第2話 金色の彼女

 着いた場所は『網野研究室』と書かれた小さな部屋。しかし十分な大きさの水槽はあるし、デスクも四つある。網野と釣井の二人しか利用しないので問題ない。


「先に荷物置いてから、お待ちかねのイベント行くぞ」

「そうですね、僕も楽しみにしてましたから」


 と、網野も少し落ち着かない様子だった。


 与えられた小さな空き研究室に段ボールを置き終えた網野、天海、釣井はMMLが誇る大水槽へと向かう。


 9000トンの水が入っているこの大水槽には捕獲された人魚たちが飼育されている。この水槽にいる人魚は全てメスの人魚、いわゆるマーメイドだ。人魚は繁殖方法が未だに解明されていないため雌雄を同じ水槽に入れない方がいいのだ。とはいえ、希少なオスの人魚であるマーマンは全て他の研究室へ持って行かれているのが現状である。


「いやあ、いつ来てもここの景色はなんというか、神秘的ですね」


 首を退け反らせて巨大水槽を見上げる釣井。彼女の言う通り、人ならざる人が泳ぎ回る光景は不気味を通り越して神秘的だった。かつて童話の世界とされたファンタジーが目の前に広がっているのだから。


 網野もMMLに就職してから何度もこの場所を訪れているが、今日は興奮具合が異なる。彼はこれから自分が研究対象とする人魚をこの中から選ぶのだ。網野は水槽の端から舐めるように悠々と泳ぐ人魚たちを見ていく。


「あんな風に、人魚を見たがる人たちは一般にもたくさんいるんだろうな」


 ふと、天海が漏らした言葉に釣井が反応する。


「水族館みたいに一般公開したらいいのにっていつも思います。きっと海外からのお客さんも来るし、儲かりますよ。稼いだ金は施設の維持費や研究費に当てて……」

「お前さあ、仮にも人魚研究者だろ。一般公開しない理由知らないとは言わせないぞ」

「え」

「……マジで知らないのかよ」


 口を開けたままの後輩に天海は頭を抱え、「よく聞けよ」と彼女に解説を始めた。


「よく見てみろ、マーメイドたちは乳丸出しだ。本物は御伽噺と違って貝で隠すなんて洒落たことをしないんだよ。おかげで彼女らを変な目で見る奴らも少なくない。それに水族館として公開するなら、教育活動もしなきゃならない。でも裸女を子供たちに見せるのは教育上良くないだなんて意見もある。同じ人型なら猿だって真っ裸じゃねえかと俺は思うんだがな。何せ、人魚が見つかって日が浅い。摩訶不思議な生物に対する世間の理解が纏っていないんだよ。そんな混乱した状況下で一般公開すべきじゃない。それが所長の考えだ」

「そういうことだったんですね……。まあ、うちにもすごい目で人魚を見る先輩がいますけど」

「あれはただの人魚馬鹿だ。エロのエの字もねえ」


 先輩と後輩に噂されているなんて知らない網野は水槽の端から端まで移動して来ていた。水槽内にいる人魚を順に見てきたが、最後に一匹の人魚が網野の目に止まった。綺麗な金髪を持つその人魚はなんだが虚ろな表情をして、人工岩の上で眠っていた。


 網野は暑いガラスを挟んで、目を閉じている彼女をじっと見つめる。


 長いまつ毛。透き通るような白い肌。東洋風とも西洋風とも言えない不思議な美しい顔立ち。


「君さ、もしかして……そんなはずないか」


 喉まで上がってきた言葉をもう一度飲み込む。


 突然彼女は目を開き、その瞳の中に網野の顔が映りこんだ。しばらく見つめ合った後、その人魚はぎこちない泳ぎ方で水槽の上の方へ向かって泳いでいく。

彼女の姿を追うように網野が立ち上がると、彼の元に天海と釣井も近づいてきた。


「あの人魚は確か、今朝届けられた人魚だよ」


 網野の視線の先にいる人魚の解説を天海が行う。


「漁船の網に引っかかったんだと。漁師は人魚嫌いが多いからなあ、随分と手荒な状態で捕えられていたらしい。可哀想なもんだ」


 確かに下半身の鱗の傷から、いかに手荒なことをされたかがわかる。よく見ると上半身の肌にも所々かすり傷が見られた。


 しかし、網野はもう心に決めていた。


「僕、あの人魚にします」

「網野先輩は金髪がお好みですか? それならここにも……」


 自信満々な笑顔を作る釣井に網野は目を向ける。冷たさすら感じない、深い海の底のように黒い目。頭の中が人魚のことだけになっているときの網野のこの目を釣井はよく知っていた。


 彼の瞳にいつも自分はいない。そう感じた釣井は無意識に口角を下ろした。

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