幕間
第20話 あの日の事件
あの夜、天海はそう主張し続けたが、いくら信頼する先輩でも網野も釣井もその発言は簡単に信じることができなかった。
八尾比は人魚を専門とする前はただの海洋学者であった。人魚愛好家である前に海愛好家であり、海洋生物を模した服を着ていることはよくある。少量ながらも酒が入っていたし、見間違いかもしれないと網野と釣井は天海を落ち着かせた。
天海は納得がいかない様子だったが彼の家の最寄駅に着く頃には冷静さを取り戻してきて、家に帰って頭を冷やすと言い残し、電車を降りた。
その後、天海が話し始めるときに「お前たちなら」と言ったこともあり、念の為に天海の話は他言無用にしようと釣井と決めてはいた。しかしティナさえも一緒にいない釣井と二人だけのときにも、その話が話題に上ることはなく、一週間が経過した。
気がつけば、あの日以来MML内で天海の姿を目撃していない。直接言葉を交わさずとも、二日に一回が見かけていたというのに。ずっと休んでいるのだろうか。
ようやくティナの研究レポートを船越に提出することを天海に早く伝えたかった。しかしLINEを送っても既読がつかない。かなり心配だった。今日も出勤していないようだったら、帰りに彼の家へ釣井と寄ってみようと思った。
MMLのエントランスに着き、自動ドアをくぐり抜けると、受付の前のベンチに見知った顔が座っていた。彼はこちらに気がつくと、すぐに笑顔になった。
「やあ光来」
レイは手を振りながら立ち上がり、網野の方へ近づいてくる。
「朝早くからどうしたの」
「どうしたのって、ほら、忘れたの? 人魚姫の話だよ」
「ああ、そうだった」
天海のことで頭が一杯になっていたので、正直レイと本の話をすることは忘れてしまっていた。そのことを詫びながら、受付で入場許可証をレイに渡してもらう。
研究室へ着き、鍵を開ける。レイを中に招こうと思ったが、人間の言葉を喋るティナが見られてはまずい。扉の前で待ってもらうことにした。
「おはよう」
「あみの、おはよう」
扉をしっかりと閉めてからティナに声をかける。彼女は既に目を覚ましており、小さな水槽の中をゆっくりと泳ぎ回っていた。いつまでも小さな水槽の中にいるのは窮屈そうだ。近いうちに海へ連れて行き、広い海で泳がせてあげたい。網野はそう考えていた。
ティナに朝食を与え、釣井が来た時のために書き置きを残しておく。
『カフェテラスにいる』
カフェテラスは施設にある休憩所のような場所だ。飲み物もあるし、レイと話すにはちょうどいいだろうと思ったのだ。
メモを釣井のデスクの上に置き、自分の引き出しから『人魚姫』を取り出すと研究室を出る。
「ごめん、お待たせ」
「全然」
扉をしっかりと施錠する。釣井がこの後出勤してきても、彼女も鍵を持っているのでそこは問題ない。
カフェテラスに着くと、まだ朝ということもあり休憩に来ている所員は全くいなかった。自販機に近づき、レイに尋ねる。
「何か飲む?」
「いいのかい」
「ああ、構わないよ」
「じゃあ、これ」
と、レイはスポーツドリンクのボタンを押す。網野は自分用に缶コーヒーを買った。
カフェテラススペースは屋外にも設置されていたが、屋内の方が涼しいという理由で中に座ることにした。六つ並ぶテーブル席の内、自販機側の端に腰をかける。
「はい、貸してくれてありがとうね」
網野はまず借りていた『人魚姫』をレイへ返す。彼はそれを受け取るとパラパラとページを捲り、
「人魚が発見されてすぐの頃だったから、小学二年生くらいだったかな。夏休みに親戚と海に行ったんだ」
と、自身の過去について語り始めた。
「沖へ出ると人魚がいるかもしれないから行かないようにって親から言われてたんだけど、僕は浮き輪ごと流されちゃって。従兄弟や姉さん、親たちが慌ててる様子が目に入って、僕もパニックになって、気がついたらひっくり返ってた。当時の僕は全く泳げなかったから、どんどん沈んでいくばかり。意識が遠のいていくのがわかった。ああ、死んじゃうんだ。そう思っていたら人魚が僕の方に向かって泳いできた。気がついた瞬間には脚を噛まれてた」
「え?」
人魚が人間を襲うという話は多くない。網野が唯一記憶にあるのが、九年前に小学生が人魚に脚を噛まれたという事件だ。
「その後、気絶しちゃって。海に浮かんでるところを通りかかった漁師の人が助けてくれたらしい。うつ伏せだったにも関わらず生きていたのは奇跡なんだって。まあ当然、僕のことはニュースでも取り上げられてさ。人魚は危険だの、凶暴だの散々言われてた」
「……僕もその事件は知ってる。人魚の保護派と反対派が大きく別れた事件だった」
「そう。でも僕はこの件がトラウマになったわけじゃないし、人魚が苦手になってもいない。むしろ興味を持った。それから人魚について色々調べたよ。生け捕りにされた人魚の性格は様々。臆病な人魚もいれば、活発で元気な人魚もいる。そして、僕に噛み付いたような攻撃的な人魚もいる。まるで人間と同じじゃないか。姿形が違うだけ。それなのに人魚は危険だなんて考え馬鹿げてると僕は思う」
時系列から考えて、おそらくレイはまだ十六才ほど。そのくらいの年齢の少年がこれだけ必死に人魚を語ってくれている。その姿が網野の心も熱くさせた。
「僕もそう思ってる。僕はもっと人間と人魚がわかりあえる世界を作りたいんだ」
この地球上に生きる同じ生物として、姿形が似た存在として。もっと彼女たちを理解したい。理解してもらいたい。網野が心から望むことだ。
「さすがはMMLの研究員だ。ぜひ、そうしてよ」
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