第31話 波浪

 網野は耳を疑った。しかし彼の目を見る限り、嘘を付いているとは思えない。まさか聞き間違いだということか。念の為、大波田が何と言ったのか確認をしてみることにした。


「大波田さん、今なんて?」

「だから、飼育員なら俺がいるじゃないですかって言ったんです」


 どうやら網野の耳は正常だったようだ。網野は首を横に振りながら、ありがたい提案を丁重に断る。


「大波田さんを巻き込むなんてできません。無実と言えど、僕は公安に狙われているんです。つまり僕に協力するということは、大波田さんも犯罪に加担するということになるんですよ」

「そんなのわかってます」

「じゃあどうして」

「俺は網野さんに期待しているんです。あなたは人魚界だけでなく、これからの世界にとって大きな存在になる。そう思うんです」

「一体何を根拠に……」


 網野は言葉に詰まる。期待されているのは嬉しいことだ。しかし、だからと言って大波田を危険に晒すわけにはいかない。


「もちろん根拠なんてないです。ただそう思うだけです」

「網野先輩」


 続けて釣井も網野の目を見た。


「私も網野先輩は自分で思っている以上のポテンシャルを持ってると思っています。そんな網野先輩が海王会にされるがままだなんて、私嫌です。網野先輩なら、たとえどんな状況でも人魚のことを一番に考えるでしょう」


 網野の名を呼ぶティナの声が、頭の中に響く。いつだってティナのことを考えてきだ。人生を人魚に捧げてきた。それは警察だなんて微塵も関わっていなかったからだ。


 人魚は大切だ。特にティナは網野にとって特別な人魚だ。


 しかし自分以外を危険に晒すとなると、すぐに決断が下せずにいた。


「光来、迷ってる暇はない。やるなら今夜だよ」

「網野さん」

「網野先輩。私たちのことは気にしないでください。自分がどうしたいのか、正直になって!」


 玲、大波田、釣井はそう網野を説得する。それらを聞いて、ようやく網野は心に決める。


「三人とも僕にとって大切な存在だ。でも人魚は、ティナは三人以上に大切なんだ」


 網野は三人に向かって頭を下げた。


「ティナ救出を手伝ってください」


 その網野の答えに三人はホッとしたような表情を見せた。


「それでこそ俺が見込んだ男です」


 さて、と大波田は続けた。


「今夜救出となれば、ここにいる人たちは事が収まるまで家には帰れない可能性があります。それぞれ着替えなどをまとめて、決行しましょう」

「え、それって」


 大波田の説明に釣井は疑問を口にした。おそらく網野が薄々察していたことに、彼女も気がついたのだろう。


「そうです。救出だけでは終わらないってことです。つまり逃亡ですね。僕らの自宅には間違いなく公安が捜査に来ます。そんな状態ではティナちゃんを隠しておくのは難しいです。行方を眩まし、移動しながら逃げるのが一番です」

「だけど、浦田兄さんを舐めちゃいけない。二十九の若さで公安になるほど優秀だ。そう簡単に逃してくれるかな」


 と、玲が首を傾げた。確かに彼の言う通りだと網野は言った。彼は決して身内贔屓したわけではない。公安の平均年齢は知らないが、警察官のエキスパートの集まりだと聞く。二十九でエキスパート扱いされているとなると、かなりの腕を持つことは間違いない。


「……そこは正直、どうなるかわからないです。成り行きに任せるとしか言えなくて、完全に運任せです。ティナちゃんをMMLから連れ出すまではともかく……」

「ということは、救出の案はあるのかい?」

「ないことはないですが……」


 玲の問いに対し、大波田は歯切れ悪く答えた。


「二つ問題があります。一つは失敗した際に、それを補う案がないということです」

「ミスったら終わり……」


 釣井が顔を青くして肩を震わす。実際に言葉として聞くとかなり恐ろしいことだ。彼女ほどじゃないが、網野も少し怖くなってきた。


「もう一つは俺と釣井さんだけでしなくちゃいけないってことです。網野さんと玲君は後で合流してもらう形になります。その合流をどこでするかです」

「そもそも合流ってどうするんですか? 大波田さんと釣井は人魚トラックですよね?」


 網野が質問すると、彼は心配ないという風に答える。


「MMLまでは俺の車に乗って四人で行きます。そこで俺と釣井さんが降りる。網野さんと玲さんは車内で待機していてください。MMLの駐車場じゃ危険なので、どこか離れすぎていない場所で。俺たちが上手く脱出できたら連絡を入れるので、トラックを見つけてついて来てください。その後は様子を見て合流しましょう」

「ただ、ティナちゃんをMMLから連れ出したことがすぐバレた場合どうするか、ですよね」


 釣井はテレビの名探偵のように親指と人差し指を顎に当て考える。大波田が言うように救出自体は難易度が高くないのならば、気にすべきことはやはりそれだった。相手はただの警察ではない。公安だ。何の知識もない素人からすれば警察でさえ強敵だが、さらにそれよりも強い者を相手にすることになる。簡単な戦略じゃ上手くはいかないだろう。


「僕を人質にすればいい」


 玲は自分を指差しながら提案した。彼は簡単に言うが、網野は難しいと思った。


「『トラックを追うとこいつに危害を加えるぞ』的なやつ? 僕らは大波田さんの車に身を潜めているんだ。自ら姿を晒すことになるよ」


 と、却下したが大波田はその却下を却下した。


「いや何も、逃走中にそれをする必要はないですよ。縄でぐるぐる巻きにされた玲君と網野さんが写った写真を用意して、メッセージを添えて研究室に残しておけばいいと思います」

「ああ確かに」


 釣井も納得がいったように頷く。


「公安と言っても、相手には浦田兄さんがいる。僕に傷一つ付けさせるようなことはしないだろう。もちろんだからといって捜査をしなくなるわけじゃないけど、露骨に追いかけてくることはしないはずだ。かなり逃げやすくなると思う」

「逃げやすくなるなら百点満点です。よし、これで行きましょう」


 誰も異論はなかった。皆が大波田に頷き返す。


 いざ計画が決まると、急に四人の間の空気感が緊張し始めた。


 しかしティナを助けたいという気持ちが網野と他の三人の気持ちを奮い立たせていた。

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