第3章
第12話 嬉しい成果
釣井とセイレーンへ買い物に行ってから二週間。四月もまだ半ばというのに長袖のティーシャツが暑く感じるようになっていた。研究室内も扇風機が一日中稼働している。ニュースでも今年は例年より暑くなると言っており、扇風機もすぐにクーラーに取って代わられそうだった。
しかしMMLにある大水槽や各研究室内にある小水槽は水温が低くなるように設定されているので、他の施設よりは涼しい場所なのかもしれない。
「ほらティナ、お昼ご飯の時間だよ」
網野は引き出しから取り出したパックの封を開ける。今日はなんと干物ではなく、生のホタテだ。早めにあげるようにという伝言付きで今朝配られたのだ。ちなみにそれは朝ごはんをあげた後だった。
「そういう特別なものって夜ご飯にしません?」
「そう? あんまり気にしたことなかった」
デスクで頬杖をつく釣井の意見なんて気にも留めず、網野はホタテをティナの水槽に投入する。ティナはいつもと違う食べ物を一瞬不審がったが、海で暮らしていた頃の記憶を思い出したのか、すぐにホタテを手に取り口に運んだ。
「美味しいかい?」
「あ〜」
と、ティナは顔を綻ばせながら声を出した。
「お、また喋ったね」
ティナの成長はとても早かった。網野は大学時代にも同様の実験をしているのだが、その時は今のティナのように言葉にならない言葉を発するまでに二ヶ月がかかった。しかしティナは一週間と少しでもうこのレベルだ。比較例が皆無に等しいので一概には早いと言えないのだが、それでも網野はティナの声が聞けるようになったことが嬉しかった。
たった一言の母音だけでもわかる綺麗な声だ。童話に出てくる人魚そのものなのだ。もしも網野の仮説通り、ティナが人の言葉を話せるようになったらどれだけ最高だろうか。網野は成功した時の功績よりも、人魚と意思疎通ができるようになる喜びの方を考えていた。
「これで喋ったのは十回目ですね。問いかけに対する応答としては七回目です」
「記録ありがとう、釣井」
ハイペースな発声。童話の読み聞かせをしたり、ラジオをよく流して多くの日本語に触れてもらうようにしたりしている網野たちの努力が功を奏しているのだろう。
十個ほどあったホタテはあっと言う間に水槽からなくなった。最近気がついたのだが、ティナは随分と食欲旺盛な人魚であるようだった。しかし狭い水槽ながらもよく泳ぎ回るので、決して太らない。もし人間であれば女性が理想とする体型に違いない。
網野も一息休みしようとデスクに戻ると、目の前に座る釣井が水槽に向かって指を差していた。
「何?」
「見てください」
言われた通り水槽の方に目をやると、ティナがなぜかこちらを向いていた。どうしたのだろうと、近づくために網野が再び腰をあげる。
「あ、い」
「今日はよく喋ってくれるね。どうしたの」
網野は水槽の前に立ち、ティナと目線の高さを合わせた時だった。
「あ、いお」
研究室内に静寂が訪れる。今ティナが発した言葉に二人はすぐに対応することができなかった。「あいお」という言葉を一般人が聞けば、ただのよくわからない文字の羅列だと思うかもしれない。しかしティナとほぼ毎日一緒に過ごした二人、大学時代から長い時間を共に過ごした二人にはそれをいつものティナの喋りとして片付けることができなかった。
「ねえ、釣井聞いてた? 今のティナの言葉」
「はい、聞きました。私も一瞬驚きましたけど、勘違いって可能性も。だって母音だけじゃ……」
そう呟きながら釣井も網野の横にやって来る。
「あい、の」
今度こそ間違いなかった。「の」と母音ではない音を初めてティナが口にした。
網野は今まで生きてきた中で一番とも言えるほど顔を綻ばせ、釣井の方を向く。
「ほら! 言ったよ今! 『網野』って! 僕の名前を呼んだんだ!」
