第8章
第36話 甘き身を深く
午前五時。
静岡県御前崎市。とあるマンションの一室。
ある男が濡れた髪の毛を拭きながら、浴室からリビングへ向かうとテレビがついていた。学生時代にも起きていたか少し怪しいこの時間。朝のニュースが淡々と流れている。しかし、男はそのニュースを見て驚愕した。
『MMLの悲惨な事件から一日。今朝、所長である船越隆之介が何者かによって殺害されました。警察はMMLの研究員である網野光来、釣井風花並びに飼育員の大波田影臣を指名手配として情報提供を呼びかけています。また、行方不明である人魚学者・八尾比丘尼子とMML研究員・天海啓治の捜索も同時に進められており、こちらも情報提供を求めています……』
「え、俺じゃん」
テレビの前に置いてあるグレーのソファに座っていた
「とりあえず服着て来て」
「……はーい」
彼女の冷たい声に、天海は渋々と寝室へTシャツを取りに行った。
白いTシャツにカーキ色のジャージとかなりラフな格好はまあ良い。しかし乱雑な部屋でキャミソール姿の女性に正座をさせられるという構図は何とも言えなかった。おまけにそのキャミソールは水色なので、部屋の空気がよりひんやりと感じる。
「さて、何から聞けばいいのやら」
深月は艶のある黒髪を耳に掛けながら呟いた。母親似の深月はかなり整った顔立ちで、一つ一つの行動に二十代前半だとは思えない色気があった。天海がその様子に見惚れていると、深月は思いついた質問を彼に投げかける。
「啓治君はさ、お尋ね者? それとも実は善人?」
「実はって何だよ。悪人だと思ってたのか?」
「そりゃあ、私みたいな若くて美しい女の子ナンパするような奴に善人はいないでしょ」
「否定できないんだよなあ」
「じゃあお尋ね者の悪人で確定だ。はい死刑」
「おいおいやめてくれ」
深月は親指で首を切る仕草をしながら戯けて笑う。まだ会って数時間しか経っていないが、心配する必要はなさそうだとわかる。彼女はそういう人間だ。
気さくで基本的には優しい。人望もあるところだって母親似だ。さすがはセイレーン社の原型であった民営水族館『小さな水の星』を母親・麻里から引き継いでいるだけのことはある。
「どうせ私のお母さんのことで近づいてきたんでしょ」
「げ、バレた?」
と、舌を出してみる。正体がMMLの人間と知られてしまった以上、隠すのは難しいだろうという判断だ。
「私、人を見る目には自信があってさ。でも啓治君が危険人物には見えない、この目を信じてる。話聞いてあげるから、代わりにコーヒー淹れて」
深月は前屈みになり、正座をしている天海に視線の高さを合わせた。胸元の谷間へ目が行きそうになるのを我慢し、わかったと天海は立ち上がってキッチンへ向かった。
八尾比の講演会に行った夜。鱗に覆われた八尾比の脚が脳裏に焼きついて離れなかった。あれは本当に見間違いだったのだろうか。いや、絶対に違う。麻里や船越に怯える様子の八尾比。三人の関係性を知らなくていいと一蹴した船越。それらも相まって随分と気がかりだった。自分が知らないところで何かが蠢いている。そうとしか考えられなかった。
研究者という職業柄、気になったことは徹底的に調べたい性格だ。自分の目で何が起きているのか確かめるしかない。しかし人魚研究の第一人者、MML所長、セイレーン社の社長という大物が関わることだ。かなりの禁忌に違いない。網野や釣井を危険に巻き込む可能性を排除しなければならないと思った。そのために天海はMMLをしばらく休むことにした。もちろん網野たちは心配するだろう。連絡を寄越したり、家まで訪ねてきたりするはずだ。それを防ぐために同じ研究室の奴に網野らが自分と接触しないよう、船越は頼んでおいた。
完全に親しい人との連絡を絶つと、手始めにセイレーン社についてネットで調べる限り調べてみた。天海は釣井と違ってセイラーではないので、MMLに出資をしている大きな会社だというくらいの知識しかなかったのだ。これを機に会社や社長について徹底的に調べようと思った。
「その時にセイレーン社は静岡の小さな民営水族館『小さな水の星』から始まったこと。今は夫と娘である深月ちゃんが運営を引き継いだことを知った」
天海は湯気が上がるマグカップを深月に渡しながら、数週間前のことを振り返る。
「それでわざわざ静岡まで?」
「まさか。それくらいじゃ、こんな大袈裟なことしない」
「そうよね。てかどうして啓治君までコーヒー飲んでるの?」
「え、駄目なの」
「駄目じゃないけど」
「じゃあ、今のくだり必要だった?」
まだ熱いコーヒーを天海も一口飲み、仕切り直しをする。
天海は引き継いだ、という表現に引っかかった。同じ家族なのに、他人のような冷たさを感じた。さらに詳しく調べてみると、『セイレーンガーデン』オープン後もしばらくは麻里も『小さな水の星』の経営を続けていた。しかしある年を境に、麻里は『小さな水の星』経営を夫と深月に完全に明け渡したのだ。その年は人魚発見のおよそ一年後の年。また、『セイレーン+』開業の翌年でもあった。なぜそのような微妙な時期に麻里は『小さな水の星』から離れたのか。『セイレーン+』の経営も始まり、仕事が忙しくなったのかと単純に考えることもできるが、用意周到な麻里なら『セイレーン+』開業と同時に『小さな水の星』経営を辞めるはずだ。疑問点はまだある。『セイレーンガーデン』建設発表の際にテレビで麻里が受けていたインタビューだ。彼女は当時、より大きな水族館を建設する計画も既に始まっていると述べていた。それにも関わらず、次に建設されたのは『セイレーンガーデン』の下位互換とも言える『セイレーン+』だ。その開業から八年も経過しているが、それからセイレーン社に大きな動きはない。強いて言えばMML開設に一役買ったくらいだ。
天海が睨んでいる年にセイレーン社にとって、とりわけ麻里にとって何かイレギュラーが起きたのではないか。
「その後は船越所長の経歴についても調べてみたが、彼は大学卒業後、地元の水族館に就職している。大して有名でもない水族館で大した地位に着くこともなく働いていた彼に、麻里が白羽の矢を立てた。不自然だ」
「ネットだけで根拠のない憶測をするのはよくないわ」
「その通りだ。仮説を立てたら自分の目で確かめる。それが研究者だ」
「随分と格好付けるじゃない。てか、いつまで正座してんの」
「もうしなくていいの?」
「当たり前じゃない。隣おいでよ」
と、二人掛けソファの真ん中に座っていた深月は端っこに座りなおし、空いた場所を手で軽く叩く。天海もさすがに足が痺れそうだったので、お言葉に甘えることにした。
八尾比丘尼子に関してはネット上の記事を漁っても特に不自然な点が見つからなかった。だから、彼女の同行を探ることにした。出版した本のサイン会、テレビへコメンテーターとしての出演、海へフィールドワーク。至って普通の学者と同じことをしていた。一週間ほど根気よく様子を伺い続けると、彼女がMMLを訪れた。天海はそれを追いかけ、久しぶりにMMLに来た。全身黒ずくめの服装にサングラスをしていたが、IDカードを持っていたことで受付の事務の女の子に正体がバレてしまった。
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