二章
窰洞を後にして家に戻る途中、刹瑪の家の
物心つく前から厳しく自分を
「……来たか、
「お呼びと聞いて」
老婆は下女に上体を起こさせ、か細い息を吐いた。
「…………鉱脈は」
「いまだ見つからず」
「……己を責めるでないぞ可敦。神はいつでも人の都合の良い時に恵みを与え給うわけではないのだから。かと言って、逆恨みするのも愚かというもの」
分かっています、と憮然とすれば視線をあらぬほうに投げる。
「……
思わず息を詰めて見返すと古老は
「このところ起き上がれず、多くの夢を見た。昔の夢、若かりし頃の思い出、営み、地の恵みと山の恵み。伝承に聞いた『
震える
「
祝よ、と呼び掛ける語調は今までになく優しい。
「お前は儂の教えたことをよく学んだ。今でも
「一言一句一挙動
「よろしい。……祭壇の下の
瞬いた。なぜ急にそんなことを言い出したのか分からなかった。
「あれは触れてはならないものだと」
「無論、軽々に扱えばどんな
「書き付け……」
「古代文字で記されたしなびた経典よ。あれを読めるのはもはや儂とお前くらいなもの。夢を見ている時に、ふと出てきてな」
あれには、と一度息をついた。
「この世の本当の
「……どういうことです」
「祝よ、なぜ我々は泉の大地から阻害されたこのような不便な荒地に生きていると思う?」
「そんなことは……分かってもしようがない。父祖の失敗を嘆けとて彼らはもういない。水が無いことには変わりない」
「あの古文書には、それを打破する方法が記されている」
まさか、と目を丸くした。「打破?もしかして、鉱脈の
勢い込んで訊ねたがそれにはすげなく首を振られた。
「もっと、根本としてこの世界の理を覆すものだ。暗喩や隠語で記されていて、読めはしても全てを理解するのは難しい。だが、もしかすればとてつもない祝福を得られる可能性はある」
残念ながら、儂は途中までしか解き明かしていないが、と言う。そんな眉唾物の宝地図を自分に解読しろと?思わず呆れて首を振った。なんだ、もっと重要事の為に呼び出されたのかと思ったのに。しかし彼女は真剣な面持ちで握った髪を軽く引く。聴き取りにくい声をさらに落とした。
「これだけは聞きなさい。……泉地で信じられている神は偽物だ」
「何を言って」
「あれはまがいもの。儂を
頼んだぞ、と言った直後、力が失せた。
「大巫!――誰か、来てくれ!」
慌てて下女たちが入ってくる。意識のない古老はもう死んでいるのと同じくらい色の悪い肌をしていて、自分の髪を絡めた指が垂れ下がるのをなすすべなく見つめていた。
――――天運を掴み、一族を救え。
最後に言われた言葉が頭の中をぐるぐると巡る。救えるものなら今すぐにでも。しかし、本当にそんな古文書に手掛かりがあるというのか。彼女が己の望夢と混同したのでは。
あとでまた祈祷しに来ると言いおき、深夜、半信半疑で祭壇の前に立つ。石の
牌位は鉄の
憶えているとおりに指を掛ける突起をぽくりと浮かせた。押し開け、
古びて
そんなはずはないな、と綿を取り除く。しばらくためつすがめつ、やはり底が大きさに比例せず浅いことが分かった。注視して初めて上げ底だったのか、と気がつき、古老の言が
しかしいくらやっても開かない。そのまま傾けて振っても音はしない。どうしたものか、と一度閉じた。何の変哲もない木と鉄の匣、さらに裏返して転がしてみたが、変化なし。馬鹿馬鹿しくなり
思わず歓声をあげ、慌てて口を押さえる。染みだらけのしなびた羊皮の紙束が出現しており、感動しつつ恐る恐るつまみ上げた。茶に変色した羅列は大巫の言った通り
蛇腹に折り畳まれてそれほど厚くもない。光に透かして最初の一節を読んでみた。
「……元初に
これは知っている。一族に伝わる創世神話だ。かつて、この大地には土というものがなく、全ては水に満たされていたという。神は
ここから読まねばならないのか、と早々に
「門を
首を捻った。ここから先は本当に何を意味しているのか分からない。
「
「
だめだ。眉間を揉んで紙束を閉じた。まるで分からない。もう随分月が落ちた。ひとまず今夜は引き揚げだ。慎重に元のとおりに匣に全てを戻し、樞台を閉めて灯りを吹き消した。外に出ればすでに東の空は微かに白んでいる。
薄明と同色の息をたなびかせながら、自分の穹廬の前まで来てぎくりと足を止めた。暗がりでも分かる、腕を組んで立っているのは夫。
「……今まで、どこへ?」
色の無い言葉が誤魔化しを許さない。
「…………祈りを」
「こんな時間まで?」
麝君は疑いの眼差しを向けてきた。他に何がある、と反発しようとして悟る。
「まさかお前、私が誰ぞのところで
不貞をはたらく余裕などあるものかと吐き捨てれば、ずんずんと近づいてきつく腕を掴まれた。
「俺は遅くなるとは言ったが、帰らないとは言わなかった」
「いい加減、自分の機嫌くらい自分で取れるようになれよ」
そういう問題じゃない、とそのまま引っ張る。幕内に入った途端に
「お願いだ。心配させないでくれと何度言ったら分かる?俺をやきもきさせてそれを
憔悴した顔とは裏腹に手はせわしなく
「……やめて。疲れている。休ませてくれ」
首筋に吐息がかかり顔を背けた。動きが止まる。
「お前は、俺が嫌いか?」
「……好きあって一緒になったわけでもないだろう」
正直にしかしはっきりと言えば、やっと手を退いた。何を考えているのか分からない視線がじっと降りてきて、それから裸身を検分する。丹念に見ても
気を抜くと、不覚にも泣き出してしまいそうで悔しかったから。
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