七章
温かい。氷のように冷えていた手は何かに包まれている。とても心地好い。ありがたい、と
「目が覚めた?」
柔らかな呼びかけが聞こえ、瞬きして出処のほうへと顔を向ける。脇で左拳を包んだ手の主の顔は分からない。ただ
「大丈夫?お水、飲む?」
声も出せずわずかに顎を引けば、どういう仕掛けか、背がしぜんに持ち上がって楽な体勢になる。少年は
「ちょっとずつ傾けるから、ゆっくり飲んでね」
舌に触れた瞬間から凄まじく旨い甘露に思った。勢いよくがっつけば案の定
「急がなくても、なくならないよ」
喉が湿って、やっと声を出せた。
「……ここは、どこだ。お前は、だれだ……?」
「ここは安全なところ」
すぐにはっきりと答えてくれたのに、ひどく曖昧な言葉に困惑する。自分は何をしていたか、と茫洋と
鈍い痛みに足首を見れば木の棒で固定され布が巻かれていた。これは、この少年が、と見上げた彼は引き起こそうと袖を掴んでくる。
「……なぜ、脚を怪我していると分かった」
外見では分からないはずだ。
「少し
誰が。続いて問おうとして、あの赤い森の白い人影を思い起こした。
「
顔を見せろ。そう思ってそこにあるであろう位置に手を向けると、難なくすべらかな頬に辿り着いた。光は不可思議なことに触れた面から当たっていくように、徐々に容貌が
怖ろしいほど美しかった。かつてこれほど整った姿の人間を見たことはなかった。
一瞬呆けたが幼い面立ちと笑顔に鈍い既視感をおぼえて目を逸らした。「………また、
「おや、子どもは嫌いかな?」
突然響いた新たな声に弾かれる。いつの間にいたのか、足許に白い人影が背を向けて座していた。身を強ばらせたのを
「大丈夫。あなたはこの方に助けてもらった」
「お前の
「正確には違う。彼は主公の主公だよ」
白い影がまろやかに低く言って、肩越しに愉快そうに揺れる。性別も年恰好も何もかもが曖昧で分からない、頭から白い布を被った怪しい出で立ち。あの赤の森で最後に見た。
安全なところ、という言葉を思い返し頭上を眺め渡す。少年と白衣の者、それに自分は燐光を纏っているようにかたちが見えるのに、周囲はまるで夜の闇でなんの陰影も分からない。
「雄常は…………」
「驚いたな。あそこでヒトに出遇うのは初めてだったゆえ、なおさら」
白い影はのほほんとして緊張感の欠片もない。
「ここは、あそこではないのか」
「うん。もう移動してしまった。
「傷はない」
「外側はね。内に効く薬を飲まないと」
返しに目を剥く。
「……知っているのか、
「うん。まともに見たのは初めてだが、興味深い。だが脚の
なにせ皮一枚で保っていた足首を治癒しきらないうちに無理して動かし、そのまま北辺を
「……あれから、どのくらい経った?」
「四日くらい。あなたはずっと寝ていた。あの珍しい
少年が悲しげにする。ああ、と息を吐いた。人を襲う妖に追われながらあそこへ辿り着いたから、もう無事ではないだろうとは思っていた。
ようやく礼を言う余裕が出来た。
「そうか。助けてくれて感謝する。それで、ここはどこなんだ」
「難しい質問だ」
問いに白衣の者が
なんだそれは、と怪訝にもう一度見まわす。「いまは夜か?」
「ここは
まるで何を言っているのか分からない。呆れて見ていれば白い影からひょっこりと別の頭が覗いた。
「助けてもらったくせに図々しいわね!
