第19話 海の幸
着いた店はリストランテ・パルテノぺという名前だった。古風な石造の外装をしており、太い煙突が屋根から伸びている。小さな木が左右に並ぶ小道を通り、店の入り口が現れる。赤と白と緑の旗が掲げられていることから、イタリア料理店であることは見てとれた。
日は既に沈みかけていた。人々が夕食を求める時間である。しかし、この店は会員制のため、全く混み合っていなかった。
八尾比は会員証のようなものをウェイターに見せると、すぐに奥の個室に通された。
白い壁が暖色の照明で照らされる小部屋。入り口から奥へ伸びる長机。八尾比と船越が並んで腰をかけ、天海・網野・釣井が向かい合って座る形となった。
「私がよく来るお店なの。良い雰囲気でしょう」
「ええ、とても。楽しみです」
天海が答える。
八尾比は落ち着いてきたようで、もう怯えている様子はなかった。招待状を渡していなかった船越が会場にいて驚いただけだろうか。
「全て私に任せてもらってもいいかしら?」
「はい。よろしくお願いします」
次は網野が答えた。
「アルコールは大丈夫?」
「俺も網野も飲めます。釣井も、大丈夫だったよね?」
「私も飲めます。大丈夫です」
「わかったわ。船越さんも飲めたわね、確か」
「ああ」
ウェイターがやってくると、八尾比が注文を済ませる。
談笑しながら食前酒、前菜を楽しんだ。相変わらず八尾比と船越の空気感は悪かったが、網野らが良い緩衝材になっているようだった。
料理は絶品だった。コーンスープもホタテのパスタも、網野が普段食べているものとは全く違った。同じ種類の料理のはずだが、初めて食べたように感じる。
「セコンド・ピアットは真鯛を一尾丸ごと使用したアクアパッツアでございます」
次の料理が運ばれてくる。パプリカやトマト、アサリなどに囲まれた鯛。色鮮やかでとても豪華だった。
アクアパッツアはナポリの郷土料理。イタリア南方の街発祥ということもあり、海の香りが漂ってきそうだった。
「一番食べて欲しいのはこれ。この店のアクアパッツアはとても美味しいのよ」
網野はナイフで鯛の腹を切り、フォークで刺して持ち上げる。スープが染み込んで光り輝く白身。見た目を楽しみながら口に運ぶ。
「んー!」
思わず感嘆の声が漏れる。それほどの味だった。ニンニクの香りが口の中に広がるが、重たいわけではなく、白身のおかげでさっぱりとした味わい。鯛も柔らかく、溶けていくようで舌触りも最高と言えた。
「美味しい! 美味しいです!」
と、釣井も満足気。
「本当に美味しいですね。野菜たちもよく煮込まれてる。今まで食べたアクアパッツアで一番です」
天海は既に二口目を食べており、随分と気に入ったようだった。
「喜んでもらえて嬉しいわ」
船越は相変わらずだが、フォークを口に運ぶ手が止まらない。表情も心なしか八尾比に会った時よりも柔らかくなった気がする。
「さて話は戻るけれど、網野君の研究、聞かせてもらえるかしら」
「はい、もちろんです」
網野は手を止めて、もう一度八尾比に自分の研究テーマを説明し始めた。まだ若い研究者の話でも、八尾比は網野の目を見て真剣に聞いた。
「素晴らしい研究だわ。人と人魚の関わり。私も大切にしていることよ。それで、今のところ研究は順調なの?」
「順調なんてものじゃありませんよ! 先輩は凄いんです!」
「釣井」
口に鯛を入れたまま、網野よりも先に答える釣井を制す。すると、彼女は申し訳なさそうに肩をすぼめた。
「いいのよ。釣井さんが熱心なのも知っているから」
と、八尾比はフォローを入れる。網野は果たしてそうだろうかと疑問に思ったが、気にせず自分の研究成果について話すことにした。船越には一度研究データを彼に知らせるよう言われていたが、ここで何も口を挟まないのは八尾比には話しても良いということだろう。
「実は、うちの人魚、人間の言葉を発することができるようになったんです」
「え? それは本当に?」
地球上に住む人間の中でも最も人魚研究歴が長い八尾比も、さすがに目を丸くして驚く。
「まだカタコトですが、最低限のコミュニケーションが取れるほどです。生憎、証拠になるようなデータを今持っていないのですが」
「ただ、俺もその様子をこの目で見ています。間違いないです」
天海もそう付け加え、信じてもらおうと試みる。まさか八尾比と話せる機会があると思っていなかったので、データを持ってきてないことを少し後悔した。
ウェイターが次の料理を運んでくる。にんじんのソテーだった。
「八尾比博士?」
あまりの驚きに口を開けたままだった八尾比に釣井が声をかけると、我に返ったかのように突然動き出す。勢い余って手が机の上のフォークに当たり、床に落ちてしまった。
「あ、あら、ごめんなさい」
フォークは天海の足元の近くに落ちたので、彼がそれを拾おうと椅子を引き屈み込む。しかし今度は彼が屈んだまま動かなくなった。
「ありがとうね天海君。……あれ、見つからない?」
そう八尾比に声をかけられると、冬眠から目覚めた熊のように緩慢な動きで起き上がる。手には落ちたフォークが握られていた。
「……見つけました」
網野はフォークを握る彼の手が少し揺れているのに気がついた。出会った頃から冷静沈着、余裕のある姿に憧れていたからこそ、些細な違いが網野にはわかった。一方、八尾比は何も気がついていないようで、天海からフォークを受け取る。
「新しいものに代えてもらわなくちゃね」
八尾比は再びウェイターを呼んだ。フォークを別の物に取り替えてもらうと話題を網野の研究の話に戻したが、五人を包む空気感は先程とは全くの別物だった。温かい料理さえも、どこか冷たく感じる。
「それが、本当なら、網野君、あなたは間違いなく人魚学の歴史に残るわよ」
網野が感謝を述べようとするより先に、既にソテーを食べ終えた船越が八尾比に目をやった。
「まあ、俺は実際の様子を見たわけじゃないから真偽はわからんが、嘘をつく理由がないしな。とにかく今はとにかく情報を外部に漏らさないようにさせている。八尾比、あんたは知っておいた方が良いだろう」
「そ、そうね。素敵なことを教えてくれてありがとう、網野君。でも船越さんが言う通り、しばらくは内密にね。あなたの研究成果は、私が講演で話したような人魚の倫理問題にも関わってくるわ。慎重にならなくちゃいけないから、私たちにも助言をさせてね」
「ええ、ぜひともよろしくお願いします」
場の空気も相まって、念押しをされているように感じざるを得なかったが、八尾比ほどの人から助言をもらえるのはありがたいことだった。同時にそれほどの研究をしているのだ、という緊張感や責任感も生まれてきた。
ソテーの後はフォルマッジィのチーズ。ドルチェはパスティエラというケーキ。最後に食後酒を飲み、五人は解散となった。八尾比は網野・天海・釣井のタクシー代まで払うと提案してくれたが、駅が近くにあったので丁重に断った。もちろん駅が近くになくても断るつもりだった。その間に船越はさっさと自分だけタクシーで帰っていた。
駅へと続く夜道を歩く三人。
「いやあ、美味しかったですねえ」
と、釣井は自分のお腹に手を当てており上機嫌だった。
天海はやはり表情が曇ったままで、釣井のこの有様に対して何も反応を示さない。その点もいつもの天海らしくないと網野は思った。
「天海先輩」
網野は思い切って尋ねてみることにした。幸いにも自分の名前を呼ばれたことには気づいてくれた。
「八尾比博士のフォークを拾った時から様子がおかしいですよ。何かありましたか?」
「あ、網野先輩も思ってました? 私、こんな性格ですし勘違いかと思ってたんですけど、天海先輩なんか喋らなくなったなーと思ってたんです。いつもなら私と並ぶほどのおしゃべりじゃないですかー」
「……」
もしも天海が通常通りであれば今の釣井の言葉にも「いやお前には負けるって」などと返しているはずだ。それをせずに黙ったまま。何かおかしいのは明白だった。
「先輩、何かあったなら言ってくださいね」
一番端を歩く天海は一瞬二人から目を逸らすと、頭を掻いた。悩んでいる様子だった。
「うん……そうだな。……お前たちなら言ってもいいかもしれない。いや、知っておくべきだ」
打ち明けることを決心したと同時に、天海は二人より一歩ほど前に出て立ち止まる。
「驚かないで聞いてくれよ」
そう前置きをし、深呼吸をしてから天海は話し始めた。
「八尾比博士の服装。下はスカートだったよな」
「ええ、深いグリーンの。高そうなスカートでした」
釣井が答える。
「釣井ならわかるだろうが、スカート履いてると立っている時に比べて座ってる時の方が裾の位置が高くなるだろ? それで、フォーク取ろうと屈んだ時に……俺、見えてしまったんだ」
何が? と網野も釣井も思った。一体何が見えたというのか。二人には全く予想が付かなかった。
天海はその先を話すのに随分と時間を要した。決して勿体ぶっている訳ではない。網野の目には彼が恐れているように見えた。ただ、自分が見たものを話すことが恐ろしい。そう感じているようだった。
「見えたんだ」
彼はその部分だけもう一度繰り返し、ついにその先を口にした。
「八尾比博士の足首に、鱗があったんだよ」
聞き間違いだろうか。いや、違う。天海の表情。網野と同じく絶句している釣井。それが全ての証拠だ。
「間違いない。魚の鱗だった。八尾比博士の右足首に、魚の鱗が生えてた」
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