四章



 女の服では動きづらい。生家に寄って兄の古着を拝借した。探索隊の今現在の拠点は夏の遷住地すみかよりもっと北の山岳地帯だと聞いたから、身の丈も大きいが暖かいに越したことはない。

「本当に行くのか」「無茶はだめですよ」

 心配する兄夫婦に盃をもらっていると、駆けつけた弟が安全祈願の祝詞を唱え、額に護字ごじをなぞってくれた。こちらは髪を切り取る。差し出したひと房を恭しく戴いた二人は昔から遊び相手になってくれた数少ない男たちで、夫と違い周囲の意見に振り回されない頼りになる兄弟だ。

「私に何かあれば、娘たちを頼みます」

「任せておけ。こちらのことは何一つ心配しなくていい」

搬運はんうんを。族霊ぞくれいの加護があらんことを」


 騎獣である麋鹿おおじかは出産したばかりのものにした。まだ乳が出るから、石と水の節約になる。

 麝君は妻が他の男の衣を着ていることに嫉妬してこの日も気を逆立てていた。くだらない、と密かに息を吐く。別れの時でさえ己のことしか考えられないのか。

 さらには腹心の麾下ぶかを付けられた。不要だとごねたが頑として譲ってくれなかった。まるで主の生き写しのような性格の男は名を伽南カナン、護衛ではなく監視役だと隠そうともしない態度が気に入らなかった。


 夫にくどくどと引き止める言葉を並べ立てられていればあの儞爾といった少年が迎えに来て、それで人々に見送られ領地を後にした。紫の霧濃い山道を少しばかり登り、高台で一度振り返る。

「どうしました?」

 先を行く儞爾に尋ねられ、いいや、と呟く。

「小さいなと思って」

 今は冬だから南の領地、こちらのほうが泉地に近いため春の移動までに何度か遠征するとは聞いていた。見下ろした集落は山峰に埋もれてしまいそうなほど矮小な、毒霧のわずかな裂け目。

「このままだと、もっと小さくなってしまいますね」

 ぽつりと呟いて悲しげに首を振った。

「まさか、いきなり石が採れなくなるなんて誰が思ったでしょう。ぼくたちは、ただ生きているだけなのに、なにがいけなかったんでしょう」

 さてな、と顔を進行方向に戻した。「お前、家族は?」

「まだ伴侶は得ていません。兄が三人と妹が一人生き残っています。兄たちは半月後の遠征に」

「……そうか」

 遠征はただ水をって来るだけではない。泉人と剣を交え食糧も運ばなければならない。鋼兼ハガネの戦士たちは屈強といえど全く死者が出ないわけではない。

「ご両親はさぞ心配しているだろう。末息子までこんな危険な任務に駆り出されて」

「そうでもないですよ。ぼくは穀潰しですから」

 朗らかに言った顔はしかしくらいままだった。



 探索地まで辿り着くのに半月かかった。その間、伽南とは口も利かなかったが儞爾とは打ち解けた。彼は間違いなく戦士の一だったが、幼い頃は薬師になりたくて独学で学んでいたのだという。そのせいか薬草や水、天候についての知識が豊富で共に話していて飽きない少年だった。


藤麹とうぎくは汎用性の高い謎の泥です」


 木の根元に溜まった茶紫のそれを掻き混ぜ、粘つく棒を引き上げてみせた。

「ああ。知っている。霧界じゅうにあるよな。きのこみたいに木に生えているかたちのものもある」

「なぜそれも藤麹だと分かるのですか」

「色と、匂いだ。きつくはないが不思議な匂いがある。刹瑪シャマはおもに醸菫水じょうきんすいを作るのに使う」

「それは?」

「由霧に耐えられない者たちが飲む薬水だ。不思議なことに、藤麹はきちんと使えば薬になるんだ。下仕えたちの先祖はもともと泉人で由歩ゆうほじゃない奴も多い。春秋の移動の時に飲ませないと体を悪くする」

