三章
祭壇に隠されていた
横たわる彼女は来たか、と虚ろな眼を向ける。先日以来、このところますます冷え込んで衰弱が激しい。本人の言ったとおり、もうあまり時がない。
「……
「では、
「それを
それが一体どうしたというのか。深く息を吐き字面を眺める。
「思うに、この秘文は途中がごっそり抜け落ちている」
「……やはり、お前もそう考えたか。創世神話から始まるが、『選定』や謎の門の記述に至るまでの概要が
「とにかくこれを記した意図が分からない」
「……最後らへんは読んだのか」
「いちおう、目は通しましたが。これが一族を救うこととどう関係が?」
するとこちらを見つめて指を立てた。
「
「呪詛……?」
「泉の国を
顎に手を当てて考える。
「こほつ……」
「こほつ、は
瞬き、頭の中で語彙を探す。埒があかず書き出し、しばらくかかってやっと意味の分かる具合になった。
「……なるほど、…………
「何か、はもう分かっているはずだ。つまりはこの状況を変える方法がある、ということ。そのひとつが……『選定』だ」
「では『選定』とはただ単に当主を決める為の通過儀礼などではないと?通過者には、もっと壮大な役割があるということですか」
おそらくはな、と頷かれた。「秘文の後半には
宙で揺れる
「『
興奮して立ち上がった。
「浄化、出来るのですか⁉この毒の地を⁉」
「言い伝えはそれを示す。しかしあまりに情報が少ない。まるで砕けた玻璃の破片のようで繋がらない」
紙を破る勢いでめくり、一節を示す。
「この、
「ただの
「
「大巫。私を鉱脈探索のひとりに加えるよう
「お前がそこまでする必要は無い」
「あります。『
この姿で生まれた以上、皆を失望させたままにするわけにはいかない。
それに、と腹を押さえた。「また子が出来たら、身動きが取れなくなる」
大巫は目を細めた。
「柳仙の
下げた頭を
「己を
不安の日々でいかに無力であるかを感じない時はない。だが卑屈になり自らを憐憫し慰めたところで何も変わりはしない。だから、
予想通り
毅然と正面を見つめていれば麝君は困り果てた顔をしている。だがその目許は絶え間なく
一族において当主の
「何でも試してみるべきです!可敦ご自身がそう
「可敦は刹瑪で、薬の知識もあります。草や土の微妙な違いや匂いもお分かりになる」
「これまでどれほど祈祷しても恵みは降りてこなかったのに、今さら可敦が
「しかしやってみて損はない!」
なおも麝君は腕を組んで首を振る。「とてもではないがそんな不確かな探索に送り出すことはできない」
「柳仙さま。言わせていただきますがあなたはいつも言を曖昧にするだけで何も決めて下さらない。ご自分の
なかなかに不躾な物言いに周囲はさすがにまずい、と顔を見合わせて発言した若者を見る。
「それに、不確かな探索と申されますが、ではどのように
よく陽に灼けた顔が歪む。麝君はそれでも居丈高に睨んだ。
「なにか探し方が
「一度も視察に来ておられないあなたに何が分かるというのか!」
「当主を責めるのはやめよ、
大人のひとりが
「この者はなにも間違ったことを言うてはおらん。ではなにか代替案がおありか。可敦は我らの大事な『祝穎』には違いない、だが
「可敦を侮辱するのは俺が許さん!」
ついに麝君は声を荒らげたが、他ならぬ本人が手を挙げたために場は水を打ったように静まり返った。
そのまま額を隠し、それから
「柳仙。私が代替案だ。どうかお願い申す。このままでは一族が消える。私も自らの足で稼いで役に立ちたい」
「探索隊を増やせばそれだけ貯水が減るのも事実なのだぞ」
「もとより承知。だが他に策もない。私に皆の
じっと見交わすあいだ、麝君は眉根を寄せて視線を逸らさなかったが、一度怯んだように揺らぎ、やがて盛大に溜息を吐いた。
「…………一年だ。それ以上は断じて許さない」
「感謝する。必ず」
頭を垂れて
「可敦さま」
