第45話 モーンガータ

 しばらくして落ち着くと、


「それじゃあ、四人でティナちゃんを運びましょう」


 と言う大波田に合わせて四人はティナの体を持ち上げた。釣井と大波田がティナの上半身、網野と天海が下半身、つまり重たい魚の体の方を抱える形だ。


 階段を踏み外さないよう、掛け声をしながら一歩ずつ降りる。ただでさえ濡れていて滑るのだ。安全確認を怠る理由はない。


 怪我もなく階段を降り終え、廊下へ出る。ここからはティナを落とさぬよう気を付けるだけで大丈夫だろう。玄関を通り過ぎ、緩やかなコンクリートの坂を下ると、次第に足場が砂に変わる。さらに進めば波打ち際だ。


「ほらティナ! 海だよ!」


 湿った砂の上にティナを下ろすと、彼女は文字通り水を得た魚のように海に向かっていく。瞳に月の光を反射させながら、ティナは海中へ潜り込んだ。


 生き生きとしたティナに乗せられ、網野も彼女を追いかけるようにして潜水する。冷たい水により鳥肌が立つが構わず潜った。釣井も遅れて網野に続いた。


 ティナはかなりのスピードを出して沖へ進んでいく。水泳が得意な方である網野と釣井も彼女に追いつくことはできなかった。


「ティナ? どこに行ったの!」


 逃げてしまったのか。網野が良くない想像をした刹那、彼と釣井の後方で水飛沫が上がる。月に照らされ輝く金髪が美しい曲線を描き、体を横に回転させながらティナが二人の頭上を飛んでいた。


 一瞬の出来事だが、まるでスローモーションかのように二人の目には映った。満月を背景に飛ぶ彼女の姿があまりに美しかったからに違いない。


「ティナちゃん、すご!」


 着水するや否や、感想を漏らす釣井の体をティナは尾鰭を器用に使って、水中から押し上げる。空中に飛び出た釣井は妙な声を出しながら変な着水をしたが、顔に付いた髪を払い除けると子供のように笑い始めた。


「網野先輩もやってもらってくださいよ! 最高ですよ!」

「ティナ、僕にも頼むよ!」

「わかった」


 頷いたティナは再び潜水し、釣井にした時と同様に網野の体を尾鰭で持ち上げた。


「うおわ!」


 まるでブランコから勢い良く飛んだ時に似た感覚。時間が止まったような一瞬の浮遊感。釣井とティナがこちらを見上げており、網野も空を見ると先ほどよりも月が近くに見えた気がした。


 その月がぼやけ、歪む。着水したのだと理解し、両手を掻いて浮上した。


「めっちゃ飛んでましたね、網野先輩!」

「すごいよティナ! こんなことが出来たんだね!」


 再びティナに水中から飛ばしてもらったり、水をかけあったり、本気で泳いだり。まるで子供のような三人を天海と大波田は砂浜に座ったまま見ていた。


「随分と楽しそうだな」


 静かに笑う天海に対して、大波田は頷く。


「そうですね。だけど、あれじゃあ余計に目立ってます」

「確かにな」

「確かにって。そもそも天海さん、どうしてティナちゃんと泳ぎたいだなんて言い出した網野さんを止めなかったんですか。人目に付きにくくてもリスクはゼロじゃないでしょう。その状況を天海さんが理解していないわけがない」


 大波田は天海なら網野を諭してくれると思っていた。人魚のことになると熱くなる彼の性格を良く理解しているし、その事を知っている網野もまた天海の言うことなら聞いてくれるはずだ。それにも関わらず、天海は危険を犯す道を選んだ。キザでチャラい雰囲気のわりに冷静沈着に物事を考える天海らしくない。


「大波田はさ、どうして網野と一緒に来たの」

「どうしたんですか、突然」

「いいから」


 大波田が問い詰めても、天海は網野らを見つめたまま静かに喋る。何かの意図を察した大波田は、


「網野さんに期待しているんですよ」


 と、ティナをMMLから救出する前に網野の部屋で言った事と同じ言葉を口にした。しかし、次から話す内容は網野にも伝えていない事だった。


「俺、実はアセクシュアルでして。ゲイやレズに比べても知名度は低いし、中々周りに馴染めない人生を送って来ました」

「アセクシュアル……? 悪い。俺も初めて聞く」

「他人に恋愛感情を抱くことがないんです。性的少数が認知されるようになって来た現代でも、さらにマイノリティの部類ですよ。理解してもらえなかったり、受け入れてもらえなかったりすることはまだあります。そんな自分が嫌になる事だって何度もありました。だけど網野さんは、まだ世間からの目が厳しい人魚をあんなにも愛している。そして人魚を愛す自分自身までも愛している。その真っ直ぐな姿に俺は憧れました。彼のような人間が新たな常識や倫理を作っていくんだ。俺はそう期待しているんです」


 天海は大波田の言葉をしっかりと咀嚼し、飲み込むように目を瞑った。「そうか」と呟きながら目を開け、


「俺も同じだ」


 と、大波田に顔を向けた。


「俺も網野に期待している。知識も発想も行動力も、あいつは俺よりもすごいよ。その凄さは全てあいつの人魚愛から来ている。網野は人魚界の歴史に名を残し、人魚の常識を変えるよ。もしかしたら大波田の言うように、人魚だけじゃなく世界の常識まで変えちまうかもな。俺はそんなあいつを応援してる。あいつが思う存分、やりたい事に専念できるようにしてやりたいんだ」

「だから、助け舟を?」

「そういうこと。網野はこれからどうするか悩んでる。ティナと人魚化、人魚と人の関係。問題は生命倫理のタブーに近い。だからこそ、網野がこれだという答えを見つけられるように、俺ができることはしたい。そして網野が築いた新たな世界を見たいんだ」


 網野の方に向き直った天海の目は少年のように真っ直ぐ純粋であった。子供のような網野らを見て大人を気取っていても、自身の夢と網野を重ねる姿は情熱を燃料に生きる若人そのものだった。しかしそれは大波田もまた同じだ。


「てか、大波田って網野とタメだろ。なんでお互い敬語なんだよ」

「何となくですよ。特に意味はないです」


 本当に意味はない。網野にとっても大波田にとっても、それは些細な問題に過ぎなかった。


 それ以上にもっと大切な、自分たちの辿り着く先が見えていた気がしたからだ。


 暖かい潮風が大波田の前髪を揺らした。

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