第21話 異なる未来を
レイはスポーツドリンクを喉に少し流し込むと、『人魚姫』の話をしていなかったことを網野に詫びた。
「今のは、前置きみたいなものだよ。『人魚姫』で僕が話したいのは、人魚姫は人間の姿にならなくても良かったんじゃないかってこと」
いくらレイの幼少時代の事件の話が前置きだとしても、あまりに話が変わり過ぎていた。繋がりもわからないし、そもそも人間にならなければ物語が破綻するのではないか、と網野は考えた。
「『人魚姫』では人魚姫が陸の人間に憧れてる。まるで海に住んでいる人魚が不自由みたいに描かれてる。でも、僕は絶対にそれは間違いだと思う。前も言ったけど、陸は不自由だ。何の境目もない、多くの生物が暮らす海の方が自由だ。それなのに狭い世界で暮らす人間は、人魚の方が不自由だと言うような小説を書いた。人魚は危険だ、と決めつけた。陸の世界は、人魚にとってあまりに可哀想な世界だ」
網野はレイの熱量に置いて行かれそうになっていた。相槌を挟もうにも挟めない。勢いよく、彼の言葉が脳に飛び込んでくるような感覚だった。
「……僕は自由な海に、自由な人魚たちに憧れているんだ。だから自由なままでいてほしいと思ってる」
「レイ……」
「光来は、僕のこの気持ちがわかってくれるかい?」
網野も海が大好きだ。美しい海で美しく泳ぐ人魚はもっと大好きだった。
色んな性格で色んな顔の人魚がいる。人間と同じだ。そんな人魚が大好きだ。
そんな人間と同じ人魚が大好きだからこそ、大波田の言葉を思い出した。
『一般的にハッピーエンドとは言われていないけれど、俺はそうじゃないと思うんです。結果的に結ばれなかったとしても、人魚姫は王子様と一緒に彼と生活する世界で暮らすことができて、幸せだったんじゃないかなって』
人魚だって幸せのあり方はそれぞれのはず。海に憧れる網野やレイがいるように、陸に憧れる人魚だっているだろう。その人魚たちに自由な海で生きることを強制することほど、彼らを不自由にすることはない。
「レイの言うことはわかる。けど、自由の押し付けは不自由になる。やっぱり、僕らはもっとわかり合うべきなんだ。人魚が自由でいられるように。陸の僕らが自由になれるように」
レイは網野の言うことを飲み込むかのようにしばらく沈黙した。スポーツドリンクを二口飲むと、深く頭を縦に振った。理解したということだろう。
「光来の言う通りだ。陸で暮らしていると思考まで不自由になってしまう。それなのに光来はすごいよ。光来と会えて良かった」
レイは腰を上げると、「ありがとう」と網野に手を差し出してきた。網野も立ち上がり、彼の手を握る。
「こちらこそ」
レイに会えて良かったと思った。彼のおかげで自分の人魚観を俯瞰して見ることができた。人魚に携わる仕事に就いていながらも、なかなかできないことだ。
「それにしても、どうすれば僕らはわかり会えるんだろう。人魚姫の逆で僕らが人魚になるのが一番良いのかな」
「……え?」
人間が人魚になる? 人魚姫がヒレの代わりに脚を得たように、人間が脚の代わりにヒレを得る?
八尾比と食事した夜の帰り道を思い出した。
『八尾比博士の足首に、鱗があったんだよ』
と、言う天海。
まさか、あり得ないだろう。『人魚姫』はファンタジー作品だ。この世界は現実だ。ファンタジーじゃない。
しかし、心の中のもう一人の網野が「でもファンタジーの人魚は現実になったぞ」と網野を惑わしてくる。それを網野は自分で否定する。
自分は科学者なのだ。目に見えるものが全て。科学にファンタジーはない。
それこそ思考の不自由なのか……?
レイが手を離し、網野は我に返る。
「気にしないで。独り言だから」
レイは網野に背中を見せ、エントランスの方へ歩き始めた。その途中で立ち止まり、振り返って網野を見た。
「またね」
再び網野の目にレイの背中が映る。彼の後ろ姿が角を曲がって見えなくなるまで、網野はその場所から動けなかった。
そして「また」は来なかった。MMLにはもちろん、下の砂浜にもレイは姿を見せなくなった。
さらにその後わかったことは、姿を消したのはレイだけではなかったということだ。天海研究室の研究員たちは天海からしばらく仕事を休むと伝えられていた。そして、網野や釣井が来たら自分としばらく関わらないでほしいという伝言も聞いた。
夜に天海の家へ行くのはやめた。
この決断を後悔しないよう、網野はただ願った。
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