第35話 泡沫

 およそ四十分前。MML近くのビルの地下。


 浦田を始めとした公安複数人が監視カメラをモニターしていた。するとカメラに二人の人間がMML内に入っていくのが映った。浦田はその二人に見覚えがあった。網野研究室に所属する釣井と頻繁に研究室を訪れていた大波田だ。


 それに気づくや否や、スマホですぐに所長室に待機している船越に電話をした。


「釣井と大波田と思われる人物が中に入った。網野の研究室に行くかもしれない」

『わかった』


 浦田は椅子に深く座り直し、堂々とやって来た二人を嘲笑した。公安相手に随分と愚かな真似をするものだ。


 一度、彼らは二手に別れたがすぐに網野研究室で合流したようだった。使えないことに、研究室内に監視カメラは付けられていない。中の様子を伺うことはできないが、人魚を移動させるための小水槽を持ち込んでいたことから、間違いなく人魚を連れ出そうとしていることはわかる。


 しかしこちらには船越がいるのだ。彼に与えた最後のチャンス。どう活かすのか見ものだった。


 しばらくして釣井と大波田が小水槽を持って研究室から現れた。船越が来る前にだ。


「あの野郎……っ、何をしてやがるんだ!」


 再び彼に電話をかける。


『ただ今、電話に出ることができません』

「何?」


 船越だけでなく、機械音にも馬鹿にされている気分だった。


「クソ! MMLに行く! 奴らの情報は随時連絡しろ!」


 浦田はモニタールームに残っている仲間にそう伝えると、スマホを手に取ったまま部屋を出た。階段を駆け上がり、ビルを飛び出す。歩道を走り、横断歩道など気にせず道路を渡った。MML内に入った瞬間、無線で二人がトラックでMMLから脱出したと報告が入った。


「市内の防犯カメラにアクセスし、奴らを見逃さないようにしろ! 後で俺が追いかける!」


 そう吐き捨てると無線を切り、ゲートを飛び越えた。受付の事務員から静止されたが気にも留めず、所長室目指して廊下と階段を駆け抜けた。


 エレベーターよりも速く五階の所長質の前に着く。ノックもせずに勢いよくその扉を開けた。


「船越さん、いや船越! 何をしている? 俺が与えたチャンスを無駄にする気か!」


 浦田が怒鳴り込んできても、船越はそれを予期していたかのように微動だにしない。浦田に背を向け、窓の外を眺めながら彼は答えた。


「はて、いつお前からチャンスをもらっただろうか」

「何を言っているんだ。玲を取り返せば新たな名誉をやると言ったはずだ。まさか、人魚を死守することが玲奪還に繋がらないとでも?」


 その発言に船越は肩を震わせ笑い出す。次第に大きな笑い声となり、所長室に響き渡った。笑いが収まった船越はゆっくりと後ろを振り返り、浦田の目を見る。


「お前はそれでも公安か。海王会会長が板につきすぎて頭が鈍っているようだな」

「どういうことだ」

「俺は自分で生き方を決める。それだけだ」

「まさかお前、海王会を裏切ったのか?」


 浦田の頭は真っ白になった。あれだけ海王会に従順であった船越が一体なぜこのタイミングで裏切ったのか。肩書きに飢えていた彼に餌を与え、上手く支配できていたと思っていたのになぜ。


 怒りが腹の底から沸々と湧いてくる。


「ありえない……。なぜ人魚を嫌うお前が俺を裏切るのだ!」

「俺は人魚が嫌いだなんて一言も言っていないぞ。お前が勝手に勘違いをしているだけだろうが」


 息を荒げる浦田に船越が一歩ずつゆっくりと近づく。


「俺が嫌いなのは、人魚によって豹変した麻里さんだ」

「なっ……」


 目眩がし始める。


 取り乱すな集中しろ、と自分に言い聞かせ、何とか正気を保っていた。


「お前には失望した」


 浦田は唯一使える右手でホルスターから拳銃を取り出し、銃口を船越に向けた。しかし彼は怯えることなく銃口を見つめていた。今までの船越ならばすぐに震え上がり、土下座をする勢いだった。一体彼に何があったのだ。


 浦田にとって今はそんなのどうでも良かった。


「用済みだ」


 引き金を引くと同時に、弾が火薬の力で飛び出す。その弾は船越の眉間に命中し、彼は膝から崩れ落ちた。


 浦田は拳銃をホルスターに戻すと仲間に無線を入れた。


「船越を始末した。片付けをよろしく頼む。俺は人魚を追う。現在の居場所を教えてくれ」

『おい待て、まさか殺したのか?』

「始末にそれ以外の意味があるのか? 良いから早く場所を」

『お前、やり過ぎた。いくら公安でも限度がある』

「じゃあ公安ではなく、海王会会長としてやるべきだった粛清ということにしよう。早く奴らの居場所を」

『……金沢シーサイドラインを走ってる』

「了解だ。あとは八尾比丘尼子の身柄も捕獲してくれ。奴も何をやるかわからない」


 返事を聞く前に無線を切る。浦田はMMLを出ると、モニタールームを作っていたビルの駐車場へ移動する。愛車のポルシェの鍵を開け、乗り込むとシートベルトをする前に発進させた。法定速度を遥かに上回っているが、気にせずどんどんスピードを上げていく。


 やがて赤いイグニスの前にMMLのロゴが入ったトラックを発見した。


 尾行していることがバレないように、スピードを落とす。


 釣井と大波田が網野の人魚を連れ出した。どちらも彼と関わりが深かった人物だ。二人の行く先に網野、そして玲がいると考えるのは必然であった。


 玲と網野が逃走した、と麻里に報告した時、彼女は泣き崩れていた。玲は思考までも人魚に支配され始めたと嘆いていた。


 自分たち家族を不幸に陥れた人魚を許すことはできない。


「もう逃さないぞ」


 ハンドルを握る右手に力が入る。


 その瞬間、船越の後片付けに向かっていた仲間から無線が入ってきた。


『網野研究室に書き置きがあった。トラックを追うと玲に危害を加える。椅子に縛り付けられた玲に包丁を突きつける玲の写真もあるぞ』

「何だと?」


 釣井と大波田があれだけ堂々とMMLに入って行ったことに今になって合点がいった。相手は素人だと舐めてかかっていたことを船越は酷く後悔した。こちらにバレることを前提に策は打ってあったのだ。しかも玲を使えば浦田が動けなくなるというのもわかっている。非道な奴らだ。


「やむを得ない。追尾を止める。だがトラックはカメラで追っておけ」

『了解』


 ただで逃すわけにはいかない。一先ずは泳がせ、必ず捕まえる。そして奴らが非道ならこちらもそれ相応の対処をするまでだ。


「それと、メディアに網野らの情報を回せ。天海もだ。奴らに自由を与えるな」 


 これで網野らは警察だけでなく、国民の目からも逃れなければいけなくなる。


 さあ、どう出る? 


 左折をしたトラックを尻目に、浦田は真っすぐポルシェを走らせた。

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