 初めて聞いたのだろう、へえ、と儞爾は目を丸くした。

「乾燥させて飼い葉に混ぜるくらいしか知りませんでした」

「私たちには必要ないからな」

 ですねえ、と粘液のまま麋鹿しかに食べさせる。獣は本来霧界の生物だ。ここの水や食物に毒として影響を受けるのは人だけだ。

「泉人なんて刃先で撫でればすぐに死ぬる弱い種族よ」

 黙って周囲を警戒していた伽南はきたならしく唾を吐きながら鼻を鳴らした。「少し爪を立てれば薄皮が裂けて血が出る。殺すのは蟻より容易い」

「伽南哥哥かかは泉地に降りたことが?どんなところですか?」

 人付き合いもそつのない儞爾のおかげで空気が険悪にならずに済む。

 そちらも気を良くして顎をさすった。「食い物は沢山あって美味いな。水も毎日浴びれるほど流れてる。だが女はいまいちだ。強く抱きすぎるとすぐ死ぬからな。加減が難しい」

 続けようとしたが顔をしかめた可敦に気がつき、肩を竦めてみせた。

「遠征では正当な取り分です。この三年で奴婢も随分死んだから、柳仙は今回女子供も連れ帰ってくる予定ですよ」


 連れ帰るというのはつまり拉致だ。それもあってハクを貸してくれなかったのか、と唇を噛んだ。狛がいれば不能渡わたれずの奴隷に高価な醸菫水を与えなくても、傷まないうちに領地まで運んで来れるからだ。水についてはやむを得ないと思える。だが人は。


「……貴様の話はいちいち不快だ」

 事実を言っているだけなのに、と伽南は儞爾に同意を求めた。曖昧に頷いた少年は離れた背に追い縋る。

「可敦さま。あなただって余るほど婢女はしためをお持ちではないですか。下仕えは元々はすべて泉人です」

「分かっている」

「奴婢にしたからといって家畜のような扱いをしているわけじゃない。家族として食べ物や水を分け合っています」

「だが八馗家内では物のように売り買いするしきつい仕事をさせる」

「あなたもその恩恵を受けてきたでしょう?文句が言えますか」

 言に詰まって見返せば静かな瞳がある。

「一族では当たり前のことです。あなたが着る錦繍ぬいとり領袍きものも、頭を飾る金鏁くさりも、すべては彼らが作るものです。それを横目でずっと見てきたではないですか。大変そうだなあとは思っても手伝ったりはしなかったはずです。なぜなら、ぼくたちの務めではないから」

 今さらなにか咎めを感じるのですか、と幼さの残るかおは問いかけてきた。

「遠征とはそういう益のあることですよ。戦士には箔も付く。ぼくの兄たちも武勇伝ならいくらでも持っています。何人分耳を削いだとか、いくつこめぐらを暴いたとか、どれほど美人を犯したとか」

「やめろ」

「ぼくらは、そうしないと死んでしまうんです。優しいだけでは生きていけない。弱くてはいけないんです」

 額を押さえた。聞きたくなかったことが一気に流れ込んできて気分が悪かった。


 所詮自分は誰かの犠牲の上でのうのうと生きてきただけなのだと、頭のどこかでは分かってはいても、心の奥深くには入れないままに他人事として流していた。戦士たちには初めから罪悪感などない。彼らの戦いが一族の益となり恵みをもたらすのだから、称えられることはあれど後ろ指差される所以ゆえんなどあろうか。そう、当たり前のことだ。


 まさか、と儞爾の容貌がこちらの気持ちを悟って微妙に変化した。

「可敦さまは、伽南哥哥や兄たちのしていることを、『悪いこと』だと?」

 当主の所業も。図星を突かれてどきりと心臓が跳ねた。しぜんと後ろめたく感じた。なんとなく目を合わせられず、かと言って上手い言い繕いも出来ずにいれば、問うてきたほうはどういう気持ちなのか微笑んだ。

