二章



 窰洞を後にして家に戻る途中、刹瑪の家の婢女はしためが駆けてきて言伝ことづてを受けた。大巫おおかんなぎが呼んでいるという。それで十五まで育った大天幕へ顔を出し、歓待に一口の水をもらって、続く奥の私幕ししつを訪ねた。


 物心つく前から厳しく自分を嫗煦うくした老婆は今はとても小さくなってますます枯れ木のようになり、牀褥ねどこに埋もれて身を横たえていた。しかし物音に薄く瞼を開いた。


「……来たか、いわいの」

「お呼びと聞いて」


 老婆は下女に上体を起こさせ、か細い息を吐いた。

「…………鉱脈は」

「いまだ見つからず」

「……己を責めるでないぞ可敦。神はいつでも人の都合の良い時に恵みを与え給うわけではないのだから。かと言って、逆恨みするのも愚かというもの」

 分かっています、と憮然とすれば視線をあらぬほうに投げる。

「……わしはもう長くはない」


 思わず息を詰めて見返すと古老は暖炉いろりの光を映した硝子玉のような瞳でそのまま語りだした。


「このところ起き上がれず、多くの夢を見た。昔の夢、若かりし頃の思い出、営み、地の恵みと山の恵み。伝承に聞いた『祝穎ほさき』に生まれて初めて出会えた時の歓び」

 震える鉤針かぎばりの手が伸びてきて赤い髪をひと房すくう。

曩祖のうそから遠くなった我らにはもはや神降ろしの力もない。それでも、お前がこの色を持って生まれてきてくれたことを感謝しない理由はなかった。我々はこの毒霧の大地で見離されたみじめな一族ではないと……そう思えた」

 祝よ、と呼び掛ける語調は今までになく優しい。

「お前は儂の教えたことをよく学んだ。今でもおぼえているか?」

「一言一句一挙動たがえず」

「よろしい。……祭壇の下のはこに代々守ってきた始祖佛朶フツダの枝が入っているのを知っているな?」


 瞬いた。なぜ急にそんなことを言い出したのか分からなかった。


「あれは触れてはならないものだと」

「無論、軽々に扱えばどんなのろいを受けるか分かったものではない。儂がお前に見て欲しいのはそれと共に入っている書き付けだ」

「書き付け……」

「古代文字で記されたしなびた経典よ。あれを読めるのはもはや儂とお前くらいなもの。夢を見ている時に、ふと出てきてな」

 あれには、と一度息をついた。

「この世の本当のことわりが示されている」

「……どういうことです」

「祝よ、なぜ我々は泉の大地から阻害されたこのような不便な荒地に生きていると思う?」

「そんなことは……分かってもしようがない。父祖の失敗を嘆けとて彼らはもういない。水が無いことには変わりない」

「あの古文書には、それを打破する方法が記されている」

 まさか、と目を丸くした。「打破?もしかして、鉱脈の在処ありかが書かれているのですか⁉」

 勢い込んで訊ねたがそれにはすげなく首を振られた。

「もっと、根本としてこの世界の理を覆すものだ。暗喩や隠語で記されていて、読めはしても全てを理解するのは難しい。だが、もしかすればとてつもない祝福を得られる可能性はある」

 残念ながら、儂は途中までしか解き明かしていないが、と言う。そんな眉唾物の宝地図を自分に解読しろと?思わず呆れて首を振った。なんだ、もっと重要事の為に呼び出されたのかと思ったのに。しかし彼女は真剣な面持ちで握った髪を軽く引く。聴き取りにくい声をさらに落とした。


「これだけは聞きなさい。……泉地で信じられている神は偽物だ」

「何を言って」

「あれはまがいもの。儂を耄碌もうろくした死に損ないだと決めつける前に、匣の経典を読め。お前なら出来るはず。そして天運を掴み、一族を救え」


 頼んだぞ、と言った直後、力が失せた。


「大巫!――誰か、来てくれ!」

 慌てて下女たちが入ってくる。意識のない古老はもう死んでいるのと同じくらい色の悪い肌をしていて、自分の髪を絡めた指が垂れ下がるのをなすすべなく見つめていた。





 ――――天運を掴み、一族を救え。


 最後に言われた言葉が頭の中をぐるぐると巡る。救えるものなら今すぐにでも。しかし、本当にそんな古文書に手掛かりがあるというのか。彼女が己の望夢と混同したのでは。


 あとでまた祈祷しに来ると言いおき、深夜、半信半疑で祭壇の前に立つ。石の大牌位だいはいいに彫られた金字には女神たちの名を刻み、周囲はり紙と幣帛はたで飾られた柳の枝が所狭しと挿されている。見回して無人を確認し、その中に分け入った。


 牌位は鉄のかなえで支えられている。その脚の下、溶接された台は実はからくりになっていて、組まれた木の目地を正しい手順で押せば正面の一辺が開く。誰がいつどう考えてこんなものをあつらえたのかは分からない。今の世代にこれを作れる者はおそらくいない。

