第7章
第32話 狼煙
釣井、大波田の家にも寄り、それぞれ着替えなどを鞄に詰めた。この後逃走にも使う人魚運搬トラックは四人乗り。荷物を置くスペースなどないので、それぞれ両手で抱え込める大きさの鞄と決めておいた。玲の分は鞄も服も網野が貸すことにした。
深夜一時。四人を乗せた大波田の赤いイグニスがMMLの駐車場に入ってくる。後部座席から釣井と大波田が降りる。大波田の車だったが、時短のために初めから網野が運転していのだ。
「また後で」
と、大波田が言い残すとイグニスは駐車場を出て行く。二人はそれを見送らず、すぐさまMMLの中へ向かった。
エントランスに入り、ICカードを使ってゲートを通過する。
「それじゃあ、釣井さんは用意していた網野さんと玲君の写真、そして書き置きを研究室で準びしておいてください」
「わかりました」
釣井も頷き、そこで二手に別れる。大波田が向かったのは飼育員の事務室だった。今夜の宿直は二人。まずは彼らをどうにかしなければならなかった。
事務室に着き、扉を開ける。同期の男二人が突然の来訪者に驚いた顔を向ける。一仕事終えていたのか、スマホでYouTubeを見ていたようだった。
「ごめん、驚かせた」
大波田は自然な笑みを心がけながら、軽く謝る。なんだよ驚いたじゃねえかよー、という言葉を受けながら自分のデスクへ向かう。
夜中に訪れてきた人物がただの同期だったことに安心したようで、彼らは再び動画を見始めていた。そこであらかじめ用意していた台詞を口にした。
「実はさっき、知り合いから直接俺のスマホに電話があってさ。人魚を捕獲したそうなんだよ。回収に行ってくれないか?」
もちろん大嘘だ。知り合いから電話なんてないし、当然人魚なんて捕獲されていない。その嘘が見抜かれたわけじゃないが、二人は回収のためにトラックを出すことを嫌がった。
「わざわざそれ知らせるためだけに来たのか? そんな暇あるなら大波田が行ってくれよ」
想定内の開始だった。大波田は再び用意していた言葉を言う。
「俺は忘れ物取りに来たんだよ。伝言はそのついで。もともと今夜は当番じゃないし。タダ働きなんてしたくないね。って、ことでよろしく頼むよ」
と、両手を合わせて頭を下げるなんてことをしてみる。随分と芝居じみていたが、この二人なら大丈夫だろうという自負があった。すると、一人がしゃーないと頭を掻く。
「どうせ、暇だったし。夜のドライブにでも行くか」
「そうだな」
もう一人も賛同し、二人は立ち上がった。
「場所は?」
「袖ヶ浦」
「思ったより遠くないな。良かった良かった」
二人はキーハンガーからトラックの鍵を取り、事務室を出て行く。大波田一人になってようやく胸を撫で下ろした。
彼は思ったより遠くないと言っていたが、大丈夫だろうか。MMLから袖ヶ浦まで一時間と少し。夜だから気持ち早いかもしれない。しかしあまりに遠い場所を指定し、怪しまれても悪い。とりあえず第一段階はクリアといったところであろう。これによって、同業者の目を盗みながら作業をする必要はなくなる。また深夜にトラックを二台も出すことで捜査の撹乱にもなれば、という淡い期待もあった。
大波田は二人と同じようにキーハンガーから鍵を取るとポケットに入れ、何事もなかったように事務室を出た。
無論、事務室に忘れ物というのも嘘である。
倉庫から移動用小水槽も回収し、網野研究室に向かうと写真と書き置きの設置を終えた釣井が待機していた。
「あ、大波田さん。鍵、上手く取れましたか」
「楽勝です」
彼女の問いに、人差し指で手に入れた鍵を回してみせる。
水槽内にいたティナは見るからに弱っていた。衰弱している、というよりも気が弱っているという印象だ。突然、生活が変わったのだ。人間でさえストレスを感じるだろう。無理もない。
「すぐに網野さんに会わせてあげますからね」
と、大波田は水槽内の水を抜き始めた。
「あ、そうだ釣井さん。ティナちゃんの食料もある分だけ袋か何かに詰めておいてください。多すぎても困りますができるだけ多く」
「なんて無茶なことを」
そう言いながらも入り口近くに置いてあった麻袋を取ると、戸棚の引き出しを開いて黙々とティナの餌を移し始めた。その様子を横目に水槽の水が大方抜けたことを確認した大波田は天井からぶら下がっているワイヤーフックに小水槽を吊るし、水槽横のボタンを押して引き上げる。自分は梯子をティナが入っている水槽に立て掛け、水槽清掃の時のように水槽の中に入り込んだ。
「ほらティナちゃん、こっちの小さな水槽の中に入って」
「や」
掃除の時は何も言わずに移ってくれたので、何も心配していなかったのだがティナは首を振り動かない。まさかここで躓くとは大波田も想定外だった。
「ティナちゃん、頼むよ。時間がないんだ」
そうお願いするが、彼女は「いや」の一点張り。網野の姿が見当たらない上に、昨夜の一件んもあるので人間不信になっているのかもしれない。そうだとしても、小水槽に移ってもらわなければ何も始まらない。大波田は人魚の餌やりや掃除、体調管理を行うただの飼育員だ。網野と違って、人魚の心の動かし方はわからない。
「参ったな」
大波田が戸惑っていると、異変に気がついた釣井が麻袋を持った水槽に近づいてきた。
「どうしたんですか」
「実は……」
彼はティナの様子と、自身の原因の予想を釣井に話す。すると彼女は一瞬だけ絶望的な顔をしたが、すぐに「わかりました」と答えた。大波田は飼育員として網野研究室に頻繁に来ている方だが、これまで凛々しい顔をしている釣井を見たことがなかった。
釣井は水槽のガラスに手を当て、ティナに語りかける。
「ティナちゃん、お願い」
網野の次に聴き馴染みがある声の主に、ティナはゆっくりと顔を向けた。
「その小水槽に入って。じゃないと、もう一生網野先輩に会えなくなるかもしれないんだよ」
「あみの、あえない?」
網野という言葉にティナは反応を示す。釣井は続けた。
「そうだよ。そんなの嫌でしょう? 私にはわかるよ。網野先輩がどれだけ大切な存在か。会えなくなることがどれだけ辛いか。ね? 一緒に会いに行こうよ」
釣井の力強い眼差しに、ティナはようやく首を縦に振った。
「あみの、あう」
先ほどまで駄々を捏ねていたのが嘘のように、ティナは小水槽の中へ移り込む。
大波田は正直驚いていた。決して釣井のことを見下したり、馬鹿にしたりしていたわけではないのだが、彼女のことをいつも網野の背中を追いかけ回している人と認識していた。しかし、こうして人魚の心を動かした。天海や網野の凄さに隠れがちだったが、彼女は彼らの後輩にして一人の人魚研究者だったのだ。
「すごいですね」
思わず感嘆の言葉を漏らす。釣井は特に照れるわけでもなく、むしろどこか悲しげな顔で、
「私は網野先輩ほど人魚愛もないし、知識もありません。だけど、網野先輩を想う気持ちは誰よりもわかると思っているんです」
と、呟いた。
愛の力ってやつか。その独り言は口に出ることなく、大波田の心の中で呟かれた。
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