「泉人を『可哀想』だと、お思いになっている?」

「………多少は。あれらも家族と引き離されてここへ来るのだから、やはり不憫だ」

 そうですか、と彼は笑んだまま俯き、それから話を切り上げ、さて、と息を吐いた。

「戻りましょう。伽南哥哥が柳仙さまに余計な伝鷹とりを飛ばさないように見張っておかなくちゃ。それにごはんをつくらないと」

 不思議な少年だと瞬いて首を傾げた。

「お前は、なんだか変だ」

 言えば噴き出した。「可敦さまも変わっておられます。あ、いえ、失礼、悪い意味ではないです。ただ、ぼくが思っていたよりずっと良い方です」

 儞爾はさらに穏やかに笑ってみせた。



 予定通りの日数で探索隊と合流した。人員は男ばかりで儞爾を入れてちょうど二十四人、各八馗家から三人ずつの割合だ。

 部隊長は当主直轄である正藍せいらん家出身のよく見知った男だ。隼蜂シュンポウという。大柄だが動きは機敏な偉丈夫で弓射の腕も確かなのを知っている。


「まさか可敦が来るとはな」

 からりと笑ったのにほっと息を吐いた。

「久しいな。調子はどうだ」

「どうもこうも、土塊つちくればかりで。アテにしてるぜ、俺たちのいわいを」

 冗談めいて言ってくれるおかげで苦笑できる。

「隼蜂、ひとまず今まで使っていた鉱脈へ行ってみたいんだが」

「ああ、いいぜ。そんなに遠くねえ。ここなら一日で戻れる距離だから荷は置いてきな。さみいから、着れるだけ着て………」

 当たり前のように共に行く準備をしはじめた伽南を見て隼蜂は眉をひそめた。遠慮なくこちらの肘を小突く。

「おいおい嬢ちゃんよ、めんどくさい奴を連れて来てくれたな」

「私だって迷惑している」

「せっかく旦那がいなくて羽を伸ばせると思ったのに、目付けがいるとは残念なこった」

 小声で茶化したのに馬鹿言え、と笑みがこぼれた。おそらく領地でこんな距離で話していたらすぐに麝君が飛んでくる。

「まあ、あんたは別嬪べっぴんだからなあ、心配なのは分かるが。にしたって小せえ男だぜ」

 他人が言ってくれると胸のすく思いがする。伽南のせいで余計に溜まった鬱憤が消えていくようだった。口角を上げてもっと言え、と満面の笑顔で視線を投げたが、何故かそれにはかぶりを振られた。

「可敦、あんまりそういう目はすんな。お前さんは自覚が足りん。男ってのは下心しかねえんだよ、俺だってそうだ。あんたみたいに妙にきつける女はおれたちの間じゃ喜子くものこって呼ぶんだ」

「どういう意味だ?」

「いちど手の内に入ったら骨抜きにされるってことだ。柳仙のようにな」

「なにか、ふしだらに見えるか?」

「男はみんない女が好きだ。あんたにその気がなくても勘違いするやつは多いってこった。おぼえがあるだろ、無闇やたらに笑いかけるな。これは心配して言ってる」

 指を突きつけられてそんなものか、と首を傾げた。

「だが、私はお前だから気安くおれるんだ」

 誰にでも愛想を振り撒いているわけではない。

「買いかぶられたもんだ。柳仙が聞いたら斬り殺される」

「……たしかにたまに変な願いをしてくる奴はいるが」

「どんな?」

「切った爪を寄越せとか」

 気持ちわる、と隼蜂は手を振った。「変態は放っておけ。絶対に相手にすんなよ。嬢ちゃんは巣の中で育ったからなあ、俺らからしたらちょっとばかしズレてるんだよ」

 そうかな、と頭を掻いた。そんなつもりはないが。


 さっそく隼蜂と伽南と三人で、これまで長年使っていた麦飯石脈へと改めて行ってみたが、見事なまでに掘り尽くしていた。広大な剥き出しの岩肌を見渡して失ったものの大きさを実感した。

「どういう基準で探している?」

「ここの脈の流れを予想して手分けして掘ってみてる。一年目は南へ、二年目は東、反対に去年は西、今年から北。俺も引き継いだのは去年からだから最初の奴らがどう掘ってたのかは話にしか聞いてねえ」

「初期の探索隊は?」

 何気なく聞けば隼蜂だけではなく伽南にまでまじまじと見つめられた。

「どうした?」

「……柳仙はほんとに……」

 隼蜂が苦々しく言い、目付けに睨まれて黙る。

「教えろ。どうなったんだ」

「……死んだよ、皆」

 は、と聞き返せば大仰に溜息を吐かれた。「霧界で危険なのは妖や獣だけじゃねえってこった。そもそも、俺らだって長くこの中にとどまってれば寿命を食う。それに瘴気の噴き出す沼に落ちたら助からんし、崩落だってちょくちょく起こってる。一日中幻光まぼろしが消えなくて身動き出来ない日だってある」

