第4話

「ただいまー」


 返事は返ってこない。そのことで始まったばかりの寮生活の習慣が体に染み込んでいるのに気がついて、この短い間の時間がどれほど自分の中で大切だったかがわかる。


 柚子が使っていた部屋はきれいに片付いたままだ。柚子のご両親が着替えを取りに来たときに一緒に片付けていったのだ。短い期間だけれど入院するの。騒がしい子がいなくて少しはゆっくりできるでしょ。と、軽くあいさつみたいに話しかけてきた言葉に対して頷くことしかできなかった。


 こんなに寂しいなんて思いもしなかったから。


 いつの間にか部屋に帰って柚子がいる生活が普通になっていたのだ。その日の学校での出来事をはなし、放課後の練習内容について語り。いつだって晴海が落ち込んでいたところを励ましてくれていた。


 それだけ柚子に甘えていたんだと思う。


 いつだって優しくて、強くて、上手で。まるで神様みたいな存在で。その存在に頼りっぱなしだった。


『あのこ、生活力はないから苦労かけてるでしょ?』


 だから柚子のお母さんにそう尋ねられたときは本当にびっくりしたんだ。


『脱いだものは散らかしっぱなし。練習の時間も覚えようとしない。コーチに言われたことは全部忘れる。そのくせ、スケートだけは人一倍大好きでひたすら真っすぐ。そんなのといると疲れちゃうわよねぇ』


 どちらかというと親ばかなのだろう。褒めているようにしか聞こえないし、そう言っているお母さんも嬉しそうだった。


 だからそんとないですよと告げ。ほとんどの家事は柚子がやってくれていたりします。と付け加えておいた。でないとあまりに寂しそうな顔を見ていられなかったからだ。


 たとえどんなに嬉しそうにしていたって柚子のことを思い出せば辛い現実が待っているのだ。その症状を詳しく聞いていない晴海に話せるないようも少なく、表面上の娘の生活ぶりを聞くことしかできない。


 そんな単純なことじゃないのだろうけれど、柚子がどれだけここで楽しそうに生活していたかを伝えることしか晴海にはできそうになかった。これから大変な時間がきっと柚子にも目の前にいるお母さんにも訪れるだろう。だからこそここで過ごした時間が支えになればと切に願う。


『そうなのね。ありがとう晴海ちゃん。おんなじ部屋で本当によかったわ。これからもちょっと大変だけどよろしくね』


 そう口にするお母さんの表情はちょっとだけ晴れやかな気がした。


 そんなことを思い出しながら荷物を降ろすと練習の疲れが残っている体を奮い立たせるように腕まくりをする。


「さて。柚子の分まで掃除しとかないとね」


 誰もいない部屋に向かって言葉にするのはそうでもしないと自分のやる気がでないからだ。


 今日は柚子が帰ってくる日だ。手術を終え、病院でのリハビリも一段落。あとは、日常に戻りながら氷の上に立てるように、生活を続けながらのリハビリ。そして、氷の上に立ってからだってリハビリの毎日だろう。


 スマホから音楽を流す。柚子がフリープログラムで使っている曲だ。その曲がかかったと同時に部屋の中が小さなスケートリンクへと様変わりする。


 そこに柚子がはっきりと見える気がする。リズムに合わせて自分の四肢を思うがままに表現に使っている柚子が羨ましい。同時にそれが見れなくなってしまっているのかもしれないと不安がよぎる。


 そんなことをしらない晴海がイメージする柚子は曲の波に乗るように、可憐という言葉が似合う動きをしていく。体が柔らかいからできる動きでもあるが、それだけじゃない、線は細いけれどそれを支えている筋肉もしっかりとしているのが伝わってくる。


 ひとつひとつの動きが洗練されていて、これこそが柚子だとたらしめるものになっている。ずっとこのスケートにあこがれてきたんだ。心の底からそう思う。


 音楽が盛り上がっていくのと同じように柚子の動きも激しさを増していく。ジャンプもスピンも柚子は危なげもなく制御している。体をどう動かせばどう動くかを完璧に把握しているようだ。


 ああ。この動きに憧れてここまできたんだ。


 そう考えるとずいぶん遠くまで来てしまったのだとも思う。憧れでしかない存在とおんなじ部屋で暮らしている。


 ずっと届きそうで届かない眼の前の柚子に勝手に焦って、勝手に不調に陥っていたのだけれど。まったくの素人がここまでこれたのだからそれはそれですごいことじゃないのか。


 曲の終わりとともにイメージの柚子がピタッと静止する。肩で息しているがその評定は笑顔でしかない。


 背筋がぞくっとする。一体どれほどの鍛錬を詰めまこの領域に足を踏み込めるのだろう。一緒にいたってわからない。


 それを測ったかのようい部屋のインターホンのチャイムが鳴る。柚子のことを思い出していて思わず手が止まってしまっていた掃除が終わってないことに気がつき。失敗したなと思う。


 間に合わなかったじゃない。


 そう自分に恨めしく言ってもこれは性分だ。柚子がいない間もずっとそうだった。


「晴海ー。ただいまー」


 わざわざチャイムを鳴らしてから鍵を開けて入ってくる柚子は気を使ってくれているのだろう。それはいつだってそうだ。


 手が止まりがちな晴海のことを気にしてくれて掃除も洗濯もいつの間にかしてくれていることがばかりだ。


 柚子のお母さんはそれを意外と思うだろう。


「おかえり柚子。大変だったね」


 しっかりものの柚子は辛さを表情に出さない。これからもきっと見せてはくれない。見せないように努力すらしてしまうと思う。


 今だってきっと心の中は不安でいっぱいなのに笑顔にしか見えない。


「そーなの。入院で洗濯ものも溜まってて大変」


 大変なのはそういうことではないだろうに。ごまかすようにニカッと笑う。


「明日は晴れるかな?」


 その質問は想定済みだ。事前に調べておいた。今日が梅雨明け。明日からは夏の様相だ。


 いつの日かきっと柚子の心も晴らしたいなと思う。長い長い梅雨なのだろうけれど、憧れている存在がせっかくそばにいるのだ。


 晴れてもらわなくては一番のファンとしてのプライドが許せなくなってしまう。


「明日は晴れるよ」


 それをきいた表面上の柚子の表情は少なくとも晴れやかだった。

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