一章
右手と柄を固定した布は汗と浴びた血で湿った後、再び乾いてごわついている。もう片方の手も塞がっていたから、口で拘束をほどいた。しかし、解放しても手は開かない。そのまま粘ついて張りついていた。もう不快感も通り越して、ごく平然と刀身を逆の脇に挟み込み指を剥がし動くのを確認する。剣はそのまま棄てた。
あたりを感慨なく見回す。周囲に立っているのは自分だけだった。
だからこうして度々起こる衝突でも死者は少ないはずなのだ。今までもそうだった。そうして一戦交えれば相手も少しは溜飲を下げて落ち着くので、話し合いはそれからになる。だからこれは一種の祭、いつもの式次のようなものなのだ。
(それが――なんという)
あまりの惨状に額を押さえた。
「
駆け寄りながら呼び掛けると彼女は肩越しに横顔だけを向けた。射殺すような目付きに思わず足を止めたが、こちらも軽く睨む。
「やりすぎだ。ここまでする必要はなかった。どう弁明しようとも
「…………何を言っている。もう五回目だ。お前こそ、いい加減にしろ。当主のお前が力を示さず甘い対応をしているからいつまでも落ち着かない。……それに、水がないことには変わりない。ある程度食い扶持は減らしたほうがいい。だろう?」
氷の言葉にますます目許を険しくする。
「だからといって、
「
言い切った手を掴む。「そうではない。そうではないよ。頼むから俺のもとに居てくれ。飛び出して行かないでくれ」
妻は請願を拒絶するために握られた手を引き抜こうとする。それで阻止しようとさらに抱き寄せた。
「俺はお前が心配なだけだ。ただそれだけなんだ。お前が自ら剣を取って戦う必要などない。戦いは男に任せておきなさい」
「笑えもしない。男共の馬鹿な遊戯に付き合わされるこちらの身になれ。一戦剣を交えなければ落ち着いて話も出来ない愚か者たちが戦わぬ女に注がれた酒を飲んで
押し
「そう呼ばないでくれ。お前に柳仙と呼ばれると突き放されているのが身に迫ってたまらなく悲しくなる」
切実な声音に馬鹿馬鹿しくなり、遂に嘆息して脱力した。
「……分かった、
頷いた麝君はやっと抱いた腕を緩めたが、すかさず顎をとらえて口付けた。しかし、何も感じることなどない。閉じた瞼を眺めながら冴えた心地で思う。この男はただ自分の得たものを手放したくないだけだ。私という特別を縛って飾っておきたいだけだ。当主である己の伴侶は神に祝福された一族の宝で、それと
満足するまで愛妻の舌をねぶった麝君はもう一度抱きつき、ようやく視線を落とす。
「その
腕と同じほど太い身を捩らせている一匹はぐったりとしていたがまだ息があり毒牙から黒い汁を滴らせている。
「決まっているだろう」
言い捨て、ではな、とさっさと離れる。
「今日は後片付けで遅くなる。待っていなくていい」
夫の声にはもう振り向かず、分かった、と手を挙げ大股で丘を降りる。何人斬ったと思っている。もちろん先に寝させてもらうとも、と苦々しく心の中で罵倒しながら見えないように口を拭い、帰路の途で何度も唾を吐き、冬の枯れ
そうして
「……母上。お帰りなさい」
小さな影はまたひとつ危なげな息を吐きだし肘をつく。
「ただいま。熱はどうだ」
このところ長子の
小さな幼童は虚ろな眼を母親に向けた。
「のどが渇きました……」
「……飲め」
しかし差し出されたものに怯える。
「い、いやだ」
「今日の分の水は朝に飲んでしまったろう。もう
ほら、と縁をあてがうと泣きべそをかきながらこくりと一口だけ飲む。途端、
「なまぐさい。いやだ。お水が飲みたい。母上、刹瑪の家からもらってきましょう?」
「だめだ」
「どうして。母上は『ほさき』なのに、どうして」
だからだ、と唇を噛んだ。自分は刹瑪のひとりではあるが、今は当主の妻でもある。自分を理由に過分な要求をすればますます他家の反発を
何梅はまた泣き出した。その涙すら舐め取ろうとする様子に
「すまない、何梅。ごめんな、母さんに
『祝穎』の自分に加護を
幼い頃から
それで守護の者たちは危機感を募らせた。このままいけば不届きな奴ばらが出てもおかしくはない。それならば誰も異議の出ないような者へ早々に嫁がせたほうが良いと判断したのだ。
巫師の刹瑪は神との交信に特別に純潔を重んじはしない。そのこと自体で霊性が損なわれるわけではない。むしろ後継者を遺すことが優先されるのは他の家と同じで、だから『祝穎』を最も良い血と巡り合わせ伝えていかなければならないという考えは刹瑪にも共通の認識だった。
早い時分から幾度となく伴侶について協議され、やはり一族の頂点に君臨する当主しかいないだろうと結論された。当時、すでに継承の為の『
そして、齢十三の年に突然、配偶が決まった。引き合わされたのは十ほど離れた男で、彼は婚前の
二年の間に一度だけ、麝君が腕に触れてきたことがある。故意だったのかは分からない。こちらは嫌悪と驚いたのも相まって思わず平手で打った。彼はすぐに謝り、家の者たちにも伏して詫びたが、あの瞬間の眼を今でも忘れることが出来ない。頬を張った直後、獣のように鋭い目つきで睨んできた未来の夫は獲物を食い荒らそうとでもするかのように興奮し情欲で燃え上がっていた。
後にも先にも麝君がそんな
自分は
彼は妻の祈祷が聞き届けられないことを何とも思っていないのだろうか、とぼんやりと考えた。頬杖をついて膝に広げた
何梅を寝かしつけ側仕えに後を任せて、頻繁にこうして数少ない文献を漁りに来てはいるが、過去に浄水石脈が枯れたことはあれど、これほど新たな採掘地が見つからない年が続くことはなかったのだろう。目新しい先例はない。以前使っていた場所が枯渇してもう丸三年になる。その間、手を尽くして方々探しているが、渇きに耐えきれず各家で混乱が続いている。家畜は
不満と焦燥で当主家の正藍家と他家で揉め事が増えている。余剰の浄水石の隠匿や強奪し合いによる争いはますます過激に、抑えるのが難しくなってきており、その裏で女子供と老人は干涸らびて次々に死んでいる。
一年の半分は乾燥した冬、もう半分は刺すような陽射しの夏。残りの石を節約しながら毎日毒水を
男共はまだ放っておいてもいい。泉地に降りてたらふく水が飲めるのだから。問題は何梅のような幼い子供たちと死ぬまで領地の外へは出ない女と
「どうすればいい…………」
そもそも、なぜ自分たちは水のないこんな北の大地に住みついたのか。歴史上の数々の争いのなかで民族どうしは潰し合い、
くそが、と腹に熱い怒りを感じて書物を壁に投げつけた。塩の濃い涙が瞳に
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