第37話 秘密
「色々と困るから、ちょっとした手段を使って黙ってもらうことにした」
「待って。ちょっとした手段って何」
「それはほら、深月ちゃんと同じ『ご飯ご馳走するから〜』って」
「啓治君ってほんっっっっっと女垂らしなのね」
「いやここぞという時しかこの特技使わないから」
「ここぞって何よ!」
「ねえ、さっきから話の腰折るのやめて」
残っていたコーヒーを思わず一気飲みする。まだ少し熱かったが、火傷はしなくて済む程度だった。空になったマグカップをローテーブルに置き、天海は続きを話し始めた。
八尾比の後をつけると、彼女は五階の所長室へ入っていった。五階には所長室しかないので他の階に比べて人が来ることは全くないが、周囲への警戒を怠らないようにしながら天海は扉に耳を押し当て、中での会話を盗み聞こうと試みた。しかしそう簡単にはいかない。重く厚い扉は中からの音を外へ聞かせてくれなかった。
万事休すかと思ったとき、ガラガラと聞いたことがない機械音が聞こえてきた。厚い扉越しに聞こえるということは、中ではかなり大きい音として響いただろう。
何か情報を掴めるかもしれない、と天海は思い切って所長室の扉を開いた。
部屋の中には誰もいなかった。海が見える窓とその前に大きな机。左右の本棚があるが、その本棚の一つが動いていた。正確には重なっていた。本来あった位置には下へと続く螺旋階段が現れていた。
「マジで漫画みたいじゃないか」
と、独り言を漏らしてしまうほどの驚きだった。
ここまで来て引き返すつもりはなかった。天海は音を立てぬよう、鉄製の螺旋階段を下に向かって降りて行った。壁はコンクリート。明かりは足元にある白色の誘導灯のみでかなり暗かった。一番下まで辿り着くと、重そうな金属の扉が立ちはだかっていた。これも音を立てないよう、静かにゆっくりと押し開けた。
僅かな隙間から扉の先を覗き見る。
そこは窓のない、間接照明だけで照らされた暗い部屋だった。広さは他の研究室の約二倍ほど。だからと言って、その分物が多いということもなく、むしろ少なく感じた。戸棚が一つと木製の机。あとは椅子が一脚だけ。そこに八尾比が座っていた。彼女の前に立つ船越は八尾比のスカートを膝まで捲りあげる。露になった脚にはあの夜見たのと同じ、鱗が生えていた。
「……順調、と言っていいかわからないが着実に人魚化は進んでいるようだな」
その脚を見ながら船越が何とも言えない顔をする。この様子からして、船越は八尾比の脚について何かを知っているようだった。しかも『人魚化』と言っていた。ただ、鱗が生えているだけでなく人魚になっている途中ということなのだろうか。
「痛みは?」
「ないわ。最初に唾液を注射したときにピリリとしたけれど、その瞬間だけ」
「玲も当時発見された際、傷跡は残っていたが出血も止まっており、痛みもなかったと言っていたそうだ。やはり、人魚の唾液成分には軽度の治癒効果も含まれているのかもしれない」
「そ、それじゃあ、次は私の左脚に傷をつけて。損傷部位に唾液を浸してみましょう」
人魚の唾液成分? 治癒効果? 彼らの会話は人魚化に怯える内容ではなく、その先を話しているようだった。まるで人魚化することは当たり前の前提のように。それに玲という天海が知らない人物の名前まで出てくる始末だ。
「ああ、玲は私の弟」
「え、マ?」
「マジ」
「ちょっと後でもう一回聞くわ」
と、突然の答え合わせは一度保留にしておく。
人魚化についてMMLの地下施設で研究する二人とセイレーン社と麻里の関係。それを知るためには『小さな水の星』を訪れるのが一番だと考えた。
御前崎市に着いて、すぐにタクシーを使って『小さな水の星』へ向かった。天海はメディア露出が多い方なので顔を知っている人は多い。バレると面倒なので、以前と同様に全身黒ずくめにサングラスという格好だった。
「ああ、あれ啓治君だったんだ……。不審な人物がいるから警戒しておくようにってスタッフ中に連絡回ってたよ」
「ガチかよ。確かに、受付でもめっちゃ怪しまれたしな。変装しない方が良かったまである」
と、二日前を振り返る。
海沿いに建てられた、潮の匂いがする小さな水族館。
日曜日だったこともあり、家族連れやカップルが多く、それは数多の視線を感じたものだ。変装をせずに街中を歩いている時とはまた違う視線だ。
しかし気にしていられない、と館内を歩く。サンゴやイソギンチャクとクマノミ、クラゲなどメジャーな海洋生物たちが入っている小さな水槽がいくつかあり、ペンギンレースが行われる広場があるだけの簡易的で小さな水族館だった。
この『小さな水の星』を運営する汐入家二人の顔は公式ホームページにも掲載されていたので目に焼き付けておいたが、すれ違う館内スタッフは皆違う顔だった。
管理職なら公衆の場ではなく事務室にいるのかもしれないと考えた。当然、この格好でそこへ行くのは危険だ。それに天海が狙っているのは娘の深月だ。父親まで一緒にいたら気まずくてしょうがない。
閉館と同時に施設を出た天海は従業員用出入り口の近くの物陰で、深月が現れるのを待った。黒い服の男がこのようなことをしていると冗談抜きで警察沙汰だ。とにかく通報されぬように祈っていた。
一時間近く待っているとようやく深月が姿を現した。ベージュのブラウスに、黒のフレアパンツを身に纏った彼女はやはり麻里の面影があった。
「え、見てたの? 通報しようかな」
彼女は空になったマグカップと腕掛けに置いていたスマホを持ち帰る。
「待って。今更だしやめて」
「今更じゃないよ。警察が探してるんだし」
「理由そっち? てか、話変えないでって」
「いやあ、汐入家の秘密を知ってる側から聞くと啓治君の話面白くて」
確かにセイレーン社の話は深月もほとんど当事者であるが故に、知っている話が多かっただろう。しかし船越の話や御前崎市に来てからの話は知らないだろう。話しておいた方が後がスムーズに進む。
深月の姿を確認した後、その日は一度ホテルへ帰ることにした。
どうやって声をかけるかが問題だった。従業員用出入り口から現れたところに声をかけるのはあまりに変態すぎる。ナンパの成功率も低い。しかも自分が相手を『小さな水の星』の人とわかっていることになる。出来れば違う場所で、さも知らない人に話しかけている感があるシチュエーションが欲しかった。
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