第39話 さらに次へ

 午前四時前に網野たちは甲府市に着いた。大波田の先輩のアトリエは市の南方である右左口町にあると言う。夜明け前に訪ねるのは躊躇われたが、今は緊急事態だ。やむを得ない。


 山の麓にある小さな建物の前にトラックを停める。建物の横にはこのトラックでも入りそうなガレージがあったので、了承してもらえれば中にトラックを隠したいと網野は考えていた。


 初めに大波田が代表してチャイムを鳴らしに行くことにした。彼は運転席を降りると、庭の小道を渡り玄関の前に着く。その様子を網野たち三人は窓から見ていた。


 芸術家は良くも悪くも不規則な生活をしているようで、夜通し起きていたのかすぐに先輩らしき男が現れた。男は大波田の顔を見て一瞬驚いた素振りを見せたが、すぐに血相を変えて大波田を突き飛ばした。大波田は尻餅を突き、男は何かを言いつけると扉の向こうへ帰っていった。


 網野は後部座席から飛び出し、大波田に駆け寄る。


「大波田さん! 大丈夫ですか!」

「ごめんなさい。どうやら俺たち指名手配されちゃってるみたいです。どんな理由があろうと犯罪に加担したくないって断られちゃいました」


 大波田は網野の方を向くと、申し訳なさそうに笑った。頼りにしていた先輩に裏切られたショックを隠しているようで、笑顔の裏にある悲しみは網野が量り知ることはできない。


 網野は大波田の腕を引っ張り、彼を立ち上がらせる。


「気にしないでください」


 やはり浦田は公安の力を使ったか。しかし予想していたことだ。決してイレギュラーなことではない。慌てる必要はない、と網野は自分に言い聞かせる。


 二人は歩いてトラックに戻ると、再び行く当てが亡くなったことを釣井と玲に伝えた。玲は無表情だったが、釣井は頬を膨らませ協力してくれなかった大波田の先輩に露骨な苛立ちを見せた。


「こっちは冤罪で追われてるっていうのに、少しくらい協力してくれたっていいじゃないですかね!」

「釣井さん。あまり俺の先輩を悪く言わないでくださいよ。あれが普通の反応です。警察を敵に回してまで誰かを救いたいと願う人の方が珍しいです」

「それはそうですけど……。すみません」


 釣井は腑に落ちないようだったが、大波田の先輩の悪口を言ってしまったことに対しては謝罪した。


「それより、これからどうするんだ? 行き先が決まっていないと言っても、ずっとアトリエの前にいるわけにもいかないでしょ?」


 と、玲が口を開く。大波田はそうですね、と呟きながら黙ってしまう。普段であればすぐに案を出してくれる大波田だが、先輩に突き飛ばされたことが余程響いているのだろう。


 静かになった車内で、代案にはならないが一つの策を網野は提示した。


「とりあえず山の中に向かいましょう。町中にこのトラックを露出させておくのは心配です。それにティナにも朝ごはんをあげたい」

「そ、そうですね。そうしましょうか」


 大波田に加え釣井も玲も頷いたので、トラックはアトリエを離れる。


 県道113号を通り、山道を進んだ。甲府市と言えど、中心部からはかなり離れている上に山中。さらに早朝という時間が味方し、すれ違う人はおろか車もない。


 比較的機が多く生い茂っている場所にトラックを停めると、四人は座席から降りて背を伸ばした。


 状況とは真逆の爽やかな空気が四人の肺を綺麗に掃除してくれている気分だった。


「釣井、ティナのご飯ってどこにある?」

「あ、それならコンテナの後ろです」


 と、釣井は網野をトラック後方へ案内する。扉を開けると、確かに餌がたくさん入った袋が置いてあった。ありがとう、と釣井に感謝を伝えた網野は乾燥ワカメを取り出し、梯子を使ってコンテナの上に上った。


 蓋を開けると、海水で満たされた内部に淡い光が差し込む。それに気がついたティナが下から顔を覗かせた。


「あみの!」

「ティナ! 元気だったか!」 


 彼女の顔を見て安心したのか、思わず笑みが溢れた。一日会わないことなど何度もあったのに、今回はまるで何年も会っていなかったような感覚だった。ティナも網野の顔を見て、狭いコンテナ内をくるくると泳ぎ回る。随分と嬉しいのだろう。大波田や釣井が助けに行った時とはまるで別人のような笑顔だ。


「ティナ。お腹が空いてるだろう。ご飯だよ」


 乾燥ワカメの袋を開けた網野は中身を手で取り、ティナの近くに振り落とす。彼女は海水で濡れてふやけたワカメを掴むと口に含んで美味しそうに咀嚼した。そんなティナを見て、網野も自然と頬を綻ばせる。


