明日の天気

霜月かつろう

第1話

 氷を蹴る音はスケートリンク全体を包み込むように流れている音楽によってかき消されている。


 それでも、自身にはかすかながら聞こえて、音楽と合わさってリズムを刻んでいくのが心地よい。


 でも、映像で観ている自分の姿はちっとも気持ちよさそうじゃない。むしろ自身の中の違和感と戦うのに必死で、音楽も聞いちゃいないし、精一杯やってます。とアピールしているようにも見える。


 これじゃあ、注意されるわけだ。


「ねえ。明日の天気ってわかったりする?」


 どこからか声が聞こえたのでヘッドホンを外すと聞き慣れた音楽と氷の世界から、静けさ漂う2LDKのリビングに引き戻される。


「明日も雨じゃないよねー?」


 続けて透き通った声が響き渡った。ちらっとソファに座ったまま振り返るが声の主である柚子ゆずの姿は見えない。洗濯機を回そうか悩んでいるのだろうか。


 姿が見えないのをいいことに晴海はるみは手に持ったスマホに視線を戻す。


 そもそも明日の天気なんて興味もない。練習は室内だし、コーチに外を走ってこいと言われるか言われないかの違いだ。洗濯物だって室内に干せばいいと思う。多少匂いが気になるけれど、冷たいあの空間にいる間はそのことも気にならなかったりする。


「ねえってば。あれ?なに観てるの?」


 柚子ゆずが後ろから、手に持っているスマホを覗き込んできていた。前かがみになったことにより前の方に垂れてきた前髪の束を右手で耳まで運ぶその姿は同性から見ても色気というか妖艶さを感じる。スラっと伸びた手足がそうさせているのか、内面からにじみ出るなにかがそうさせているのか、晴海はるみには判断できない。


 そしてそれと同時、無意識下で自らの引き締まりきらない自分の身体と比べ心が重くなっているのを感じる。どうしておんなじようにトレーニングを重ねているのにこうも違った結果になっているのだろう。なにもそれは体つきのことだけではない。


「今日の練習の時のプログラムの動画。コーチが撮っていてくれたの」


 動画を送ってきたということは気になる点が多かったときであり、コーチの機嫌がいまいちのときだ。直接言うとくどくなってしまってそこばかりに意識が向いてしまうから自分で気がつくようにするんだ。


 それが当人の弁たが。晴海は単に面倒くさいだけなんだなと思っている。気をつけろと言わなければならない点が自分は人より多い。それがコーチにとっては少しだけ煩わしいのだろう。


「さすがねコーチは。ちゃんと良いアングルで撮ってくれてるじゃない。あっ。ここのジャンプだけど軸曲がってるね。踏み切りが早すぎるのかも。ほんの一瞬だけ遅くしたほうがいいかもね」


 後ろから少し覗いただけで何度も見ていた晴海が気がついていないことを指摘してくる。対象的に気をつけろ、と言われない柚子はやっぱり言われる前に気づけるんだと思う。


柚子ゆずはすごいよね」


 本人には聞こえないくらいの声量だったけれど、実際に音にしてしまったことに焦りを感じる。いつも思っていることだけに、こんなに素直に口から出てしまうとは油断していた。


「ん?何か言った?ほら、もう一度、戻して観てみようよ」


 その言葉に素直に従うのは、柚子の言っていることが正しいからであり、それを面倒だと思っている晴海だからだ。こうやって人に言われてようやく重い腰が上がる。


「……ねえ。柚子は調子悪いときってどうしてるの?」


 ジャンプの軸が安定しなく、当然着地も苦し紛れ。とてもじゃないけれどGOEでプラスを獲得することなんてできない。むしろマイナスを付けられてしまうはずだ。


 それに着地をきれいに決められていないってことは足への負担も大きい。それが続けば怪我にだって繋がることもある。


「調子が悪いとき?うーん」


 アゴに手を当てて考え始めてしまった。ちょっとアニメのキャラクターみたいな動きなのになんだか様になっているあたり柚子という存在のリアルさを引き立たせている。


「とりあえず何もしないかも。調子が悪いときが去るのをずっと待つの。あとは調子がいいときの動画を繰り返し観たり。イメージ重視かな。とにかく調子が悪いんだってことを自分で忘れようとするの。たから何もしないっていうのはスケートのことに対してってこと」


 なんともう優等生の思考なのだろうと、晴海は心が沈んでいくのがわかる。


「簡単でいいね」


 ポロッと思ったことを口にしてしまってからしまったと思ったし、慌ててフォローもしようとしたけれど、想像以上に表情を暗くしてしまった柚子を目の前にして言葉を失った。

 だからといって時を戻すことはできない。


「そう……だよね。簡単だよね」

「えっ。いやそうじゃなくて」


 手を振り続ける自分の手が鬱陶しいと晴海自身が思いながら、そうじゃなかったらどうだったんだ。そう頭に響く。


「ううん。大丈夫。ちょっと洗濯の続きをしてくるね」


 うん。と小さく頷いた。明日の天気……スマホに小さく表示されお天気マークは雨だった。

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