人もいる。国の命が関わる問題なのだ。


 見事、公安に選ばれ、この人魚の件を担当することになったが、浦田にとってはもうどうでもいいことだった。


 公安になるための建前に過ぎなかった。


 襲われる玲を目の前で見た。あの光景が脳裏に焼き付いて離れない。


 人魚は人類の敵。その信念のもと、生きてきた。


「おばさんだってそうだろ?」


 と、助手席の麻里を一瞥する。


 目的地である『小さな水の星』が近づいてきていた。看板に気がついた麻里は、それから目を離し頷いた。


「もちろん。愛する息子を傷つけた人魚が許せなくて、ここまでやってきた」


 浦田は看板に書いてあった矢印の方向にハンドルを切る。かつてよく訪れていた、実家のような場所が見えてきた。


「さあ、世界で一番人魚撲滅を願う二人がやってきたぞ」


 突然、八尾比は静かに肩を震わせて笑い始めた。バックミラー越しに、浦田は舌打ちをする。


「追い詰められて、頭がイカれたか?」

「網野君は世界で一番、人魚を愛している男だよ。甘く見ない方がいい」


 入り口目の前に駐車し、ワゴンから出る。浦田はホルスターから銃を引き抜きながら、


「甘く見てなどいない。十分な勝算を見積もっているだけだ」


 と、八尾比に返した。


 浦田も麻里もこの施設の構造は把握している。入り口を塞げば逃げ道が海しかないことも知っている。全てこちら側にとって有利だ。


「会長! 海岸の包囲は終わってます!」


 網野らが動きを見せたという連絡をくれた会員の漁師が報告にやってくる。彼を「ご苦労」と労うと、持っていた銃を上空に掲げて一発弾を放つ。


 火薬の匂いが辺りに充満する。


 浦田の突然の発砲に麻里までもが驚いていた。


「威嚇射撃だ。ただのハンデに過ぎない」


 残響が聞こえなくなったところで、「突撃」と浦田は指示を出す。それに合わせて、八尾比を見張るための一人を残し、もう一人の公安、麻里の二人が浦田に続いた。二人とも銃を、公安の仲間に至ってはライフルまで装備していた。網野らを再び取り逃すつもりはないのだ。


 鍵のかかった正面扉のガラスを蹴り破り、三人は『小さな水の星』内に侵入する。


「隈なく探せ。必ずこの中にいるはずだ」


 三人は手分けするために別れて行動した。


 今回は公安としてこの場に来ている。MMLの時と違って、人手が少ない。勝機はこちらにあるといえど時間がかかる。目の前にあるゴールに辿り着かない感覚が浦田を苛立たせた。


 観覧スペースに隠れる場所はない。おそらく、従業員しか立ち寄れない場所にいるだろう。


 スタッフ以外立ち入り禁止と書かれた扉の前に、三人が再び集合する。


「奴らもただ隠れているつもりはないだろう。気をつけろ」


 初めに事務室の扉を開く。電気がついていない部屋は薄暗く、デスクなどが並んでおり視界が悪い。隠れる場所としては最適だが、人気はない。何より隠れること以外何もできない場所だ。ここに網野らが潜んでいるとは考えにくい。


 事務室内を一周した三人は続いて応接室、宿直室を覗くが彼らの姿は見当たらなかった。


「一体どこにいるんだ?」


 浦田の中で勝算が狂う。本来なら、もう見つけて捕獲している時間だった。


 仲間の公安も上手くことが進んでいない様子を察しており、浦田に確認をする。


「もう、人が隠れられるような場所はないはずだろ?」

「いえ、まだある」


 麻里が指差した先にあるのは、バックヤード用の水槽を用意している部屋だった。全部で四室。まさかと思って見ていなかった。そこに潜むということは隠れる気がないということだからだ。


「真っ向勝負がお望みなのか?」


 何を仕掛けてくるのか検討がつかない。冷静を保ち、起きたことを一つ一つ対処していくほかない。


 浦田は二人に合図をすると、第一水槽の扉を開けた。コンクリート張りの壁と床。手前には水槽の掃除道具やダイバースーツ、何のためのものなのかゴムボートまであった。部屋の奥に大きな水槽があるが、小さな魚が数匹泳いでいるだけだった。第二水槽も同様だったが、第三水槽にはなぜか人魚がいた。しかし今はどうでもいいことだ。彼らがいなければ無視していいものである。そして残っている水槽は一つだけとなった。


 第四水槽。そう書かれたプラカードの下にある扉のノブを浦田が握った。

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