第51話 海の底から

 横腹を打たれた痛み。海に落ちた衝撃。それらによって、網野の意識は遠のきつつあった。しかし、意識がなくなりかけているという事だけは明確に自覚していた。


 死んでしまうのか? そう、自分に問いかける。


 もし本当に死んでしまうのだとすれば、こんなにも死はあっさりしたものだったのかと思った。怖さなんてない。ただ何も出来ず、何も考えられないようになるだけ。


 辛うじて空いていた目も閉じていなければ苦痛になってきた。見えていた青い視界に無数の泡が広がるが、その理由を考えるほど網野に体力は残っていなかった。


 こちらへ向かって伸びてくる黒い手。水に揺れる金色の毛。


 あの日見た景色と同じだった。


 今までにない高揚感が網野の中に溢れるが体は答えてくれず、ゆっくりと目を閉じる。


 それと同時に何者かが網野の腰に手を回す。体が浮上する感覚。


 まるで夢のような感覚だ。


 あの日も夢かと思っていた。


 網野がまだ小学生、それも低学年だった頃。人魚だって発見されていなかった時期だ。


 夏休みのある日、彼は友人たちと川へ遊びに行っていた。今考えると危ない行為だ。しかし時代もあり、彼らの親はかなり放任主義だったのだ。


 水切りをしたり、釣りをしたり。楽しんでいた中、その事件は起きた。足を滑らせた網野は川の中へ落ちてしまったのだ。不幸なことに底が深い川だった。


 網野はこの頃から泳ぐのが得意だったが、パニック状態になった網野は顔を水面に出すだけで精一杯だった。しかし顔は出せても、川岸にいる友人たちからは離れていく。それなりに勢いのある川だった。友人たちはすぐに見えなくなる。


 網野はその瞬間にもがくことを諦めた。友人が近くにいない以上、助けを求められる人はいない。助けを求めても意味がないと思ったのだ。


 暴れなくなったためか、体が沈んでいくことはなくなった。ただ顔だけを水面から出し、川の意思に沿って流されていく。


 海が近くにあったので、すぐに塩の味がするようになった。


 不幸に不幸が重なり、みるみる内に沖の方へ流されていく網野。やがて波が彼の上に覆い被さった。


 大量の水が口の中に入り込み、むせていると体が海の中へ沈んでいく。慌てて浮上しようにも、咳き込んでしまうせいで上手くいかない。


 離れていく海面。どれだけ手を光に伸ばしても、網野の願いは届かない。


 意識が途切れそうになる瞬間、金髪の女の子が見えた。女の子と言っても下半身は魚のようだった。まさに御伽噺に出てくる人魚のシルエットそのもの。


 彼女が手を伸ばしながらこちらへ近づいてくる。


 それが、当時の網野が海で見た最後の景色だった。


 病院で目を覚ました網野は、浜辺で倒れているところを保護された、と親は網野に説明した。


 網野が「人魚を見た。彼女が助けてくれた」と言うと、親も医者も揃えて「ショックで混乱しているんだ」と答えた。


 別に理解してくれなかったことは悔しくない。幼いながらも、摩訶不思議なことを言っていることは理解していた。夢だったのかもしれないと自分に言い聞かせた。それから、網野が人魚のことを口にすることもなかった。


 やがて人魚が発見され、世界中で話題になった。そのニュースを見た時、網野は溺れた時のことを思い出した。あれは夢ではなかったのかもしれない、と。夢でないのであれば、彼女にお礼を言いたい。そう思った。


 それからは人魚の道を目指し勉強した。


 MMLでティナに会った時はまさかと思ったが、


「やっぱりティナだったんだね」


 網野は甲板の上で目を覚ましてすぐに、隣に倒れていたティナを見た。彼女は何のことか理解していないようだったが、網野は「本当にありがとう」とティナを抱きしめた。


「網野、気づいたか!」


 と、天海と釣井も駆け寄ってくる。


 網野はティナから一度離れると、天海に抱き抱えられた。その様子を大波田も窓から覗き、


「無事でよかったです、網野さん」


 と、安堵していた。


 しかし、釣井は涙を零してばかりだった。「ほら、釣井。愛しの先輩が目覚めたぞ」と、天海が声をかけても泣き止むことはなかった。


「釣井? 心配してくれてたんだね、ありがとう」


 網野が先に口を開いても、彼女の様子は変わらなかったが、片手で涙を拭いながら、もう片方の人差し指を網野の横腹に向けた。


「でも……、でも……」


 嗚咽混じりに網野に何かを伝えようとしてくる。釣井のその行動に、天海も少し網野から目を逸らした。


 網野は天海に抱えられたまま、視線を釣井から自分の横腹に移す。


 銃弾によって敗れたシャツから覗く腹。傷跡は綺麗さっぱり消えていた。その代わりに、魚のような鱗が彼の横腹を覆っていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る