「なぜ皆死んだと分かる」

「ひと月に一度は交代で三人ずつ領地に戻ってるだろ?それが誰も帰らなくなれば死んだってこった」


 何も言えず黙り込んだ。ではこの丸三年の間にかなりの数死んでいる。それほど犠牲が出ていたとは露ほども知らなかった。いや、知らされていなかったのだ。そして知ろうともしていなかった……。


「いいか、嬢ちゃん。鉱脈探しってのは命懸けだ。なにも人と戦うだけが戦士じゃねえんだよ。無理なら帰んな。引き止めはしない」

 険しい顔で言葉を反芻したが、すぐ首を振った。

「帰らない。私はやるべきことがある」

祝穎ほさき』としての使命を果たす。

 隼蜂はしばらくじっと見つめ、やがて「そうかい」と破顔した。

「そんじゃ、頑張るか。どのみちあと一年で北も脈なしならもっと手を広げなきゃならん。滅ぶほうが早いかもしれねえがな」

 おどけてそう言ったが、おおよそ冗談には聞こえなかった。


 ずっと霧界で過ごしているから、さぞ吹きさらしのなかで寝起きしているのだろうと思っていたが、彼らは予想外なことに探索地からほど近い洞穴をねぐらとしていた。風と雨露を凌げるのはありがたい。


「可敦さまはこちらへどうぞ」

 儞爾に大虚おおうろからさらに少し離れた小さな穴をあてがわれ、荷を下ろしてともかく座り込む。

「お疲れになったでしょう。いま火をおこしますね。ごはんは後で呼びに来ますから」

 すでにあたりは暗く、濃い霧が山間にずっしりと沈んでいる。

 湿しっけたなかでも手慣れた早さで薪に点火した儞爾は膝を抱えた可敦に笑いかける。

「……?どうかしたのか?」

「いえ。……そうなさっていると、母を思い出して懐かしいなと」

「お母上は」

 問えば首を振る。「たまに切なそうな、辛そうな顔をしてよく暖炉いろりを眺めていました。縮こまって、まるで小さな女の子みたいに」

 そのまま華奢な背を闇に向けた。

「正直、ぼくには哥哥あにさまたちは乱暴に見えます。考え方も……ふるまいも。そう言ったら、軟弱な奴よと笑われてしまいますけど。だから可敦さまが憐れみ深い方で嬉しいのです」

「奇遇だな。同じように思う。だが、思うと同時に、私は男が羨ましい」

 彼らはいつも奪う側だから。



 近頃、当たり前だと思ってきたことが根幹から揺らいでいるような気がしてならない。浄水石の枯渇に始まり、ここで暮らすこと、『祝穎』の名を負うこと、可敦として、母として、女として日々の生活と営みにめ込まれた自分がひどく滑稽に思えてならないのだった。

 石が失くなるなんて青天の霹靂だった。夢にも思ったことなどなかったのだ。そう思い至り、そしてその意識は徐々にその他に敷衍ふえんしていった。立ち返ったと言ってもいい。?そう思うことが増えた。――増えてしまった。


 祝福された者だと言われて育った。刹瑪として生きろと示された。次の当主がお前の夫だと定められた。乗り気でなくとも、逃げ出そうなどとは考えに及ばなかった。全て、そうなのだと飲み込んで疑いもしなかった。もしかすれば、他の道もあるのではという可能性が頭に思い浮かびもしなかった。

 それで最近思う。自分の『当たり前』と他者の『当たり前』は違うのだ。なぜ違って、彼らと自分は何が違うのか、と。振り返ってみると、すでに誰かが敷いた道の上を歩むだけの人生を辿っていた。俯瞰した。一体いま、どこに立っているのかを。


 ――――私は、私を発見してしまった。


 だから役割を探したのだ。全てを決められた道の上しか歩めないのだとしても、なんとか脇道がないかと無意識にもがいていた。同時に今まで受け入れていたことに対しての嫌悪感が増した。


 はじめは、自分は人偶にんぎょうだったのだと今さら気がついて、しかし気がついてない振りをしようとした。

 …………だって、怖かった。

 こんな気性でこんなことを口にしたら皆には呆れられるかもしれなかったが、なにひとつ、本当に今までの人生でなにひとつ自ら重大な決定をしたことがないのだ。つまりは、自由を周囲に奪われていたのと同義だ。恐怖を通り越せば、無性に腹立たしくなった。言われるままに従っていた自分と当然としてこちらの意思を無視する環境に吐き気がした。


