第2話

「ただいま……」


 練習終わり、先程まで一緒にいた柚子の姿はまだ部屋にはないようで少しだけホッとしている自分に晴海は気がつく。


 あれから一週間が経ったけれど柚子との間には気まずい空気が流れるだけで、ろくに会話もしていない。


 学校が決めた同居人である以上、離れることはできなくて。もし、そんなことがあるならスケートを辞めたときなのだからできればそう合ってほしくない。


 ほんとうに?


 自分の中のネガティブな人格がそう問いかけてくる。


 本当にだ。


 自分にそう言い聞かせる。


 自分はスケートを心から楽しんでいるし、今日だってそれなりに頑張って練習してきてクタクタなくらいだ。


 でも、やっぱり調子は戻らなくてそれがなによりも辛い。今日もコーチが面倒くさそうに動画を送りつけてきた。


 着ているものを洗濯機に突っ込むと用意しておいた部屋着に着替えて、洗濯機の前で立ち止まる。


 柚子も洗濯するよな。


 今日もたくさん汗をかいているはず。いくら冷えているスケートリンクの上だとは言っても汗は多量にかく。あの冷たい空間にいるときは気づかないが外に出ればその匂いにうんざりすることも多い。


 もうちょっと待ってようか。


 その間に送られてきている動画でもチェックしておけばいい。


 送られてきた動画を再醒するとスマホから音が流れてきたので慌ててヘッドホンを取りに行き接続する。


 流れてくる音楽とともに画面の中の自分が動き始める。いつみてもその光景になれることはない。自分だと頭は認識しているのだが納得してくれないのだ。こんなのは自分じゃないと言い出してこちらの話など聞いてはくれない。


 それは滑っているときの感覚と映っている自分の動きに差が大きいからだろう。そんなにきれいに動いていないのかと嫌になる。少しずつちぐはぐした動きの自分を動画で見るのは辛い。


 柚子はきっと自分が思ったとおりに動けているんだろう。そうでなくてはあんなに優雅に滑れるはずがないと思う。


 それに比べて自分は……。


 ただの憧れだけでフィギュアスケートの世界に飛び込んだのは小学4年生の時だ。テレビで見たこの世とは思えない動きに憧れ、自分もなれるのであればそうなりたいと切に願った。


 しかし飛び込んだ世界で見た現実は厳しいものだった。同じ歳の頃のひとたちがもうテレビの中の世界にすでにいたのだ。聞けば小学校に上る前からすでに練習していたというのだから当然なのかもしれない。


 そのことに結構落ち込んだりもしたし絶望もしたのだけれど、それでも続けられたのは柚子がいたからだ。同世代の中でもひときわ華やかで美しかった。


 私も柚子みたいになるんだ。そう思って高校まで続けてきたし、全寮制のスケートリンクが併設されている名門校までたどり着いた。それこそ柚子と同室になれるくらいにはなれた。


 でも……決定的になにかが柚子と違う。その思いは柚子に近づけば近づくほど大きくなっていった。


 それが先週のことに繋がっているなんて、思い返してみなくてもわかる。謝らなきゃいけないのもわかる。でも、それを認めてしまったら自分は、これからもここにいられるのだろうかという不安がどうしても拭いきれないでいる。


 晴海の心はここのところずっと今の外と同じように雨模様だ。


「ねえ。こんなところでなにしてるの?」


 目の前に急に現れた柚子にびっくりしすぎて言葉もでない。


「ねぇってば聞こえてる?」


 ヘッドホンを片方だけ外しながらもう一度柚子が覗き込んでくる。その整った顔立ちにいちいちドキッとさせられてずるいなとすら思う。


 動作のひとつひとつが洗練されている。ほんの些細なことでさえも。


「また、コーチから動画が送られてきたからチェックしてたところ」

「こんなところで?」

「柚子も洗濯物あるかもしれないから待ってたんだ」


 そっかとつぶやきながら、練習着をバッグのなかから取り出すと無造作に洗濯機に詰め込め始めた。


「今日雨だったもんね。いくらリンクの中でも湿気が多いよね」


 洗剤を適量とりだすとそれを洗濯機の洗剤入れに優雅に入れている途中でその手が止まった。


「あっ」


 どうしたのだろう。


「明日も雨かな?また部屋干ししないとかな」


 このところ雨続きだ。梅雨入りも近いかもしれない。だとしたら、明日も雨である可能性は高い。


「ちょっと調べるね」


 スマホの天気予報はやっぱり雨マーク。


「雨みたいだね」

「そっか。仕方ないね」


 必要な会話しかしないのはどこかしら気まずさが残っているから。


 言葉が続かないのは、先週のことを謝るかどうか悩んでいるから。


 まるで柚子との間に雨が降ってしまっていると思えるくらい洗濯機に水が流れていく音だけが聞こえていた。


 結局その日も謝ることはできなかった。

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