第3話

『調子はどう?部屋の片付けは順調です』


 自分の部屋のソファの上で柚子と書かれたSNSの画面にそう文字を打ち込んでから、ちょっとだけ送信ボタンをタップするのを躊躇する。


 知らないふりをしてくれ。


 コーチの言葉が重たくのしかかる。


 ふぅ。と息を吐き出しながらタップする。音もなく相手に届いたであろうその文字列を眺めながら。なんとなく、画面を下方向にスワイプ。記憶を遡るようにスクロールしていくと、すぐに見たくないものが飛び込んでくる。


『ごめんね』


 そう短く書いてあるものを柚子に送信したのは、昨日のことだ。でもそれはその上にもう一個の『ごめんね』が送られてきたからこその返信だ。


『晴海のこと深く考えもしなかった。簡単に言ってごめん』


 そのメッセージのあと、お互い部屋に帰ってきて真っ先に言葉を発したのも柚子の方だ。


 晴海はといえば言葉が頭の中をぐるぐると渦巻いていて、どうきりだしていいかわからないでいただけだ。


 でも……。


 柚子が与えてくれたきっかけで思いの丈をぶつけられた。と、思う。思い出すと恥ずかしいくらいに晴海は柚子への憧れの気持ちをぶちまけてしまった。推し自身に気持ちを届けるなんてなんてことをしでかしてしまったのだと、時折思い出して首を大きく振ったりしてしまうくらいだ。


『大丈夫。すぐに練習に戻るから。それまで部屋のことお願いね』


 すぐに返ってきたメッセージを読んで、ホッとしたいところだけれど。そうはならないのだと今日コーチから聞いたばかりだ。


 私が余計なこと言っちゃったから。


 柚子からのメッセージは明らかに晴海を心配させないようにしているのが伝わってくる。コーチから現状を考えればことはそんなに簡単ではないはずだ。


 疲労の蓄積による右足の前十字靭帯損傷。


 手術もしなくてはならないし、術後もリハビリの毎日になると聞いた。


 ただ、普通に生活するぶんには特に大きな支障はないらしい。手術をすることもなくリハビリも軽く行いその上での引退も勧めたとコーチは言っていた。


 それでも手術するって柚子は言い切ったよ。


 コーチのその言葉を聞いてホッとしたのも確かだ。しかし本当にそれで良いのかとすぐに不安になった。


 これから辛い思いをするのは晴海ではなく柚子だ。晴海の勝手な憧れの気持ちでこれからも柚子が氷の上で滑ることを望んで良いのか。正直わからない。


 それに。柚子が怪我をした要因のひとつにきっと晴海の言葉が含まれている。それを思うと、心が痛む。


 ほんと身勝手。


 代わりに自分の脚と交換してもいいくらいだ。こんな未だに調子が戻らず不格好なままの滑りを見せているくらいならばいっそ。


 でも、柚子はきっとそれができたとしても拒むのだろうと、ぼんやりと天井を眺めながら思う。そうであったから柚子は柚子なんだ。だからその思いが滑りに表れている。そう思う。


 私が調子に乗ったから。


 憧れの存在に自分の思いを伝えるなんておこがましいことをしてしまったから。


 柚子の調子を崩させてしまった。


 そのことをどう謝っていいのかもわからない。謝ってすむ問題でもない。


 スケートを辞めてしまえば楽になれるのだろうか。身近にいる柚子から少しでも離れることができたら……。


 少しは楽になれるのだろうか。


「はっ。楽になってどうするんだ私は」


 軽蔑の笑いが思わず漏れる。


 結局、柚子のことより自分のことなのだ。


 柚子が滑っている姿が見たいのも。


 辛い思いをしたくないのも。


 全部、晴海の想いだけ。柚子の気持ちはどこにもない。


「ばっかみたい……」


 この世界には自分の力ではどうすることもできないことがたくさんある。いや、私みたいな不出来な人間にはどうしようもないことで溢れている。


 見慣れた部屋がにじんでみえる。悔しいのだろうか。これまでもずっとおんなじような思いをしてきたのに。今更なにを悔しがるって言うのだろう。


 ピロン。


 スマホが震えながら通知を教えてくれる。ロック画面に柚子の名前が表示されているのを見て開くのが怖くなってやめた。


 その通知画面が突然濡れて画面が荒ぶれ出す。一体何事だろうとその水分を拭き取る。その手に雫が落ちてきてそこでようやく気がついた。


 私泣いてるんだ。


 誤作動を起こしたスマホが天気予報を告げている。梅雨は明けておらず、あいも変わらず雨マークが続いている。


 部屋の窓から外を見る。柚子もこの雨を見ているのだろうか。そうして何を思ってメッセージを送ってきたのだろうか。


 気にはなるけれど怖くて開くことができない。それも晴海の自分勝手な気持ちだけがしていることだ。


 情けなさすぎる。自分ではなにもできないことに打ちひしがれる。


 上がらない雨のように、晴海の瞳からこぼれ落ちる涙も当分止むことはなかった。

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