第41話 これから

 網野が目を覚ますと窓から朱色の暖かい光が差し込んできていた。重い瞼を擦りながら上半身を起こし、周りを見渡す。隣には畳まれた二つの布団があるだけだった。スマホで時刻を確認すると十七時三十分と表示されていた。昼過ぎどころか夕方まで眠ってしまっていたようだ。


 洗面台で顔を洗い、宿直室を出ると応接室の方から声が聞こえてくる。汐入家だけでなく天海や釣井らの声も混ざっていた。


 応接室の扉を開けて中に入る。予想通りの顔ぶれが談笑をしていた。


「おはよう。よく眠れたか?」


 網野に気がついた天海がそう声をかける。


「はい。ぐっすり寝ちゃいました」

「さっき大波田とティナちゃんをここの大きめな水槽に移したから、夜ご飯あげに行ったら?」


 それを聞き、驚いた網野は鷹生の方を見た。


「水槽って」

「良いんだ。行ってあげなさい」

「ありがとうございます。何から何まで」

「持ちつ持たれつというやつだよ」


 そう言って鷹生は優しく微笑み、深月も笑顔で頷いた。


「これ、餌です」


 と、釣井が麻袋を差し出してくる。網野はそれを「ありがとう」と受け取った。


「水槽はエントランスに戻って、左に曲がって、その廊下を進んだ先にある第四水槽です」

「わかりました」


 大波田の丁寧な説明に頷き、網野は皆に軽く会釈をすると応接室を出た。


 彼に言われた通り、エントランスまで一度戻り、もう一本の廊下であった左の方へ進む。第四水槽と書かれた部屋を見つけ、扉を押し中に入る。


 コンクリートで覆われた四角い部屋は網野が使っていた研究室よりも少し広いくらいだった。掃除用具などが隅に置かれており、奥の水槽も研究室の物より一回りほど大きかった。薄い黄色の照明に照らされたその水槽の中で、ティナは優雅に泳いでいた。


 網野はその美しさに吸い込まれるように水槽に近づいていく。ティナも網野の存在に気が付くと、目を輝かせながらこちらに泳いできた。


「あみの!」

「ティナ!」


 今朝と同様に網野の名前を呼ぶティナに、網野もまた彼女の名前を呼んで答える。


 水槽越しに手が触れ合う。まるで研究室にいた頃のようだ。釣井や天海と笑いながら、そこにティナもいる景色。もう何年も前のことのように感じる。


「お腹が空いたろう。今すぐご飯をあげるね」


 麻袋から乾燥ホタテが入った袋を取り出し、水槽の上へと続く階段を登る。一番上の段までたどり着くと、ティナも網野の近くまで泳いできた。


 袋の封を切り、中身をいくつか載せた手をティナに差し出す。彼女は水かきのある手でそれらを取ると、丁寧に口に運んだ。


「おいしい」


 彼女はそう言いながら次々と新しいホタテを食べた。その彼女の様子を見て、網野も口元を緩ませた。


「良かった」


 綺麗な金色の髪に滴る水。網野はMMLの大水槽で彼女を見た時のことを思い出した。


 美しく儚い姿。泡となって消えてしまいそうなほど透き通った目。


 そしてどこか懐かしい感覚。


 大学時代から生活に人魚がいたこともあり、多くの人魚と多くの時間を共にしてきた。しかしそれら全てを足しても足りないくらい、ティナとの生活の密度は濃かった。


 ティナは間違いなく網野にとって特別な人魚だ。


 そう思いながら網野は彼女の頭を撫でる。


 いつもと違った様子の網野に違和感を持ったのか、ティナは心配そうな顔で彼を見つめた。


「あみの、だいじょうぶ?」

「……そうだね」


 嘘でも大丈夫とは言えなかった。


 浦田から逃れようとして、ティナを連れてここまで来た。行く当てもなく逃げたせいで、大波田にも迷惑をかけた。釣井だって、どうして一緒に来てくれているのかわからない。何より、いつこの逃走生活から解放されるかもわからない。


 仮に解放されたとして、世間から見たティナの価値が他の人魚と同等ではないことも大きな問題だ。


 人の言葉を喋る初めての人魚。


 玲は浦田がティナは人間に近いDNAを持つ可能性のある人魚だと睨んでいると言っていた。


 それが本当ならば、この騒動が治まり、晴れて網野らの冤罪が証明されてもティナの存在は危ぶまれるままだ。


 どんな実験をされるかわからない。網野は人魚研究者だ。実験・調査でティナという個体の一から百までを知り尽くしたい、という気持ちを理解はできる。


 しかし、網野は研究者である前に一人の人魚愛好家だ。


 自分にとって特別な人魚をこれ以上傷つけたくない。


 たまたま人間に捕まって、たまたま人の言葉を喋るようになって。それだけで自由を奪われるなんておかしい。


 彼女を救いたい。たとえ自分たちが浦田に捕まろうと、彼女が傷つけられることだけは避けたい。


「これから、どうしようか」


 網野の言葉にティナは首を傾げる。


 その瞬間、部屋の扉が開かれる。隙間から顔を出したのは釣井だった。


「網野先輩、鷹生さんが出前を頼んでくれました。夕ご飯にしましょう」


 わかった、と網野は答えるともう一度だけティナの頭を撫でてから階段を降りた。網野が扉まで来るのを待っていた釣井と第四水槽を出る。


「浮かない顔をしてますね。ティナちゃんと何を話していたんですか?」


 両手を腰の後ろで組みながら歩く釣井は網野の顔を見ないまま尋ねる。網野も同様に彼女の方を向かないまま答えた。


「今はこうして鷹生さんたちに寝る場所を借りているけど、いつまでもこのままじゃいけないよねっていう話」

「確かにそれもそうですね。だけど、他に居場所がないのも事実です。これからの事はみんなで話し合いましょう」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る