三章



 祭壇に隠されていた秘笈ひきゅうを読み進めると同時に、頻繁に大巫のもとへ訪れるようになっていた。その間に娘たちを預けておけば一杯だけでも水を与えてくれる。それにどのみち何梅カバイは刹瑪にする予定の子だから、今から馴れさせておくに越したことはない。これは決して抜けがけではない、と自分を納得させつつ人払いを頼み、寝ている古老の傍で脚を組む。持ち込んだ襤褸紙ぼろがみの束を開いた。


 横たわる彼女は来たか、と虚ろな眼を向ける。先日以来、このところますます冷え込んで衰弱が激しい。本人の言ったとおり、もうあまり時がない。


「……麒麟きりんとは、おそらく当主のことを指すものと儂は思う。もしくは、『選定』を経た者が天からる力」

「では、儔儻ともがらというのは」

「それをよとあるのであれば、『選定』においてちぎる獣のことであろうな」

 それが一体どうしたというのか。深く息を吐き字面を眺める。

「思うに、この秘文は途中がごっそり抜け落ちている」

「……やはり、お前もそう考えたか。創世神話から始まるが、『選定』や謎の門の記述に至るまでの概要が散佚さんいつしている」

「とにかくこれを記した意図が分からない」

「……最後らへんは読んだのか」

「いちおう、目は通しましたが。これが一族を救うこととどう関係が?」

 するとこちらを見つめて指を立てた。

祝詞のりとを思い出してみなさい。今では意味もわからずとなえているが、あれはよくよく考えれば詞藻うたではなく……呪詛じゅそなのだ」

「呪詛……?」

「泉の国をうらむ詩だ。例えば『こほつえとノないり』『かひこのあらぬよヲはなつ』」

 顎に手を当てて考える。

「こほつ……」

「こほつ、はこぼつ」


 瞬き、頭の中で語彙を探す。埒があかず書き出し、しばらくかかってやっと意味の分かる具合になった。


「……なるほど、…………穢土このよ泥黎じごく毀壊こわし、から黄泉せかいを解放する?であれば、我々には大泉地を壊さなければならない何らかの理由があるということですか」

「何か、はもう分かっているはずだ。つまりはこの状況を変える方法がある、ということ。そのひとつが……『選定』だ」

「では『選定』とはただ単に当主を決める為の通過儀礼などではないと?通過者には、もっと壮大な役割があるということですか」

 おそらくはな、と頷かれた。「秘文の後半には解鎖かいさ鎖定さていのことがある。どこかにある門を、開くか、閉じるかすれば道が現れると。それに必要なのが麒麟の子」

 宙で揺れるいびつに曲がった指先を凝視した。「つまり……『選定』に通れば、寰宇せかいを解放する力を持つと、そう言っているのですか。それは、祝詞によれば壊すこと。壊すとは、では……」

「『かひこ黄泉あらぬよ』が由霧ゆうむで囲われたこの世界全てなのだとすれば、殻を破るという意味は毒の霧を晴らす……浄化だ」

 興奮して立ち上がった。

「浄化、出来るのですか⁉この毒の地を⁉」

「言い伝えはそれを示す。しかしあまりに情報が少ない。まるで砕けた玻璃の破片のようで繋がらない」


 紙を破る勢いでめくり、一節を示す。


「この、あかもりという場所へ行けば何か手掛かりが掴めるでしょうか。北の山中、神の庭のほとりであると。もし書いてあることが真実なら、ここも存在するということですね?」

「ただのたとえでなければ、あるいは」

雄常ゆうじょうには忌むべきふくと祝うべきるとありますがなにか我々の益になりましょうか。生ると言うからには雄常とは果樹の類か。わざわざ記してあるということは探す価値はありますね?」


 老媼ろうおうはただ首を振るばかりだったが、何かアテを得た気がして腹の底から生気が盛り上がるのを感じた。正直、何でもいいからすがりたかった。この状況から抜け出せる希望が塵一つでもあるのなら命を懸ける覚悟はある。


「大巫。私を鉱脈探索のひとりに加えるようすすめてください。探す傍らもっと北に赴き、雄常を見つけ出します」

「お前がそこまでする必要は無い」

「あります。『祝穎ほさき』として何不自由なく育てられ、可敦でもある私がこのまま役立たずとあっては石打ちにされても文句は言えない」

 この姿で生まれた以上、皆を失望させたままにするわけにはいかない。

 それに、と腹を押さえた。「また子が出来たら、身動きが取れなくなる」

 大巫は目を細めた。

「柳仙の悋気りんきは少しばかり倒錯していて厄介だな。…………よかろう。大会議にて今一度お前の天運に賭けるべきと提案してみよう」

 下げた頭をしぼんだ手でゆっくりと撫でられた。

「己をいとうことだけはするな。お前はただここにいるだけで我々の光なのだから」

 不安の日々でいかに無力であるかを感じない時はない。だが卑屈になり自らを憐憫し慰めたところで何も変わりはしない。だから、、と歯の間から声を絞り出し、義母のてのひらを感じることに集中した。