 憶えているとおりに指を掛ける突起をぽくりと浮かせた。押し開け、うろに顔を突っ込む。わずかな光をよすがに、そこそこ広い空間の真中に置かれた小さな匣を手に取った。


 古びてかびの生えたそれを膝に置き、静かに力を込める。難なく開帳した中には黄ばんだ綿を敷き詰めた上にいぶされた銀の枝、これが実は皆があがめる神の正体だ。かつて地上を襲った大洪水を唯一生き延びた木の枝だという。意外にもずっしりと重い神体をひとまず取り上げて首を傾げる。中にはただそれだけ、あとは何も無い。


 そんなはずはないな、と綿を取り除く。しばらくためつすがめつ、やはり底が大きさに比例せず浅いことが分かった。注視して初めて上げ底だったのか、と気がつき、古老の言がにわかに現実味を帯びてきたのを感じひとつ震えた。寒さのせいだとごまかし、ともかく底を押したり引っ掻いたりしてみる。

 しかしいくらやっても開かない。そのまま傾けて振っても音はしない。どうしたものか、と一度閉じた。何の変哲もない木と鉄の匣、さらに裏返して転がしてみたが、変化なし。馬鹿馬鹿しくなり胡座あぐらをかいたまましばしぼんやりとする。銀の枝と匣を見比べ軽く叩いて、このまま一晩を過ごす訳にはいかぬと不平を呟き、駄目元でもう一度開いてみた――すると、中身はすでに。


 思わず歓声をあげ、慌てて口を押さえる。染みだらけのしなびた羊皮の紙束が出現しており、感動しつつ恐る恐るつまみ上げた。茶に変色した羅列は大巫の言った通りいにしえから伝わる文字、窰洞に置いてある書物でももう少し新しい時代のものしかないだろう、こちらはさらに文体や字形が違う。

 蛇腹に折り畳まれてそれほど厚くもない。光に透かして最初の一節を読んでみた。



「……元初に葫蘆ころの舟ありて、水に浮かび漂う。魂魄こんぱくる。こうべは人、からだは地を這うまむしの尾なり……」



 これは知っている。一族に伝わる創世神話だ。かつて、この大地には土というものがなく、全ては水に満たされていたという。神は葫蘆ひょうたんの舟で漂流したのち人をつくった。


 ここから読まねばならないのか、と早々にみ、朽ちそうな紙を慎重にめくっていく。しかし、確かに難解な文言だった。ともすればただの御伽噺おとぎばなしを書き連ねているようで、裏の意図を考えるとそれは生活上の知恵であったり、人が害を被る行いについての警告だったりする。ある程度大まかに読み進めたところで、不可解な記述を見つけて手を止めた。



「門をふさぎてひらくべし…………?」



 首を捻った。ここから先は本当に何を意味しているのか分からない。


儔儻ともがら麒麟きりんの子をもたらせ」


あかい風吹くもりすなわゆうたるとこしえの庭なり…………」


 だめだ。眉間を揉んで紙束を閉じた。まるで分からない。もう随分月が落ちた。ひとまず今夜は引き揚げだ。慎重に元のとおりに匣に全てを戻し、樞台を閉めて灯りを吹き消した。外に出ればすでに東の空は微かに白んでいる。





 薄明と同色の息をたなびかせながら、自分の穹廬の前まで来てぎくりと足を止めた。暗がりでも分かる、腕を組んで立っているのは夫。

「……今まで、どこへ?」

 色の無い言葉が誤魔化しを許さない。

「…………祈りを」

「こんな時間まで?」

 麝君は疑いの眼差しを向けてきた。他に何がある、と反発しようとして悟る。

「まさかお前、私が誰ぞのところでぬくまっていたのではと思っているのか」

 不貞をはたらく余裕などあるものかと吐き捨てれば、ずんずんと近づいてきつく腕を掴まれた。

「俺は遅くなるとは言ったが、帰らないとは言わなかった」

「いい加減、自分の機嫌くらい自分で取れるようになれよ」

 そういう問題じゃない、とそのまま引っ張る。幕内に入った途端にしとねに押しつけられた。

「お願いだ。心配させないでくれと何度言ったら分かる?俺をやきもきさせてそれをたのしんでいるのか?お前はそれほどひどい心根の持ち主だったか?」


 憔悴した顔とは裏腹に手はせわしなく身体からだをまさぐり衣を剥がしにかかる。謝罪を望む切なげな声はこちらに罪悪感を植え付け従わせようとして、さらにどれほど案じていたかをつらつらと語った。


「……やめて。疲れている。休ませてくれ」

 首筋に吐息がかかり顔を背けた。動きが止まる。

「お前は、俺が嫌いか?」

「……好きあって一緒になったわけでもないだろう」


 正直にしかしはっきりと言えば、やっと手を退いた。何を考えているのか分からない視線がじっと降りてきて、それから裸身を検分する。丹念に見ても鋼兼ハガネの体になにがしかのしるしなど残るわけがないが、真新しい痕跡は何も無い、と余すところなく確認してからようやく離れた。その間ずっと歯を食いしばり、固く目を閉じて、早く終わるようただただ念じていた。

 気を抜くと、不覚にも泣き出してしまいそうで悔しかったから。




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