晴れ女
初めてその子を見たとき、冷たいスケートリンクの中が暖かくなった気がしたんだ。
柚子自身も小さい頃からずっとスケートしかしてこなかったし、周りにいる子達もおんなじだ。一緒に始めて辞めていった子たちもたくさんいるし、あとから始めて辞めていった子なんて数えられないくらいいる。ある程度大きくなってくるとそれは母数も少なくなるが確率も上がっていっていた。小学校高学年ともなるとほぼ100%だ。
だから同い年の子が体験でレッスンを一緒に受けると聞いたときもどうせすぐに辞めるし名前を覚える必要もないと、そう思った。
だからというのもあるのだろう。晴海が滑っている姿を初めて見た衝撃が忘れられない。冷たい空気の中を駆け抜けてくるような温かい波が自分のを包んだ感覚が脳裏に焼き付いて離れない。
上手な部分なんて探す方が難しい。つたない滑りから溢れているのはなんだったのか。仲良くなった今でもそれはよくわからないままだ。
ただ、晴海を見ているとスケートが楽しくてしょうがなくなる。それだけは間違いなかった。
ふぅ。
自分の部屋の前だというのに久しぶりだから妙に緊張して思わずためてしまっていた空気が押し出されるように溜息になる。
いきなりドアを開けたら驚いてしまうだろうから。念の為チャイムを鳴らす。
ついこの前までの梅雨の様相が嘘みたいに、熱気になって下から立ち昇ってきているのを感じてほんのちょっとの時間が長かったものに感じる。
まあ、それもそうだ。この短い時間でいろんな事があった。絶望もしたし、苦痛にも耐え続けた。昔辞めていった仲間たちとおんなじように諦めてしまえばどれほど楽になれるのだろうかとも想像した。
それでも、耐え続け、氷の上に戻ることだけを信じて戻ってこれたのはきっとこのドアの先にいる晴海のおかげだ。
冷たい世界にいた柚子を温かい世界に引き戻してくれた。今だって晴海の顔さえ見れたらがんばれそうな気がするし、頑張らなきゃいけないのだとも思える。
まったく。
晴海さえいなければこんなに頑張ってなかったのにと、そう思う。
いつまで経っても開かないので、もう一度チャイムを鳴らしながら部屋へと入る。
「晴海。ただいまー」
部屋に入ったことで気がついたのかこちらを向く晴海を見て心が暖かくなるのがわかる。なんでこんなに照らしてくれるのか。名前のとおりだ。晴の日の海を見ているみたいにホッとする。
「おかえり柚子。大変だったね」
大変だった。心が折れそうになるくらい。そう口にはできない。
「そーなの。入院で洗濯ものも溜まってて大変」
感情が外へ漏れ出さないように必死に隠す。自分という影で晴海から出ているものを覆ってはいけない。
ほんと。どんどん上手になるんだもの。晴海がスケートを始めてからずっと焦らせられてばかり。少しでも油断するとすぐに追いついてきそうで必死に努力した。手を抜いたらすぐそばにどころか、ずっと先まで行ってしまいそうなその空気感が怖かった。
ほんと、些細なことで悩み続けているのも柚子からしたら焦る対象だ。なにせ、その悩みを抜ければ必ず成長が待っているのだ。今、調子が悪いのだってここまでの成長が早すぎたための歪み。ただそれを晴海はちゃんと正すのだろう。あれだけ悩み続け日々、上達だけを目指していたら当然だろう。
だから深く悩んでている姿もさなぎの中で羽ばたくのを待ち続けている蝶々にしか思えなかった。だから軽はずみなことを言って晴海を困らせてしまった。
でも、それくらい許してほしいものだ。こっちはいつだって追い込まれているのだから。
「明日は晴れるかな?」
天気の話だろうか。晴海の悩みの話だろうか。それとも柚子自身の中で渦巻く言いしれぬ不安に対してなのか。柚子にもそれは分からなかった。
「明日は晴れるよ」
そう太陽が海に反射したみたいな笑顔は、たしかに明日は晴れるのだとそう確信させてくれた。
明日の天気 霜月かつろう @shimotuki_katuro
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