 予想通り可敦つまが探索隊に加わることに当主おっとである麝君は猛反対したが、事は一刻を争う。このまま鉱脈を見つけ出せなければ一族は滅亡する。はじめは飢餓など夢物語よ、と鼻で笑っていた者たちも自分の妻や子が干涸らびて死んでいくのを目の当たりにしてそんな冗談も言えなくなった。皆、絶望が現実味を帯び、近づいてくる終末の跫音あしおと戦慄おののき、藁をもすがる思いでわずかな可能性の残る赫髪かくはつの女を見た。


 毅然と正面を見つめていれば麝君は困り果てた顔をしている。だがその目許は絶え間なく痙攣けいれんしていて内心は今にも爆発するほど怒っている。おそらく帰ったらまた懇願の嵐だ。しかし、そんなものには怖じけない。


 一族において当主のめいは絶対だ。しかし全員の生命に関わる決定となると臣下といえ黙ってはいない。決して許可しない主と大人たいじんたちの間で怒号が飛び交い、大天幕の中は喧噪が満ちた。


「何でも試してみるべきです!可敦ご自身がそうおっしゃっておられるのならなおさら!」

「可敦は刹瑪で、薬の知識もあります。草や土の微妙な違いや匂いもお分かりになる」

「これまでどれほど祈祷しても恵みは降りてこなかったのに、今さら可敦が霧界むかい彷徨さまよい歩いて鉱脈を見つけられるとでも?」

「しかしやってみて損はない!」

 なおも麝君は腕を組んで首を振る。「とてもではないがそんな不確かな探索に送り出すことはできない」

「柳仙さま。言わせていただきますがあなたはいつも言を曖昧にするだけで何も決めて下さらない。ご自分のさいが身をなげうって一族の為に尽くそうと言うのに背を押しもせずに否定ばかりを繰り返すのですか」


 なかなかに不躾な物言いに周囲はさすがにまずい、と顔を見合わせて発言した若者を見る。


「それに、不確かな探索と申されますが、ではどのように麦飯石ばくはんせきを探せば良いのか探索隊にご教示願います。我らも馬鹿ではない。以前の鉱脈筋を辿って八方に掘り進め、土の色や生える草木をもとに少しでも手がかりを掴もうと必死です。家族が飲む分の水まで謝りながら持ち出し、滅多に領地に帰らず働いているのですよ、もう三年間も‼」

 よく陽に灼けた顔が歪む。麝君はそれでも居丈高に睨んだ。

「なにか探し方が杜撰ずさんなのではないか。それほど見つからないのなら、検討外れの場所を掘っているとか」

「一度も視察に来ておられないあなたに何が分かるというのか!」

「当主を責めるのはやめよ、小童こわっぱ。礼儀がなってない」

 大人のひとりがいさめたが、別のもうひとりがすかさず弁護する。

「この者はなにも間違ったことを言うてはおらん。ではなにか代替案がおありか。可敦は我らの大事な『祝穎』には違いない、だが先視さきみの霊が降りない以上は正直このまま無為にたてまつっていても埒があかない」

「可敦を侮辱するのは俺が許さん!」

 ついに麝君は声を荒らげたが、他ならぬ本人が手を挙げたために場は水を打ったように静まり返った。


 そのまま額を隠し、それから拱手きょうしゅする。

「柳仙。私が代替案だ。どうかお願い申す。このままでは一族が消える。私も自らの足で稼いで役に立ちたい」

「探索隊を増やせばそれだけ貯水が減るのも事実なのだぞ」

「もとより承知。だが他に策もない。私に皆の生命いのちを預けろなどとは逆さになっても言えはしないが、私はただおのが務めを果たしたいだけだ」

 じっと見交わすあいだ、麝君は眉根を寄せて視線を逸らさなかったが、一度怯んだように揺らぎ、やがて盛大に溜息を吐いた。

「…………一年だ。それ以上は断じて許さない」

「感謝する。必ず」

 頭を垂れてぬかづくと、周囲は沸き立ってどよめいた。





「可敦さま」

 散会して群衆が去っていく人混みのなかで、ひとりの若者がその場に膝をついて見上げてきた。

「お前はさっきの……」

 額を両手で隠す。

八馗はっき鑲藍じょうらん家、宣毛センモウ俟斤しきんの十男で儞爾ニルと申します」

「楽にしろ。お前は探索隊の面子めんつだな?」

「左様です。可敦、感謝いたします。騂髪せいはつの君がご助力下さるのなら、きっと恵みが与えられます」

「あまり期待はするな。この三年、私は役立たずの赤毛で通っているんだぞ」

 自嘲してみせれば儞爾は憤然と顔を上げた。「ご自身をおとしめるのは良くありません。加護が去ります。出発のおりには現在の掘削地へと私めがご案内申し上げますので以後お見知り置きを」