「……言いましたね。言いましたね!」
釣井も遅れて事の重大さに気がつく。
「ティナが僕らの言葉を覚えたんだ!」
二人はあまりの喜びに手を取り合い、おもちゃを買い与えられた子供のようにその場で飛び跳ねた。網野は大学時代から『人魚は人間の言語を習得するか』というテーマについて研究していたが、ここに来て頑張りが報われたと感じていた。まだ危うい発音で名前を呼んだだけだが、それでも研究者として喜ばしい事だった。
「お前らー、邪魔するぞ」
歓喜の空気が漂う空間に甘みが姿を表す。網野と釣井の二人は彼を見るや否や飛びついた。
「天海先輩すごいんです!」
「そうです! マジですごいんです!」
「え、何。何よ二人して」
二人の熱量に流石の天海も引き気味だった。彼が特に驚いたのは釣井までもが興奮していることだった。どんなに網野が興奮していても側でそれを見守るのが釣井だったのだが、彼女までもが網野と同様に気を昂らせている。
「ティナが! ティナが!」
「おい落ち着けよ。落ち着いて話してくれ。何が何だか全く伝わってないぞ」
「ティナが喋ったんです!」
「喋っただ? まあ被験体の声を聞けるのは珍しいことだがそんなに騒ぐことじゃないだろ。人魚がエコロケーションだけでなく言語を使ったコミュニケーションを取るのは周知の事実だ」
「そうじゃなくて! 先輩の名前を言ったんです!」
「そう! 僕の名前を呼んだんです! 人魚語じゃなくて人語を喋ったんです!」
「……本当か?」
網野と釣井の説明を聞いて天海はようやく事の重大さを悟る。
彼はゆっくりとティナのいる水槽へと近づき、ガラス越しに彼女の姿を見た。
「あいの」
タイミング良く、ティナはまた網野の名を口にする。偶然ではないことはもう疑いようがなかった。明確に名前を呼んでいるのだ。
「おいおい、マジじゃないか。何だよこれ。初めて聞いたぞ!」
自分の耳で聞いて、天海も興奮し始める。
それもそのはずだ。多くの人魚研究者が人魚に人の言葉を覚えさせようと試みてきた。しかし全てが悉く失敗に終わっている。たどり着いて母音を発する程度。明確な人語はもちろん、名前を呼んだ前例などありはしない。
網野は偉大な成果を人魚研究史に今残したのだ。
「これはやばいぞ。一体どんな研究の仕方をしたんだ?」
「全然工夫した方法なんてしてませんよ。ただ毎日声をかける。出来るだけ多くの日本語を聞かせることを心がけているだけです」
「それだけで……ああ、なるほど。ちょっと釣井、耳貸してくれ」
「え、私ですか」
と、何かを察した天海は釣井の耳を引っ張って近くに寄せた。
「犯人はお前だな」
「犯人? 一体全体どういうことですか」
「人魚の学習のシステムが人間と同じなら、たくさん聞いている言葉から覚えるはずだ。つまり?」
「つまり?」
「わからない奴だな。お前が童話やラジオ以上に網野の名前を呼んでるってことだよ」
「な」
文字通り、釣井の顔が赤くなる。火照る頬を手で隠しながら、「お手洗いに」と彼女は研究室を足早に出た。その様子に天海は微笑みながら、ティナの水槽に張り付いている網野に声をかける。
「これは報告書を書かないとな。お前も一気に有名人だ」
「そうですね。早く人魚学会に知らせたいです」
「録音は?」
「あ……」
網野の動きが固まる。完全にやらかしてしまったと網野は落胆した。いくら自分がこの耳で聞いたと言おうと、釣井や天海が証言しようと物的証拠がなければ意味がない。
自分の仮説が立証された。そんな瞬間を凡ミスで水の泡にしてしまうなんて。
あまりの絶望に床に手をついてしまう。涙も浮かんできた。
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