第13話 波乱、再来

「録音はいつでも良さそうだな」


 と、天海も胸を撫で下ろす。彼は網野に手を引っ張り、立ち上がらせると自分は網野のデスクの椅子に腰をかけた。


「本当におめでとう。ただのプレゼントのつもりで来たんだが、お祝いになっちまった」


 天海は白衣のポケットから二枚の紙切れを取り出す。その絵柄に網野は見覚えがあった。


「それは、もしかして」

「ああ、そのもしかしてだ。八尾比丘尼子の講演会のチケット。八尾比博士から直々に招待状が届いてな。ぜひお前と一緒に行こうと思ったんだ」

「とても嬉しいです。嬉しいんですが」

「行くだろ? お前なら」

「行きます。行くんですよ。行くことに間違いはありません」

「どうしたんだよ。歯切れ悪いな」


 網野がどう伝えようか悩んでいると、釣井が戻ってきた。すると彼女はすぐに天海が手に持っているものに気がついた。


「あれ、天海先輩、それ八尾比博士の講演チケットじゃないですか」

「まさか釣井がこれ見ただけで何のチケットかわかるとはな。お前もちゃんと成長してるんだな……。先輩ちょっと感動して泣きそうだ……」


 と、釣井に負けず劣らずの涙の出ない嘘泣きを始めた。


「私だってそのくらいわかりますよー。なぜなら私もそのチケットを持っているから!」


 釣井は自分の鞄から財布を取り出し、さらにその中から以前八尾比からもらったチケットを引き抜いた。


「え、どうして釣井が持ってんのそれ」

「網野先輩も持ってますよ」

「マジ?」

「えーっと、マジです」


 網野もリュックからチケットの入ったクリアファイルを天海に見せる。


「マジだ。え、どうして。この講演、完全招待制だよ」


 彼が驚くのも無理はない。この講演は人魚学会の中でも上層の人間が八尾比に直々に招待されて参加できるもの。中層でも天海のような名前の知られている者でなければ招待など来ない。それを下層も下層、特に実績を残していない若手の網野や釣井がチケットを持っているのは彼から見れば不思議で仕方がないはずだ。


「端的に言うと、以前、たまたま八尾比博士にお会いして。二人分のチケットをもらったわけなんですけど。あの、僕がこれをどう天海先輩に伝えようか必死に考えてたのに、よくも簡単にネタバラシしてくれたね」

「あれ、ごめんなさい。バラしたら駄目でした?」

「いや全然駄目じゃないけど。釣井らしさ爆発してたから」

「それは褒めて……?」

「ないね」

「ですよね」

「まあ、こんな感じです」


 半分も説明じゃなかったな、と網野は思い返したが、きっと天海なら理解してくれるだろうと特にもう一度説明しようとも考えなかった。


「何となくわかった。にしてもすごいね、たまたま八尾比博士に会うなんて」

「本当にびっくりですよ。私のシャツのシミまで落としてくれたんですよ」

「待ってどこで会ったの?」

「セイレーンのレストラン街ですね」

「食事中に八尾比博士から声をかけてくださったんですよ」

「へえ、すごいね。そんなところで会うなんて」

「びっくりですよね」


 確かに、八尾比ともあろう人間がチェーン店にいるのは違和感と言えば違和感だ。そもそもショッピングモールという場所も似合わない。高級店が並ぶデパートの方が似合う。意外にも俗っぽいものが好きなのだろうか。


「それにしても残り一枚どうしようかな。完全に網野を誘うつもりだったからな」


 小学生のように椅子を傾けながら、天海は行く当てのなくなったチケットを天井に掲げる。


「他にいないんですか、いい感じの人」

「釣井君、まるで私たち以外に友達いないんですか、みたいな言い方やめたまえ」

「天海先輩知らないんですか。本当に友達いない人がそんな意訳するんですよ」

「うるさいな! 友達くらいいるさ! お前らが特別なだけだよ!」

「よくそんな恥ずかしい台詞言えますね」

「はい、網野、ガチで引くのやめて」


 まるで大学時代に戻ったかのような盛り上がりを見せていた時、さらにもう一人の来客が網野研究室に現れた。


「全く網野研究室は騒がしいな」

「げ」


 彼の姿を見るや否や、天海は上司相手に失礼なことを言う。網野も釣井も口にはしないが、別にその上司に尊敬の念を抱いているわけでなかったので天海を咎めることもしない。むしろよくぞ言ったくらいの気持ちでいた。

船越に露骨に反応したのは天海だけではなく、水槽の中にいるティナも暴れ出した。


「やー!」


 以前の記憶があるのだろう、心なしか「嫌」と言って言うようにも聞こえる。


「全く、お前の人魚は相変わらずだな。問題児の集まりだ」

「ちょっと!」


 と、釣井も反抗しようとしたので網野は慌ててそれを制する。


「釣井やめて。ティナも大丈夫。大丈夫だから」


 網野が声をかけると、ティナも次第に落ち着いて行った。


 ティナが思いのほか網野に従ったのが嫌だったのか、船越はいつにも増して不機嫌そうになった。


「おや、天海。お前が手に持っているものは何だ?」


 船越は傍若無人な態度で釣井の椅子を引っ張り出し、勢いよく座る。椅子が軋む音がした。


 以前と違い、この研究室用のケトルは買ってあった。網野は面倒なことにならないよう、自ら先に船越に尋ねた。


「緑茶でよろしいですか?」

「は? 今俺は天海に話しかけているんだ。口を挟むな」

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