 まるで世界に二人だけしかいないようなその空間を、大波田と釣井と玲は下から眺めていた。


 大波田は釣井が不思議な顔をしていることに気がついた。以前のようないつもの網野の姿を見ることができて嬉しい反面、自分を見てはくれないという嫉妬に似た感情が入り混じっているような表情。


「困った顔してますね」


 大波田はそう投げかける。


「え?」


 すぐに自分に言われているとわかった釣井は両手を顔に当てて、さらに困り顔になった。なんだか面白いなと大波田は感じたが、叶わぬ恋だとしても相手に尽くそうとする健気な姿に同情もした。


「釣井さんは自分の好きなようにしないんですか」

「好きなようにって……」


 と、釣井は大波田から視線の先を網野に戻す。


「私は、人魚が大好きな網野先輩が大好きなんです。もし網野先輩が私に振り向いてくれたら、もう私の好きな網野先輩じゃないかもしれない。叶わないでほしい恋なので、これでいいんです。網野先輩を全力で助ける。それが私の好きなことです。今思いついたことなので多分ですけど」


 彼女は自信なさげに指で紅潮している頬を掻いた。しかし真摯に網野の力になろうとする姿勢から、それが間違っていないとわかる。


「釣井さんらしいです」


 大波田が答えると、玲が口を挟む。


「好きなのに叶わないでほしいなんて面倒臭い人だな」

「うるさいわね、というか、前から思ってたけど何でタメ口なのよ? 私の方が年上よね!」


 真顔だった玲の耳を釣井が引っ張ると「痛っ」と、玲の表情が崩れた。


「海王会は実力至上主義だから敬語なんて使い慣れてないんだよ」

「あら、そうなの。じゃあ私が使い方を教えてあげるわよ」


 と、釣井は玲のもう片方の耳まで引っ張り始めた。ようやく打ち解け始めたようで、大波田も安心した。心なしか、先輩に突き飛ばされた時の悲しい気持ちも薄れた気がした。


 トラックの座席部分でスマホの着信音が聞こえた。大波田は一体誰のスマホだろうと、音の発生源を探す。どうやら後部座席に置いてある網野の鞄から鳴っているようだった。


「網野さん! スマホ! 鳴ってますよ!」


 大波田が呼びかけると、網野も自分の着信音に気がつき、不安そうな顔でコンテナから下へ降りてきた。この状況下で網野に電話をかけてくる人物とは一体誰なのか。網野だけでなく大波田や釣井も緊張した。


 網野が鞄からスマホを取り出すと、その画面を見て固まった。その行動が余計に二人の不安を煽る。


 しばらくして網野は応答ボタンを押すや否や、スピーカーモードにして釣井らの元へやってきた。そしてスマホからは懐かしい声が聞こえてきた。


『よお、久しぶりだな』


 画面に書かれている文字は『天海先輩』。今まで音信不通だったにも関わらず、ここに来て頼りがいのある人から連絡が来たことに一同は高揚する。


「天海先輩! 一体、今まで何やっていたんですか!」

『そりゃこっちの台詞だ。突然、指名手配犯になりやがって。びっくりだぞ』

「びっくりはこっちもです! 一体全体、どうしてこのタイミングで連絡してきたんですか?」

『ああ、釣井もいるのか』


 そう言うが、彼はあまり驚いていない様子だった。


「あとは、大波田さんとティナ。もう一人、玲って子もいます」

『指名手配組が揃ってる感じか。ん、待てよ。玲って、汐入玲か?』


 電話越しから自分の名前が聞こえたことで、玲も三人に近づいてくる。


「そうだ。海王会を裏切った汐入玲だよ」

『そいつは良いや。お前ら、どうせ行き場なくて困ってんだろ。今どこにいる?』


 何が良いのか網野らにはわからなかったが、行き場がないのは事実だ。網野は甲府に身を潜めていることを彼に伝える。


『甲府? じゃあ、そんなに遠くないじゃないか』

「え、天海先輩は今どちらに?」

『俺、今静岡』

「静岡? それはまたどうして」

『今はそんなのどうでもいいだろ。とにかく今すぐ御前崎に来い。この時間なら昼よりかは車も少ないだろう。強力な助っ人がいるぞ。じゃあな』


 と、天海は一方的に通話を切る。


 彼の言う強力な助っ人というのが一体何なのかはわからない。しかしあの天海が言うのだ。今の網野らには御前崎に行くしかカードはない。


 網野、釣井、大波田はすぐにトラックに乗り込む。


「御前崎……まさかね」


 玲も遅れて座席に座る。


 大波田は手早く御前崎市をカーナビで目的地に設定し、トラックを出発させた。

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