第1章
第1話 旅立ち
十年前。日本海を航行中だった一隻の調査船が上半身は人間の女性の姿、下半身は魚の姿の生物を発見。生け捕りに成功した。どう考えても伝説上の存在とされていた人魚である生き物の発見に世界が湧いた。
一匹目の生け捕りを皮切りに続々と他の個体も発見され、調査は本格化。日本は世界初の人魚研究機関・MML( Mermaid & Merman Laboratory)を設立。海洋生物学関係者をはじめとした、新たな生物の生態を解明しようとする人々が多くその研究所に所属した。
若き研究者である
今日は朝から段ボールに荷物を詰める作業をしており、短い前髪から汗が滴っていた。やや大きめの白衣の袖を捲り、次々と資料のファイルを詰めていく。
「おいおい、そんなに焦らなくてもいいぞ。時間はあるんだから。それとも早く俺から離れたいか?」
メガネをかけた男が網野に近づき、肩を叩く。
「別に焦ってないですよ。むしろこの研究室を離れるのが名残惜しいです」
「よく言うぜ」
一方、網野は平均的な身長に冴えない顔。唯一の魅力として潤いのある綺麗な肌があるが、そのわりに今まで恋人がいたことはない。肌の綺麗な男はモテると巷では言われるが、きっと多くの人が彼の人魚への愛を知ればその結果にも頷けるだろう。
「いやあ、まさか網野が独り立ちする日が来るなんてなあ」
「馬鹿にしないでくださいよ? 天海先輩ほどの功績は出せなくとも、僕だって頑張ればそれなりの成果を出せるんですから」
「いやいや馬鹿になんてしてない。お前の人魚への執着は同じ研究者として尊敬もんだ。人魚の姿に惚れてこの道に踏み込んだけど、お前ほどの人魚愛は俺にないしね。それにあれだってただ運が良かっただけだ」
彼の言う『あれ』は人魚研究界隈の中で天海啓治の名が世に知れ渡った出来事のことだ。まだ学生であった彼と網野は、当時同じ船に乗っていた。その時はただ人魚の海遊映像を撮ることだけが目的だったのだが、泳ぐ複数の人魚たちが映り込んだ映像の異変に天海だけが気がついたのだった。
「今、マーマンが映っていませんでした?」
彼の一言をパソコンの前に座る教授は軽く遇らう。
「まさか。気のせいだろ。人魚たちは泳ぐのが早いからな。なかなか綺麗に動画には収められない。ぼやけてそう見えただけだろう」
「そんなことないです。あれは絶対に男だった。体つきが他とは違いました」
「確かに男だったらすごいだろうけど……」
一体目の人魚発見以降、見つかる個体は全て外見的特徴からメスとされていた。生け捕りはもちろん、オスの個体は発見例すらなかった。オスは海面に浮上しないという説や、そもそもオスという性が存在しない説。さまざまな憶測が飛び交っているのが当時の現状だった。
「俺、見てきます」
「馬鹿な。きっともう深く潜っているよ」
教授の静止も聞かず、天海はジャケットを脱ぎウェットスーツ姿になる。ダイビングに必要な器具を装着しながら、
「カメラを俺の鞄から取って来てくれ」
と網野に指示。彼も言われるがままに、船室に一度戻り、彼のカメラを持って来た。
受け取った天海はそのまま海に背中から飛び込む。
船の上で彼の浮上を待つ時間は網野にとって酷く長く感じられ、変に緊張して腕に力が入っていた。腕が痺れてきた頃、カメラと共に天海は帰って来た。彼の表情を見た途端、網野は腕の痺れなんて完全に忘れてしまった。
「撮れました! マーマン!」
オスの人魚の第一発見者となった天海啓治の名はすぐに世界中に知れ渡った。MMLに就職した時も、その功績や大学首席卒業という優秀さから若くして研究室を与えられた。網野にとって誇るべき先輩なのだ。
網野もMMLに所属してすぐに彼の研究室に入り、三年間過ごしたこの場所をついに旅立つこととなった。ついに所長から自身の研究室を持つことの許可が降りたのだ。なんと研究室を持った際の年齢が、網野は歴代二番目の若さらしい。そこにも網野は喜びを感じていた。ちなみに一番は言わずもがな天海である。
詰め終わった段ボールは二つになり、一つを網野が持ち上げる。随分と重くなってしまっていた。辛いのはこれをもう一個分運ばなければならないということだ。もっと小さな段ボールに小分けするべきだったと網野が後悔していると、コーヒーを飲み終えた天海がもう一つの段ボールを抱える。
「いや先輩いいですよ。重いでしょう」
「いいよこのくらい。お前より力あるしな」
天海は今度こそ馬鹿にしたような笑みを浮かべた。
「先輩たち遅いです! 早く行きましょうよ!」
天海研究室の扉の前で小さな段ボールを持つ小柄な少女の名は
そんな彼女の今日の様子を網野は不審がっていた。
「釣井のやつ、研究室を持つのは僕なのに、どうして僕より喜んでいるんでしょう」
「さあなあ? まあ、可愛い後輩が急げって言ってるんだ。さっさと運ぼうぜ」
「そうですね」
他の研究スタッフに見送られながら、網野も一人一人に「お世話になりました」と頭を下げて回る。釣井の元にまで大きな二つの段ボールが到着するや否や、
「あ、忘れてた」
と、網野は段ボールを床に置いた。
「ちょっと網野先輩!」
「いいじゃないか。早く二人になりたい気持ちはわかるけど、ちょっと待ってやれ」
天海に諭され、頬を膨らませながらも釣井は研究室の中央にある水槽へ向かう網野の背中を見た。
当の網野は水槽に近づき、綺麗に磨かれたガラスに手を当てる。すると赤茶色の長い髪を持つ一匹の人魚がゆったりと網野の手の元まで泳いできた。
「今までありがとうね、エル」
網野が微笑むと、それに応えるようにエルと呼ばれた人魚も口角を上げる。しかしその一連の様子を見た天海は網野の名を大声で呼ぶ。
「おーい! 人の人魚を勝手に自分でつけた名前で呼ぶなってー!」
「すみません」
MMLの職員は人魚を識別番号で管理する上、そもそも人魚に語りかけることがない。しかし人魚愛溢れる網野はそれを監獄みたいだと嫌った。その代わりに施設内にいる人魚に勝手に名前をつけ、そのニックネームでよく呼んでいたのだが、自分の研究対象にニックネームをつけられることに気を悪くする研究者は少なくないのだ。
網野の性格に理解がある天海は、注意こそするがそこに嫌味はない。網野もそれを分かっているからか、謝罪も苦笑いで済ませていた。
「愛しの人魚ちゃんへの挨拶は終わりました?」
拗ねているように見える釣井など、網野は気にせずに段ボールを再び持ち上げる。
「うん。ちゃんとお別れしてきたよ」
「まあ、あの人魚ちゃんは俺の女だけどな。それにお前はこの後、大事なイベントが待っているだろ」
「それもそうですね」
網野はもう一度、三年間過ごした研究室に頭を深く下げてから、天海研究室を後にした。
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