 だから手当り次第、出来そうなことをやってみることにした。争いが起きれば自ら剣を取って試した。はたして己が守られるだけの弱い存在であるのか。これまでのように周りの人間を盲信して生きてもなんら問題はないのか。


 問題は、大有りだった。


 まず冷静に見て、自分で思う自分と周囲が求めている自分とはかなり乖離していた。もっとも近しい立場であるはずの麝君は妻に服従という名の愛を求めた。しかし、こちらとしては己の行動すべてを掌握してもらおうとしたつもりは毛頭ない。可敦として、一族の一員として支えていきたいという誠意と使命感はもちろんあったが、麝君が自分に依存させようと圧力をかければそれだけ彼我ひがの差は埋められないほどに大きくなっていく。彼は妻の精神と肉体の自由を搾取してむさぼる行為を愛することだと理解している。つまりは彼が、己が与える分と同量返すよう求める愛はこちらには持ち合わせがなかった。厳然たる齟齬が道に横たわっており、乗り越えるには苦痛を伴わずにいられない。やりたくないと心が訴えた時点でこれは自分の中では大問題だった。


 子を産み、殖やすことは紛れもなく善であり、正しい。ゆえに、体を差し出せという配偶者の求めを拒絶することにかなりの罪悪感があった。相手に悪い、一族に悪い、まるで裏切り行為でもあるかのように感じてしまう。麝君は決して無理強いはしないが、それはこちらが一、二度は断っても結局は折れるだろうという打算があるからだ。拒否し続ければどうなるかは分からない。分かりたくない。だから今まで、後ろ指差されるのが気まずくて、務めを拒む出来の悪い嫁だと叱責されたくなくて、どんなに不調でも従ってきたし、気が進まなくても応じてきた。


 しかし、ともかくもこの障害はひとまず乗り越えた。旅立つ前にもはっきりと断った。期限は一年しかないのに、いま子が出来ては連れ戻されてうやむやになり、そこから先はまた今までのようにずっと籠の鳥。それは再びの死だ。奪われ、死んでいた生を取り戻そうと試みているのに、それは困る。


 大巫の話をすぐに受け入れたのも、別の理由は自分を試す機会にしようと思ったからだ。この毒霧の世界を浄化できるなんて突拍子もない話、真実であれば素晴らしい。しかし、立場にかこつけて領地を出るという企みを成功させたいという願望のほうが強かった。『祝穎』であるせいで喪ってきた今までの生を『祝穎』として貢献し取り返してやる――そのくらいに思っていた。結果として皆が助かるのならばそれに越したことはないのだ。この計画は自分も他者も、誰も傷つかない非常に良い方法だと思えた。


 常に奪われてきた自分が、実はこんなに能動的に動けるのだと知って初めて誇りが湧いた。なんだ…………私は守られるだけの存在なんかではなかった。出来るではないか。奪い返せるではないか。


 しかし依然として一族の中で己の立場は弱い部類に振り分けられており、それは根強くどれほど抗おうとびくとも覆らないのだとも思い知らされる。そうして自分の頭を踏みつけている者たちへ憧憬し、羨望する。自分もそちら側へ行きたいと渇望する。悔しく思う。そしてふと、今度は自分が踏みしめているものを悟って、心が揺らぎ、同情したが、立ち位置が絶対に逆転することはないと安堵して高い位置から憐れんでいる。自分を蔑ろにする者たちと同じことを下位の者にしている自覚はある。同情するかしないか、その認識の有無が違うだけだ。



 儞爾はやはり変わっている、と微睡まどろみながら思った。奴婢を憐れんでくれて嬉しいと言った。自分もそう思うから、同じように感じる者がいて嬉しい、と。


(まるで自分があちら側であるかのように言う)


 憐れんだところで状況は変わらないし、変えようと声もあげない自分は奴婢たちにとっては麝君らと同じくただの支配者だ。むしろ見せかけだけ優しくするぶん腹立たしいかもしれない。


(私には、一族のかたちそのものを崩すことなんて、到底出来はしない)


 己のことでさえ手に余って溺れているのだ。気がつかなければ良かったのかとも思う。そのほうがずっと楽だったのかもしれない。しかし、自分は楽がしたいから生きているわけではない。そんな偽善と因習で塗りこめられた押しつけの人生なんて御免だった。だからせめて、己だけは己で救おうと足掻あがく。




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