「ああ。頼んだ」

 まだ伸びきっていない背を見送っていれば、今度は夫に呼ばれた。「来てくれ」


 無言で穹廬いえまで帰ってくるやいなや両肩を掴まれ揺すられる。

「よくも勝手をしてくれたね!会議で言う前になぜ俺に相談しない!」

「お前に言えば握り潰しただろう」

 当たり前だ、と激しく首を振った。「よりによって探索隊に加わるなど!分かっているのか、霧界には人を襲う妖だっているんだぞ。もしお前に何かあっては目も当てられん!」

「柳仙、落ち着け」

「これが落ち着いてなどいられるか!」

 唾を飛ばしてがなり、はっと我に返って眉尻を下げた。思い詰めた苦吟の顔で俯く。

「お前が強いのは知っている。剣を振るうことに迷いがないのも、薬の知識があるのも分かっている。しかしだ、お前は戦士ではない。俺にとっては守らなければならない宝なんだよ」

「私に言い寄る奴は皆そう言う」

 冴えた調子で返すと麝君は固く目をつむる。

「お前が俺を好かないのはどうしようもない。だが俺のほうは一目見た時から慕っている。常に傍に置かねばどうにかなってしまいそうなくらいに好いている」

「がんじがらめに身動きできなくして飾っておきたいか」


 苦々しく腕を払い除けようとしたが、手首を捕らえられた。

「離せ」

「……叶うなら、俺だってそうしたい」

 酷薄の響きに逸らしていた目を直視すれば、彼はあの何を考えているのか分からない不気味な顔で見下ろしてきた。思わず生唾を飲み込み、だが負けじと果敢に睨み返す。

「……お前のハクを貸してくれ。何かの役には立つ」


『選定』を終えた当主は一頭の獣を隷下に置く。麝君は虎に似た妖を従えていた。しかし顔色を変えないまま否、と答えた。


「なぜ」

「半月後にまた遠征する。なるべく多く泉水を持って帰るから、荷運びと警固に狛は欠かしたくない」

「……そうか」

 肩を落とすと、やっと力も緩んだ。やんわりと抱き寄せられて頭を撫でられる。

「いいね、一年だぞ。鉱脈が見つからなくても見つかりそうでも、絶対に一年後からは二度と家から出さないからな」

 願望の滲み出た念押しに、その先を想像してぞっと肌が粟立った。残された自由の時はたった一年。一年で、自分に何が出来るのか。





 鬱々と娘の天幕まで行くと何梅はまたぐずっていた。

「母上、に出てしまうの?」

 抱え上げた幼子は歳のわりに危うさを感じるくらい軽い。背を叩きながら大丈夫だ、とあやした。

「母さんのいないあいだ妹たちを頼むよ。まだうまく喋れないからな」

「いつ帰るのですか」

 どうだろう、と宙を見た。「帰れたら、ひと月に一回くらいは」

 そんなに少ないの、とさらにべそをかく娘の涙を拭い、温もりを忘れないように黒い頭を抱き締めた。


 たとえ今、自分が命を落としても何梅たち娘らが繋ぐ限り自分の血は生き続ける。おそらくこの先も『祝穎』は生まれ、その者も自分と同じように生活に不自由はないが心は不自由なまま、何かを掛け違えたようなしこりを抱えながら生きてゆく。


 自分が不幸だと思ったことはなかった。むしろこの姿で生まれ落ちただけで権威を持ち、力ある夫と愛すべき子供がいて、敬愛してくれる仲間に囲まれとても幸せなのだろう。しかしこれまでの自分の境遇に気持ち悪さは拭えない。へその緒も切らないうちから不必要なほど丁重な扱いを受け、特別に取り分けられた者として、それに伴う過分な修練を積んだ。自分は別にちやほやしてほしかったわけではない。ただ出来るなら、他の子と共に野を駆け回り、噂話に花を咲かせ、自然と恋い慕う者を定めて皆と同じように育ってみたかった。



 所詮は無い物ねだりか、と風の吹く夜空を見上げる。もう一人の自分が独り歩きしている人生。思えば、と立ち止まる。領地を出たいなど、生まれて初めてこれほど自分勝手な我儘を言った気がする。しかも実を結ぶかどうかも分からない賭けだ。


 急に怖くなった。些細な抵抗がもしかしたら大きな厄災を呼び込まないかと怯えて腕をさすった。深く息を吸い込み、今一度腹を括る。どのみち、成果を得て凱旋しても無駄足を引きずって逃げ帰って来ても、麝君は今後一切、こちらの要求を聞いてはくれない。文字通り家に閉じ込められて愛玩物として一生を終えることになるかもしれない。どうせ運命が決まっているのなら、あれこれと心配しなくてもいい。

 目的は、鉱脈。そして、あかもり。ただそれだけだ。




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