聖胎王母 上

合澤臣

序章



 ひどい耳鳴りがする。風はそれほど吹いていないはずなのに、びょうびょうと、鼓膜を突き破るほど不快なざらついた砂嵐が止まない。自分の荒い息遣い、早鐘の鼓動が頭にまで響いて痛む。粘つく汗は悪寒を生じさせ、呼吸の合間に干上がってかさついた喉奥でなんとか唾を飲み込んだ。


 殺気立った鋭い咆哮ほうこうが背後から襲う。それを振り向きもせず剣で叩き落とし、よろめきながら長い坂を登ってゆく。濃霧のなか霞んだ目で見えるのは自分の足だけ、抜き身の白刃を杖がわりに老婆のごとく背を曲げ、疲労で崩れそうな五体を叱咤して狭い隧道すいどうを進む。


 暗い。暗くて――寒い。しかしもう手を擦り合わせる余力もなく、満身創痍まんしんそういおのが身を引きずり道の先へと急いだ。


 やっと抜けた。飛び込んできた光景に絶句する。剣を取り落とし、ひりつく呼吸を繰り返しながら呆然と目をみはった。



 一面の赤。霧は晴れた。葉はひらひらと音もなく落ち、こんもりと大地をこれまた赤く染めている。赤い木々の頭上には虚夢のような青空が覗き、そこだけ切り取られたみたいに浮いてみえた。目を奪われつつ、幽鬼じみて歩を踏み出す。導かれる。真紅の森の、奥へ奥へと。


 周囲の木々が敬遠するかのように遠巻きにして、最奥には呆れるほど巨大なそびえていた。逞しい幹ははがね色に黒く、太い根はうねり地面から飛び出て何かの生物の化石のよう。同じほど空に張り伸ばした枝に大ぶりの赤い葉を豊かに繁らせ、そして奇妙なことに表皮は所々がえぐれめくれて丸まり、根に続くまでに固まっていた。剥がれた内皮には言葉が出ない。


 なんという禍々まがまがしさ。人の皮膚を切って開いた時と同じ、赤黒い血色の、毒々しいまでにせ返る生気を放っていた。


 霞む目を腕で拭い、その巨大樹の許まで辿り着いて頭を上げる。一目見た瞬間から分かった。これこそが探し求めていた唯一のもの。



「これが…………雄常ゆうじょう



 思わず触れれば不気味に温かい。自分の手が冷えすぎているせいでそう感じるのか。

 踏ん張っていた脚から力が抜け、その場にへたり込んだ。さらにゆっくりと頬を寄せる。疲れで朦朧としながら瞼を閉じ、大きく息を吸った。


 ――――生きている。


 やっとそう自覚し達成感に満ち溢れた。なんと卑しいことか。もうどうにでもなれと半ば自棄やけになって飛び出してきたというのに、こうして望みが得られた今となっては死ななくてよかったと安堵している滑稽な自分がいる。

 さらに両腕で掻き抱いてすがりつく。いいや、と内心首を振った。私はこうしてこれを見つけた。私は私に勝った。どれほど醜くとも、それが事実だ。


 しんと静まり返る赤い大地にしばらくそうして耳を澄ましていれば、かさ、と落ち葉を踏みしめる微かな音。聞き間違いかと頭をもたげ、振り返ろうとしたところで声がした。


「……これは驚いた」


 弾かれて臨戦態勢をとる。遅れてきた目眩めまいをまばたきで制し、音のあったほうを向いた。


 すぐに出処を突き止めた。赤い景色の中でただ一つだけ真っ白な影は長い衣を揺らして近づいてくる。


「……ひと…………?」


 いぶかる声が自分のと、相手のと同時に響き、数拍の間を置いて白いほうが噴き出した。

「どうやらそのようだ」

 顔は分からない。頭も体も全て覆われていて年格好さえ杳として知れない。ただ若々しいまろやかに低い声音で話しかけてきた。

「いったい、どこからここへ?」

 おそらくこちらのことも声からしか判断できないだろう。相手と同じく、自分もまた頭には毛帽を被り、顔を黒い蒙面布ふくめんで隠していたから。

「…………そういうお前は」

 警戒しつつ問い返せば安心したのかほっとして足を止めた。しばらくこちらを観察し、頭上を眺めた。

「これを?」

 お前も知っているのか、この樹が何なのか。暗にそう訊かれて返事に窮す。なんだこの得体の掴めない奴は。警戒して腰の短刀をおもむろに抜くと、おやおやと両手を挙げてみせた。

「落ち着いて。敵意も害意もない。どうやらひどい怪我をしているようだが、貸す手が必要かな」

 視線に思わずつられれば、衣は破れほつれて返り血と自身から出た同じものでずっしりと濡れそぼっていた。またひどい立ちくらみが襲った。蹈鞴たたらを踏んで幹に背を預け、肩で息をし、震える手でそれでも柄を握りしめる。


 まずい。力が抜ける。こいつは敵かもしれないのに。だめだ、意識を手放しては。そう念じたものの視界は急速に狭まり赤黒い闇に染まってゆく。呼びかけられたのが分かったが、なぜか最後に聞いたのは甲高い小童こどもの声だった。





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