散会して群衆が去っていく人混みのなかで、ひとりの若者がその場に膝をついて見上げてきた。
「お前はさっきの……」
額を両手で隠す。
「
「楽にしろ。お前は探索隊の
「左様です。可敦、感謝いたします。
「あまり期待はするな。この三年、私は役立たずの赤毛で通っているんだぞ」
自嘲してみせれば儞爾は憤然と顔を上げた。「ご自身を
「ああ。頼んだ」
まだ伸びきっていない背を見送っていれば、今度は夫に呼ばれた。「来てくれ」
無言で
「よくも勝手をしてくれたね!会議で言う前になぜ俺に相談しない!」
「お前に言えば握り潰しただろう」
当たり前だ、と激しく首を振った。「よりによって探索隊に加わるなど!分かっているのか、霧界には人を襲う妖だっているんだぞ。もしお前に何かあっては目も当てられん!」
「柳仙、落ち着け」
「これが落ち着いてなどいられるか!」
唾を飛ばしてがなり、はっと我に返って眉尻を下げた。思い詰めた苦吟の顔で俯く。
「お前が強いのは知っている。剣を振るうことに迷いがないのも、薬の知識があるのも分かっている。しかしだ、お前は戦士ではない。俺にとっては守らなければならない宝なんだよ」
「私に言い寄る奴は皆そう言う」
冴えた調子で返すと麝君は固く目を
「お前が俺を好かないのはどうしようもない。だが俺のほうは一目見た時から慕っている。常に傍に置かねばどうにかなってしまいそうなくらいに好いている」
「がんじがらめに身動きできなくして飾っておきたいか」
苦々しく腕を払い除けようとしたが、手首を捕らえられた。
「離せ」
「……叶うなら、俺だってそうしたい」
酷薄の響きに逸らしていた目を直視すれば、彼はあの何を考えているのか分からない不気味な顔で見下ろしてきた。思わず生唾を飲み込み、だが負けじと果敢に睨み返す。
「……お前の
『選定』を終えた当主は一頭の獣を隷下に置く。麝君は虎に似た妖を従えていた。しかし顔色を変えないまま否、と答えた。
「なぜ」
「半月後にまた遠征する。なるべく多く泉水を持って帰るから、荷運びと警固に狛は欠かしたくない」
「……そうか」
肩を落とすと、やっと力も緩んだ。やんわりと抱き寄せられて頭を撫でられる。
「いいね、一年だぞ。鉱脈が見つからなくても見つかりそうでも、絶対に一年後からは二度と家から出さないからな」
願望の滲み出た念押しに、その先を想像してぞっと肌が粟立った。残された自由の時はたった一年。一年で、自分に何が出来るのか。
鬱々と娘の天幕まで行くと何梅はまたぐずっていた。
「母上、たびに出てしまうの?」
抱え上げた幼子は歳のわりに危うさを感じるくらい軽い。背を叩きながら大丈夫だ、とあやした。
「母さんのいないあいだ妹たちを頼むよ。まだうまく喋れないからな」
「いつ帰るのですか」
どうだろう、と宙を見た。「帰れたら、ひと月に一回くらいは」
そんなに少ないの、とさらにべそをかく娘の涙を拭い、温もりを忘れないように黒い頭を抱き締めた。
たとえ今、自分が命を落としても何梅たち娘らが繋ぐ限り自分の血は生き続ける。おそらくこの先も『祝穎』は生まれ、その者も自分と同じように生活に不自由はないが心は不自由なまま、何かを掛け違えたような
自分が不幸だと思ったことはなかった。むしろこの姿で生まれ落ちただけで権威を持ち、力ある夫と愛すべき子供がいて、敬愛してくれる仲間に囲まれとても幸せなのだろう。しかしこれまでの自分の境遇に気持ち悪さは拭えない。
所詮は無い物ねだりか、と風の吹く夜空を見上げる。もう一人の自分が独り歩きしている人生。思えば、と立ち止まる。領地を出たいなど、生まれて初めてこれほど自分勝手な我儘を言った気がする。しかも実を結ぶかどうかも分からない賭けだ。
急に怖くなった。些細な抵抗がもしかしたら大きな厄災を呼び込まないかと怯えて腕を
目的は、鉱脈。そして、
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます