第10章
第44話 潮騒
日付が変わる時間になっても、網野は眠りにつけずにいた。体は疲れているが、夕方まで寝ていたのだ。睡眠時間は足りているようである。釣井や大波田も同様に目を開けており、天海もなぜか起きていた。
窓からは丸い月の眩しい明かりが差し込んでいる。天気の良い、静かな夜だ。浜辺の波の音がここまで聞こえてくるのだ。良い睡眠導入BGMになりそうだと思ったが、案外効果はないものだった。
「皆さん、海行きません?」
このまま布団に潜っていても眠れることはないでしょう、と釣井は付け加える。網野らも特に異論はなかったので、夜風を浴びに海岸へ行くことにした。
広くも狭くもない砂浜。MMLの下に広がっていた景色と大差ない。しかしそれ故に、どこか懐かしさを感じてしまう景色だった。
網野、釣井、天海、大波田の四人は並んで寄せては返す波の前に立つ。
潮の匂いを運ぶ風に揺れる水面が満月の光を無数に反射していた。
誰も何も口にしない。その代わりに釣井がジャージの裾を託し上げ、その華奢な脚を海水へ付ける。
「冷たっ」
暖かくなってきたとはいえ、まだ五月。海開きにしては早い時期だ。それでも両足を濡らし、波を蹴り上げる釣井の姿に三人は思わず微笑んだ。
「よーし、俺も!」
天海は徐に靴と靴下を脱ぐと、波打ち際に向かって駆け出した。勢いよく波の中に飛び込んだせいで、高く水が跳ね上がる。その飛沫は近くにいた釣井に降りかかり、
「ちょっと天海先輩! 服濡れちゃうでしょ!」
と、両手で服を守ろうとした。案の定、大した防御にもならず、釣井のTシャツには海水が染みていた。
「あ、そうだった! 私、水着持ってきてたんです! 着替えてきます!」
「珍しく用意周到だな」
天海を置いてけぼりにし、釣井は宿舎の方へ戻って行く。その後ろ姿を眺めながら、網野は自分も水着を持ってきていたことを思い出した。釣井と一緒にセイレーンに行った際に買った紺色のものだ。
綺麗な海をティナと一緒に泳ぐことができたら、どれだけ幸せか。
しがない人魚愛好家の儚い夢のために買った水着だ。
事務に申し出をすれば、人魚を海に連れ出すことは可能だ。しかし人魚の倫理問題の観点から許可が降りることはない。自然での人魚の姿は捕獲されていない人魚で行えというわけだ。だから儚い夢なのである。
そこで網野はふと気が付く。
今この状況下では許可を取る事務がいないのでは?
「大波田さん、ティナも連れて来たいです」
「え? 連れて来る?」
彼は網野の言葉を理解できず、繰り返して説明を求めた。
「ティナと一緒に海を泳ぎたいんです」
「網野さん、俺は固い人間ではないので、普段の俺なら別にいいですよって言うと思います。けど、今の俺たちはお尋ね者の身じゃないですか。人魚と一緒に泳ぐなんてことしたら目立ってしょうがないですよ」
彼の言い分も納得はできる。確かに今は目立つ行動は避けたい。しかし、ティナと泳げるチャンスも今しかないのだ。
網野は大波田を説得しようとするが、上手く言葉が思い浮かばない。その様子を見兼ねた天海が助け舟を出すように口を開いた。
「大丈夫じゃないか?」
「何がです?」
「夜だし、ここら一帯はわりと木々で囲まれているし。人目にはつきにくいと思う。それにティナちゃんも狭いところに閉じ込められてばっかりで、羽を伸ばしたいだろ」
大波田はしばし考える様子を見せ、わかりました、と頷いた。
「天海さんが言うならそうしましょうか」
網野ら三人も宿舎に戻ると、ちょうど白いビキニ姿の釣井が玄関にいた。
「あれ、どうしたんですか皆さん」
せっかく着替えたのにもうお開きかとでも言いたげなその顔に、網野が答えを提示する。
「ティナと一緒に泳ぐから僕も着替える」
「え、ティナちゃんとって? え?」
網野は釣井の横を通り、すぐに宿直室に消えてしまったので、彼女はその場で地団駄を踏んだ。
「私の水着にコメントもせず行くなんて!」
「似合ってると思うよ」
「天海先輩の感想なんていらないし、そもそも気持ちが入ってないでしょそれ!」
かなり強めの平手打ちに、天海はもみじの形が残る頬を摩る。二人のそのやりとりため息をついた大波田はティナのいる第四水槽に向かい始めた。
「ちょっと大波田さんまで?」
釣井が彼の背中に投げかけると、大波田は振り返らないまま、
「似合ってると思います」
と、片手だけあげて答えた。
「だってよ。良かったな」
天海は釣井の肩を軽く叩き、「手伝うぜー」と大波田に続く。
「もーみんな雑過ぎです!」
釣井は深夜の水族館には不似合いなほどの大声を上げ、先にティナの元へ行く二人の背中を追いかけた。
網野も水着に着替え終えて廊下へ出ると、未だに釣井の叫び声が響き渡っているような気がした。もちろん気のせいなのだが、それほどに大声だったのだ。
第四水槽の部屋の扉が開いていたので、まだ中に大波田らがいるとわかった。入り口に近づくにつれて、水槽から溢れた水が床に飛び散る音が聞こえてくる。中に入ってみると、大波田ら三人がティナを水槽から出そうとしている最中だった。
「良いところに来てくれました網野さん! 手伝ってください!」
人魚用の水槽じゃないから大変なんです、とさらに大波田は付け加えた。
彼の言う通りだろう。ここ『小さな水の星』はただの民営水族館。ただでさえ一般的な水族館よりも設備が劣る中、MMLやMMSにあるような人魚移送用小水槽などはもちろんないし、その小水槽を釣り上げる縄などあるわけがない。
水槽の上へと続く階段の一番上に釣井と大波田が立ち、ティナの腕を引っ張っている。天海は二人が倒れないよう、背後から支えていた。
この状況を見るに、四人でティナを海へ運ぶということで間違いないだろう。
網野が三人のいる場所まで階段を上ると、
「釣井さんと代わってください」
と、大波田から指示され、言われた通りに釣井からティナの手を引き継いだ。
「いたい」
「ごめんよ、ティナ。ちょっとだけ我慢してくれ。すぐに広いところへ連れて行くから」
二メートル近い巨体を持つ人魚。その下半身に重量のほとんどが集中している。ティナは人魚の中でも平均的な大きさだが、体重は百キロを超える。簡単には引き上げられない。
網野と大波田は「せーの」と掛け声を出し、タイミングを合わせながらティナの体を引っ張る。男手二人に代わったためか、気持ちだけティナの体が大きく動いた気がする。
「背中は俺らが守るから、思い切って引っ張れ」
と、天海が両手を使って二人の背中を支える。横で棒立ちしていた釣井はそれを見て、網野の背中にだけ両手を添えた。
「「せーの」」
二回目の掛け声で、一回目の時以上の力を振り絞る。
勢いよく水が水槽から溢れ、同時にティナの上半身も階段へ無事乗り上がった。おかげで網野と大波田は後ろへ倒れそうになったが、構えていた天海がしっかりと受け止めてくれた。釣井は既に手を離していた。
海に入る前から四人はもうびしょ濡れだった。網野や釣井は水着だからいいものの、天海や大波田まで頭から水が滴っているのだ。
「全く、こっちは着替えがないってのに」
天海は目にかかる前髪をかきあげ、「本当ですよ」と大波田は前髪を横に流して視界をひらけさせた。
その二人を見たティナは何が面白かったのか、声高らかに笑い始めた。
「何笑ってるんだよ。ティナちゃんのために頑張ったんだぞ」
天海はティーシャツの裾を絞りながら言うが、ティナは構わず笑い続ける。彼女の笑顔を見て、網野も笑みが溢れてくる。その波は釣井にも伝わり、ティナに負けないくらいの大きさで笑い出した。
「どうして釣井さんまで」
「そうだぞ。お前は笑うなよ。背中支えなかったくせに」
「なんか私にだけ当たり強くないですか?」
三人のやり取りで再び笑いが溢れる。自分たちで言ったにも関わらず、天海や大波田まで吹き出す始末だ。
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