全く気配がしなかった。まじまじと観察する。冗談のような容姿の童女だった。くりくりとした金の眼は上下とも白い睫毛でわさわさと縁取られている。毛髪であることを疑うが、頭から生えたものは
「いいんだ。こう暗くては不安なのだろう」
「あたしも夜が好きよ」
「客人が不安になっている」
主人に穏やかに畳み掛けられ、童女は頬を膨らませた。しょうがないわね、と大仰に肩を竦めて指を鳴らした。
ぱちり、と急に明るくなって思わず目をつぶる。明滅する黒斑が収まるのを待ち顔を上げると、白衣の主はどこから出したのか、瀟洒な小ぶりの笠を被っていた。ますます顔は不明瞭に、得体が知れなくなった。
それが……どうしたことか、今度はそちらのほうが身を強ばらせた。彫像のように動きを止めてこちらを穴のあくほど見る。
「主?」
「どうかなさいましたか」
子供二人に窺われても返事はない。驚きに瞳は瞬きさえせず女を映す。
「………すごい………‼」
興奮して鼻息を荒らげながら呟き、膝に抱えていた童女をどけると這い寄ってきた。
「うわ」
いきなり動き出して何事かと構えれば少年が制止する。
「落ち着いて。彼女はどこにも行きません」
「
ずいずいと近づかれて初めて、白い人が男なのだと悟った。彼は黒い爪の白い指をすう、と伸ばして昼光に晒された赤毛を掬う。
「なんて色だ。本当にヒトか⁉」
「いきなり他人の髪を触るとは不躾な奴だ」
すっぱりと手を払い除ければ、おお、と謎の反応をする。先程までの余裕ぶった身のこなしとはまるで違った。
「失礼した、すまない、なにせ
「ああ」
「そうか!」
心底嬉しそうに手を握ってくる。「もっと汝のことを教えてもらえるか。鋼兼ということは
「人に尋ねる前に己が名乗れ」
「なんて口の利き方なの!お前こそ礼を
「やめなよシンシン」
少年が眉を下げて
「九泉……。九泉国?」
大泉地の西北にあるという国。男はいまだ手を離さないまま、もう片方で自分の胸を押さえた。
「名乗り遅れた。九泉国主だ」
「
少年が口添える。それで本当に泉国の王その人なのだと息を飲んだ。
「なぜ……あんなところに」
「説明はあとだ。ともかく、着いた」
周囲の気が揺らいだ。卵色の闇は中空に線を刻む。真一文字に細い亀裂を生じさせ、あたかも瞼を開いたかのように弧が押し広げられ白い光が広がる。裂け目はぐんぐん大きくなってくるりと反転した――ように感じた。はっと我に返って気がつくと、何もない空間はすでに消え、そこは石壇。方形をした白銀の平らな地面に座り込んでいた。
まるで空気が変わった。音がする。さやさやと流れるのは折り重なった
ここにはこれほどまでに豊かな水があるのに、なぜ一族には与えられないのだろう。
「どうしてだ…………」
絶望と感動が
「落ちてしまう」
少年に止められて見れば、方壇はその下全てを覆う水面までに途方もない開きがあって、ここはかなりの高さの建造物なのだと把握した。これほどの場所へ登るのも山以外では初めてだ。
「さあ、まずは身を清めて休もう」
あんな女のどこがいいの、と騒いで子犬のようにまとわりつく童女を従えながら、九泉主は鷹揚に手招きして階を降りてゆく。後について踏みだした。腕を支えてくれた黒い頭を見下ろす。
「お前は……」
「孳孳と呼んで」
漆黒の髪は光のもとに晒され透けても赤みが全くない。しかし瞳は暖かく輝きを増し、細まる。
「九泉へようこそ」
階を降りきったところで客人を下官に任せて別れ、
「あんな、ただ色がちょっと変わってるだけのヒトの女なんて、主が目をかける必要あるの⁉」
「お前が一番なことに変わりはない」
「当たり前でしょう!」
湯舟に浸かって気持ちよさげに息を吐いた。直後、頭から飛沫を浴びる。勢いよく飛び込んで来たのは先ほどまでの童女ではない。しどけなく柳腰を
「あまり私をおちょくると痛い目を見るわよ」
好戦的に唇を歪めたが金の眼は笑っていない。それにやれやれと息を吐き、顔を拭った。
「おちょくるとは。はじめからふざけてなどいない。それほどまでやきもちを焼くとは、お前にとってもあの
手に指を絡ませる。愛おしむように握り、頬杖をつき目尻に皺を寄せたが、こちらもおおよそ笑っているようには見えなかった。
「邪魔をしないでくれるかな。いくらお前でも行き過ぎは良くない。主はこの
「そんなの、分かってるわよ」
「本当に?」
「…………なによ、なによ。そんなに怒ること、ないじゃない。あたしが運んであげたのよ。礼くらい言いなさい」
つん、と横向いたが傷ついたように目を伏せる。途端、発光してずるりと姿が溶けた。そのまま逃げるように湯の中に沈んでゆく塊を
「ありがとう。愛しているよ、シン」
湯殿のなかで何事かをぶつぶつと呟いている王に、
「泉主。参上
許可される。遠慮がちに白煙をきらめかせる中へと進んだ。
「早かったな、
「すぐ顔を見せるようにとの仰せでございましたから」
