一章



 右手と柄を固定した布は汗と浴びた血で湿った後、再び乾いてごわついている。もう片方の手も塞がっていたから、口で拘束をほどいた。しかし、解放しても手は開かない。そのまま粘ついて張りついていた。もう不快感も通り越して、ごく平然と刀身を逆の脇に挟み込み指を剥がし動くのを確認する。剣はそのまま棄てた。血脂ちあぶらがまわりきってもはや棒きれと変わらなかったからだ。

 あたりを感慨なく見回す。周囲に立っているのは自分だけだった。







 鋼兼ハガネを殺すのにはちょっとした技がいる。なにせ斬りかかっただけではまともに傷も付かない肉体を持つのだから、そう簡単に死ぬわけがない。こつは刺す、そしてそのまま捻ることだ。刺すのも容易ではないが一度皮下まで達すると今度は抜けにくいから、荷重をかけなおかつ内側を斬れば致命傷を与えることが出来る。そうしたら相手は血を吐いて死ぬ。問題はどこを狙うのかにかかっている。その時も素早く、体当たりするほど力を入れなければ鉄の肌を貫けない。腹、肋骨の間、もしくは後背、あるいは口や目などの皮膚で覆われていない部位。心臓か肺腑はいふに近いところのほうが殺すのは容易たやすい。


 だからこうして度々起こる衝突でも死者は少ないはずなのだ。今までもそうだった。そうして一戦交えれば相手も少しは溜飲を下げて落ち着くので、話し合いはそれからになる。だからこれは一種の祭、いつもの式次のようなものなのだ。


(それが――なんという)


 あまりの惨状に額を押さえた。おびただしいしかばねを信じられない思いで見回し、丘の上でただひとり立ち尽くしている後ろ姿に驚愕する。乾燥した凍風いてかぜになびくのは目に痛いほどの鮮やかな赤い髪。間違いなく己の妻。


可敦カトン


 駆け寄りながら呼び掛けると彼女は肩越しに横顔だけを向けた。射殺すような目付きに思わず足を止めたが、こちらも軽く睨む。

「やりすぎだ。ここまでする必要はなかった。どう弁明しようとも鑲黄じょうこう家の大人たいじんたちの糾弾は避けられないぞ」

「…………何を言っている。もう五回目だ。お前こそ、いい加減にしろ。当主のお前が力を示さず甘い対応をしているからいつまでも落ち着かない。……それに、水がないことには変わりない。ある程度食い扶持は減らしたほうがいい。だろう?」

 氷の言葉にますます目許を険しくする。

「だからといって、刹瑪シャマのお前がこんなことをしたと八馗はっき家じゅうに知れ渡ればまずいぞ。自らけがれを負ってなんとする。『祝穎ほさき』のお前がのろいを厚く纏えば神々からの幸が降りん。そうなれば一族はもっと悲惨な目に遭う」

柳仙りゅうせん。寝惚けたことを抜かすな。幸だと?刹瑪が食を断ち、血を吐いて祈り、骨の折れるまで舞っても神々は新たな鉱脈を与えてくれないではないか。だとすればなにかやり方が間違っているか、私にはもはや族霊ぞくれいの祝福をける力が無い。なら、身のきよさなど必要がない」

 言い切った手を掴む。「そうではない。そうではないよ。頼むから俺のもとに居てくれ。飛び出して行かないでくれ」

 妻は請願を拒絶するために握られた手を引き抜こうとする。それで阻止しようとさらに抱き寄せた。

「俺はお前が心配なだけだ。ただそれだけなんだ。お前が自ら剣を取って戦う必要などない。戦いは男に任せておきなさい」

「笑えもしない。男共の馬鹿な遊戯に付き合わされるこちらの身になれ。一戦剣を交えなければ落ち着いて話も出来ない愚か者たちが戦わぬ女に注がれた酒を飲んで苟且かりそめの平和を語るな。柳仙、私はな、お前はそんな奴らとは違い少しはマシかと思ったからつがいになってやったのだ。落ちぶれてくれるなよ」

 押し退けられながら夫は縋る目をした。

「そう呼ばないでくれ。お前に柳仙と呼ばれると突き放されているのが身に迫ってたまらなく悲しくなる」

 切実な声音に馬鹿馬鹿しくなり、遂に嘆息して脱力した。

「……分かった、麝君ジャクン。私を案じてくれているのは知っている。だがくっつかないでくれ。汚れてしまう」

 頷いた麝君はやっと抱いた腕を緩めたが、すかさず顎をとらえて口付けた。しかし、何も感じることなどない。閉じた瞼を眺めながら冴えた心地で思う。この男はただ自分の得たものを手放したくないだけだ。私というを縛って飾っておきたいだけだ。当主である己の伴侶は神に祝福された一族の宝で、それとちぎることが出来た自分もまた偉大なのだと思い込みたいだけのちんけでつまらない男だ。証に、自分のことは尊号ではなく名で呼べとせがむくせに、こちらの名を呼ぶことなど滅多にない。おそれ多いなどとほざきながら、その実、刹瑪の『祝穎』の女が可敦――当主の妻なのだと周囲に誇りたいがためなのだ。



 満足するまで愛妻の舌をねぶった麝君はもう一度抱きつき、ようやく視線を落とす。

「そのまむしは?」

 腕と同じほど太い身を捩らせている一匹はぐったりとしていたがまだ息があり毒牙から黒い汁を滴らせている。

「決まっているだろう」

 言い捨て、ではな、とさっさと離れる。

「今日は後片付けで遅くなる。待っていなくていい」

 夫の声にはもう振り向かず、分かった、と手を挙げ大股で丘を降りる。何人斬ったと思っている。もちろん先に寝させてもらうとも、と苦々しく心の中で罵倒しながら見えないように口を拭い、帰路の途で何度も唾を吐き、冬の枯れわだちの端にわずかに残っていた草を食んだ。



 そうして穹廬いえまで戻る。手早く蛇の首を落とし、絞り出したものを器に取り分け、帷帳とばりをめくって室内に入った。明かりのないなか、乾いた咳が数度聞こえ、横たわっていた影がこちらの気配に気がついて動いた。


「……母上。お帰りなさい」


 小さな影はまたひとつ危なげな息を吐きだし肘をつく。


「ただいま。熱はどうだ」

 このところ長子の何梅カバイは風邪をこじらせていた。油火を灯し、照らした額に手を当てる。まだ変に生温なまぬるい。

 小さな幼童は虚ろな眼を母親に向けた。

「のどが渇きました……」

「……飲め」

 しかし差し出されたものに怯える。

「い、いやだ」

「今日の分の水は朝に飲んでしまったろう。もう正藍せいらん家にも余りがない。我慢しろ」

 ほら、と縁をあてがうと泣きべそをかきながらこくりと一口だけ飲む。途端、せて膝にかじりついてきた。

「なまぐさい。いやだ。お水が飲みたい。母上、刹瑪の家からもらってきましょう?」

「だめだ」

「どうして。母上は『ほさき』なのに、どうして」

 だからだ、と唇を噛んだ。自分は刹瑪のひとりではあるが、今は当主の妻でもある。自分を理由に過分な要求をすればますます他家の反発をあおる。


 何梅はまた泣き出した。その涙すら舐め取ろうとする様子にたまらなくなり小さな頭を抱えこんだ。

「すまない、何梅。ごめんな、母さんに搬運はんうんが降りてこなくて、本当にごめんな…………」

 『祝穎』の自分に加護をたまわる力がないと知るや皆てのひらを返して攻撃した。まるで今まで敬った分を返せとでも言わんばかりに口々にののしり、侮った。もちろん、表立って言うわけはないが、奇跡の騂髪あかがみのくせにと言う声は何の関係もない娘まで巻き込んで誹謗を大にする。それは徐々に夫である当主にまで飛び火していた。







 幼い頃から巫師ふしつまり刹瑪の家で育てられ常に寿ことほがれた。祝福を呼び込む赤い髪、瑞祥ずいしょうの子だと騒がれるのを自分はなにか他人事のごとく感じていた。脳みそが沸騰しそうなほど膨大な祝詞のりとを覚えさせられ、倒れるまで舞を続け、古老から延々と一族伝来の古代文字の読み書きを叩き込まれた。努力すればするほど皆は自分を尊崇した。しかし大部分の民たちにとっては、それは容姿にるところが大きい。自覚はなかったが、一度も切らないままの稀有な髪は夜でも火と同じくらい輝いた。瑞々みずみずしく濡れた唇に若々しい桃のような産毛をきらめかせる頬は見る者を釘付けにし、たおやかな細腰に滑らかな白い手足は男たちの劣情を大いに煽り立てた。九つになる頃には将来の婚姻の依頼が殺到するようになり、八馗家の全ての名家が『祝穎』を得たいとむらがった。刹瑪に厳重に守られる奇跡の少女を一目見ようと集まる男たちと何度も遭遇した。夏の暑い日に野外でろくに脚も出せなかったのをよくおぼえている。


 それで守護の者たちは危機感を募らせた。このままいけば不届きな奴ばらが出てもおかしくはない。それならば誰も異議の出ないような者へ早々に嫁がせたほうが良いと判断したのだ。


 巫師の刹瑪は神との交信に特別に純潔を重んじはしない。そのこと自体で霊性が損なわれるわけではない。むしろ後継者を遺すことが優先されるのは他の家と同じで、だから『祝穎』を最も良い血と巡り合わせ伝えていかなければならないという考えは刹瑪にも共通の認識だった。

 早い時分から幾度となく伴侶について協議され、やはり一族の頂点に君臨する当主しかいないだろうと結論された。当時、すでに継承の為の『選定せんてい』が始まっており、次の王はその候補者から出ると予見された。


 つがいは次代当主しか有り得ないと明示され、冷やかしや勘違いするやからは減った。それで束の間の自由を得た。共に遊べる男は血の繋がりのある兄弟だけとしか許されていなかったけれども、それでも隠れて狩りをし、麋鹿しかに乗って草原を駆けるのは刹瑪の勉強よりずっと好きだった。薬草を採りに行くという口実で出掛け、鳥を落としてさばいて焚き火を囲んで食べた。領地の外の毒の川は汚かったけれど冷たくて気持ちよく、叱られないのをいいことにももまで浸かって遊んだ。


 そして、齢十三の年に突然、配偶が決まった。引き合わされたのは十ほど離れた男で、彼は婚前の内夫ないふ仕えですぐに刹瑪の家で働き始め、毎日顔を合わせるようになった。あと二年したらこの男に嫁ぐのかと思うと憂鬱だった。その彼、麝君は誰にでも鷹揚で人徳があったが、時おり何を考えているのか分からない顔をした。



 二年の間に一度だけ、麝君が腕に触れてきたことがある。故意だったのかは分からない。こちらは嫌悪と驚いたのも相まって思わず平手で打った。彼はすぐに謝り、家の者たちにも伏して詫びたが、あの瞬間の眼を今でも忘れることが出来ない。頬を張った直後、獣のように鋭い目つきで睨んできた未来の夫は獲物を食い荒らそうとでもするかのように興奮し情欲で燃え上がっていた。

 後にも先にも麝君がそんなかおをしたのはあの一瞬だけ。とんとん拍子に十五で夫婦めおとになり婚礼の夜に抱かれたが、乱暴な振る舞いはこれまで一度もされていない。






 自分はしとやかという言葉にはそぐわない癇性かんしょうがあるのは自覚があるから、力に物を言わせしいたげでもすればどうなるか分からないと思われているのかもしれなかったが、いずれにせよ麝君が伴侶の自分を高価な所有物としてしか見ていないのは明白だ。だから壊れては大事だと心配する。ただそれだけなのだ。


 彼は妻の祈祷が聞き届けられないことを何とも思っていないのだろうか、とぼんやりと考えた。頬杖をついて膝に広げた木牘ほんに目を落とす。なにか、鉱脈を見つける手がかりでも掴めればと窰洞ちかしつの書棚に出向いたが、それらしい記述はない。


 何梅を寝かしつけ側仕えに後を任せて、頻繁にこうして数少ない文献を漁りに来てはいるが、過去に浄水石脈が枯れたことはあれど、これほど新たな採掘地が見つからない年が続くことはなかったのだろう。目新しい先例はない。以前使っていた場所が枯渇してもう丸三年になる。その間、手を尽くして方々探しているが、渇きに耐えきれず各家で混乱が続いている。家畜は霧界むかいの水でも育つが乳の出は悪く人と同じく幼獣が育たず、水以外の食糧さえままならなくなってきた。すでに戦士たちが何度か泉地げかいへ遠征したが、それでも水を持ち帰るのは容易ではない。それに、一族全民をまかなえるわけもない。

 不満と焦燥で当主家の正藍家と他家で揉め事が増えている。余剰の浄水石の隠匿や強奪し合いによる争いはますます過激に、抑えるのが難しくなってきており、その裏で女子供と老人は干涸らびて次々に死んでいる。


 一年の半分は乾燥した冬、もう半分は刺すような陽射しの夏。残りの石を節約しながら毎日毒水をして供給はしているがこれも残り少ない。濾過した水は薬作りを担う刹瑪と鉱脈探しの限られた者たちに優先されるから、こちらにまわる分は雀の涙だ。

 男共はまだ放っておいてもいい。泉地に降りてたらふく水が飲めるのだから。問題は何梅のような幼い子供たちと死ぬまで領地の外へは出ない女と奴婢ぬひたちだ。先日、他家の下仕えたちが飢渇きかつに我慢ならず、思いあまって毒水を直に飲んだ。二日後には腹に虫がいて臓腑が腐り溶けて死んだ。このままでは同じようなことが起こる。一族は死に絶える。


「どうすればいい…………」


 そもそも、なぜ自分たちは水のないこんな北の大地に住みついたのか。歴史上の数々の争いのなかで民族どうしは潰し合い、け合い、移動し流れた。一体いつから一族はこんな不便な場所で生きるようになったのか。水を浄化する石の鉱脈だけをアテにして、こんな寒くて痩せた土地に根付くなんて、博奕ばくちを打つにしても勝ち目が無さすぎるにもほどがある。いつ来るともしれなかった絶望が今来ているのだ。父祖を怨まざるを得ない。こんな危険があることを薄々知っていただろうに、己たちが生きている間だけてばいい、死んだ後などどうでもいいと言うくらいになにものこしてくれなかった者たち。ただ先に生まれただけの役立たず共。


 くそが、と腹に熱い怒りを感じて書物を壁に投げつけた。塩の濃い涙が瞳にみて、落ち着け、と自分をなだめる。感情がたかぶっては余計に喉が渇くだけだ。深く息を吐いて立ち上がった。




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