第3話 網野研究室
網野は人魚選びまで手伝ってもらった天海に感謝を述べ、彼と別れた後は釣井と共に網野研究室へ戻った。段ボールの蓋を開き、持ってきた資料を棚に並べていく。
「そう言えば、釣井は大丈夫なの? 男と研究室に二人きりだなんて」
網野の気遣いを、釣井はここぞとばかりに茶化し始める。
「やだあ、網野先輩ったら何考えてるんですかー」
「人の善意を何だと思ってるの」
「……私が自分から網野先輩の助手を名乗り出たのも善意ですよ」
「どういうこと?」
網野は釣井の言っていることがわからないということを、首を傾げて伝えてみた。釣井はそんな様子の網野に溜め息をつきながら、彼のデスクに腰をかける。
「網野先輩みたいな人魚バカの面倒を見れるのは私と天海先輩くらいじゃないですか」
「確かに」
「それに大学時代も二人で研究室にカンヅメだなんてこともありましたね」
「確かに」
「網野先輩、食事そっちのけで研究に没頭しちゃうから、私が餌付けしてあげなかったら今頃どうなっていることやら」
「確かに」
「おかげで私は網野先輩の好み、熟知しちゃいましたよ。何なら食べ物意外のこともわかっちゃいます。何されるのが嫌だとかも知ってますよ」
「僕、先輩の机にお尻乗っける後輩は嫌なんだよね」
網野は釣井の肩を引っ張り、無理矢理デスクから引き下ろす。釣井が「ぎゃ」と変な声を上げていたが、網野はそんなの気にせず作業を再開する。
「先輩のセクハラ!」
「やだあ、釣井ったら何考えてるの」
網野は先ほどの釣井を真似てみた。
「……なぬ」
網野はなんだかんだこの後輩のことが好きだった。彼女の明るさがあるおかげで、海の底まで沈まずに生きて海面まで戻れているのだ。釣井がいなければ、彼女の言う通り研究にのめり込みすぎて体を壊していたと思う。そして、釣井と今のようにふざけあう時間も網野にとってはいいリフレッシュになるのだ。彼女には感謝しかない。
「網野さん、人魚飼育スタッフ大波田です。申請されていた人魚を持ってきました。番号4205で間違いないですよね?」
人魚が一匹入るくらいの大きさの水槽が備え付けられた台車が研究室の扉の前で止まる。飼育スタッフが網野の選んだ人魚を連れて来てくれたのだ。
網野はそのスタッフである
「はい、この人魚で合ってます」
大波田から差し出された書類に網野は自分の名前を記し、ボールペンと共にそれらを返した。
「水槽への移しはご自身でされますか? 全然手伝いますけど」
「お願いしたいです。僕だけじゃ心許なくて」
「え、はい! 私もいます!」
背後で手を挙げながら飛び跳ねる後輩を一瞥した網野は発言を訂正する。
「彼女じゃ心許なくて」
「訂正が違う! せめて『僕たちだけじゃ心許なくて』にしてください!」
跳ねるのをやめない釣井に大波田は苦笑しながら、
「研究者はあまり移し替えをすることってないですからね。俺ら飼育スタッフの方が慣れてるので任せてください。それじゃあ失礼しますね」
と、台車を研究室に持ち込む。
水槽の近くまで台車を運ぶと、天井から吊るされているワイヤーとフックを手際良く台車の水槽に取り付けていく。網野と釣井はさすが飼育スタッフだと感心しながら、彼の作業を眺めていた。
「それじゃあ持ち上げますねー」
彼が水槽の下にあるスイッチを押すとワイヤーが動きだし、人魚が入った小さな水槽が浮き上がる。研究室に備えつけられている大水槽の上の高さまでになると、小さな水槽は斜めに傾いていく。
少しずつ大水槽へ流れ込む水の量が増えていき、その勢いに乗って人魚も大水槽へと移った。一般的な成人男性ほどの大きさの生物が水槽へ飛び込んだわけだ。当然のように水は溢れ、辺り一体が水浸しになった。
「天海先輩の研究室に入った時も思ったけど、相変わらず文明の力を感じない移し替えだな」
「昔からなんですね。私は移し替えを見るのは初めてですが、MMLに入って一番の衝撃を受けた気がします」
二人は飛んできた水で濡れた髪を掻き上げる。
「あ、すみません。先に言っておけば良かったですね。濡れて大丈夫でしたか?」
「僕らは大丈夫です。天海先輩から資料は防水ファイルに入れておくよう言われてるので」
網野は彼に移し替えのお礼を言い、大波田は不手際を詫びると台車を持って帰って行った。
残された網野と釣井は掃除用具ロッカーからモップとバケツを取り出し、清掃作業に取り掛かる。
「どうせ、床掃除はしてなかったんですし。ラッキーですね」
「そうだな。いや、そうかな?」
彼の疑問なんて気にせず、釣井はテキパキとモップがけを続けた。一方、網野は水槽の前を掃除しようとした所で手を止める。
この水槽は巨大水槽に比べたら小さいと言えど、一匹の人魚が泳ぐには十分な容積を持つ水槽。魚の水族館にあっても、決して小さな水槽と言われるようなものではない。しかし、彼女が今までいた大海に比べたら遥かに狭いことには間違いない。きっと海に帰りたいと願っていることだろう。研究者としてそれができない網野は、せめてでも気分良く暮らしてもらおうと、この人魚と仲良くなるつもりだった。そのためには、この人魚にも名前をつけてあげるべきだ。
「ちょっと網野先輩! 私ばっかりモップがけしてるじゃないですか! 終わったら、いくらでも人魚を見る時間はありますから! 先にこっち手伝ってください!」
釣井の声は網野に届かない。彼はいわゆるモードに入っていた。
水槽の中をぐるぐると泳ぎ回る人魚。金色の髪。美しい顔。白い肌。まさに童話に出てくるような人魚。
「ティナ」
脳の中に浮かんだ言葉を口にする。
「え?」
「ティナ。今日から君はティナだ」
ようやく網野は釣井に対して反応を示した。
「いい名前じゃないか?」
「私に訊かれましても……」
釣井にとっては人魚への名付けはあまり重要なことではないし、彼がティナという名に込めた意味もわからない。網野の今の気持ちをわかってやることはできないのだ。
網野は水槽に向き直る。するとティナも彼に気付き、ガラス越しに顔を近づけてきた。
「どうだい? 気に入ってくれたかい?」
彼はそう問いかけるが、人魚が人間の言葉を理解するはずもなく、ティナは無表情のままだった。
「嫌だったら言うんだよ。あ、言えないか。何か嫌っぽいことしてね」
「駄目ですよ網野先輩。そもそも言葉が通じないんだから」
「確かに言葉は通じないかもしれないけど。人魚とのコミュニケーションは僕や天海先輩の研究領域だからね」
「それはそうですね」
「だからティナ、これからよろしくね」
言葉は通じていないはずだった。しかしティナは彼の言葉に応えるかのように水槽内をぐるぐると泳ぎ回って見せた。表情もどこか微笑んでいるようにすら感じる。
「ティナもよろしくだって」
「不思議と今回は私もそう言ってるように感じます」
「ちょっといいか」
二人の会話の中に明らかにどちらでもない声が研究室内に響く
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