額づいた者に微笑み、ざばりと水を散らして立ち上がる。張りついた湯着を落とし、下官たちに身体を拭かせながら「あちらは」と訊く。
「すでにお待ちのようです。横になられるのをお断りされたようで」
泉主は気の強い調子を思い出して苦笑した。
「そうか。待たせては体に障るな」
壇下に
結わずに伸ばしたままの、ゆるくうねって腰まで届く燃えるような
「おや。その衣は?」
優しげに問うてきた異国の王はいまや顔を晒しており、こちらは表情にはおくびにも出さなかったがその異様な出で立ちを注視した。彼もまた常人ではありえない色の髪と眼をしていた。
この国の水で染めたみたいだ、と思いつつ問いに答える。
「女物はひらひらとして落ち着かない」
「良い。よく似合っている。体は大事ないか」
「九泉主には、過分なる温情を賜り感謝のしようもない」
なんとか状況を把握した。ここはもう霧界ではない。男は何度か頷き、酒を持って来させた。
「病みあがりだ。硬くならずに。改めて、
どこまでも静かに話しかけながら、こちらの遠慮のない射抜くような視線を受けてくすぐったげにする。壇下で様子を見ていた従者が穏和に
「失礼ながら、貴殿の御名を」
齢十七、八のその青年は近くに侍っているにもかかわらず官服を着ていない。他の下官とは違うさまに内心首を傾げ、寸暇、名乗りに迷い、小さく唇を開いた。
「…………
「可敦?では族主の
知っているのか、と再び引き結んだ。この男、思ったより無知ではない。それによく考えれば、あの森で出遇ったということは彼も知っているのでは、雄常のことを。今更ながら気がつきはっと顔を上げた。いつの間にか泉主は短い階を降りてこちらに近づいていた。何だ。どんどん来る。周りの者は止めないのか、とちらりと見れば護衛も横の青年も平然としている。こちらは蛮族だと揶揄される一族の人間なのだが。
泉主はすぐ前で同じように胡座をかき、うっとりとして目許を和めた。
「あの……ええと、触っても?」
急にたどたどしく懇願されて瞬く。問いかけてくる間にも黒い爪をした手が伸びてきたので容赦なく払い落とした。
「私はお前の臣ではない。従ういわれはない。泉国の男は許しもなく女の髪に触れるのか」
「ごめんなさい。どうしても」
抑えられなくて。手を摩りながら俯いて泣きそうになった様子は歳がまるで分からない。幼いようでもあり、しかし雰囲気は円熟しているふうでもある。顔が分かっても正体が掴めない奴だ、と警戒も
あからさまに拒絶されたのが分かって泉主はさらに必死になった。
「ち、ちがう。怖がらせるつもりはなかった。ただ、あんまり美しくて珍しく、どうにも心が
こいつを止めろ、と脇の青年を見たが彼は手を振って他の下官を退らせたのみで、どうしたものかと見守っている。
「別に怖がってなどいない。ただ無礼な奴は嫌いだ」
「済まなかった!」
突然、腰を折った。しかし恍惚とした表情を引き締めもせずにつらつらと語る。
「こんな、まるで
だんだんと呼吸が乱れてくる。顔を横向けて笑みを浮かべた口端から水を零したのには流石に頬がひくついた。
「…………踏みつけてくれと言われたことはあれど
可敦の言葉に崔遷は天を仰いだ。前者も大概だろう。ようやく近づき、主を諫めにかかる。
「泉主。あまり
「う……う。触りたい。撫でたい」
空の両手を開閉して涙ぐみはじめ、それほどか、と二人は呆れる。
「……しようがないな。このままでは埒があかない」
異様なさまに辟易してついに嘆息した。ほら、と自分の髪をひと房投げてやる。
「引っ張るんじゃないぞ」
まるで犬が骨を与えられたごとく彼は目を輝かせ震える手で毛先を頬に擦りつけた。
「ああ……」
「気持ち悪いなお前」
しかしもうこちらのことなど聞いていないのか、赤い絹糸を一本一本愛おしむように指先で撫でる。変な奴だ、と腕を組んだ。一連の挙動ですっかり泉主に対する
「可敦は……いくつだ?」
どこかに飛んでいっているような
「と……二十だ」
「そうか……そう。若いのだな」
「そうでもない。お前は?」
「同じ」
なんだ、年上ではないのに変な反応をする、と肩を竦め、それで、と本題に入る。
「お前はなぜ私をここへ連れてきた」
「怪我をしていたから」
「それだけ?」
いいや、とようやく夢から醒めたのか髪を丁寧に袖で拭いて離した。
「気になったから」
「だから連れて来ただと?誘拐か?」
「人聞きの悪い。招待という。なぜあそこに独りでいたのかを訊きたかった。汝は知っているのか、あの場所がなんなのかを」
息を詰めた。知っている、と返すには乏しい。
「…………お前は、どうなんだ」
見つめられて泉主は微笑む。
「では、ゆっくり腰を落ち着けて話そう。まずは食事でも共にどうか?腹が空いているだろう」
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