うつろう

西野ゆう

水色の空

 昔の梅雨つゆは、より梅雨らしかったと聞く。

 私の父が、彼の父から聞いた話だ。つまりは祖父からの伝聞なのだが、その祖父も誰ぞからの伝聞であるとすれば、果たして昔とはいつのことやらも知れない。

 さて、私には口を噤んでいることがある。以前、何気なく友人に口にしたことなのだが、その時に酷くいぶかしがられた。「何を気取っている」「普通に抗うのが好きか」など、心外な言葉を浴びせられたのだ。

 ――私は梅雨時が一番好きなのだよ。

 この場所で私はそう言った。今日と同じように、公園の真ん中にある小さな屋根の下のベンチで、屋根から連続して滴る露が絹糸けんしのカーテンを作るのを見ながら。

 友人は雨が嫌いだと言い、多くの者もそうだと断じた。それでも私は知っている。稀有であろう。だが、私と同じく梅雨を好いている者もいる。それを知っているがゆえに、私は決して自分の殻に閉じ篭ろうとはしなかった。


 長靴というものは、特別なものの象徴であるのだろう。

 水たまりというものもそうだ。

 そのふたつは常に対であり、お互いの為にお互いが存在している。

 絹糸のカーテンが薄くなってきた頃、目の裏に焼き付くような黄色い傘を肩に担いで歩く少女がいた。

「ちょひょーん!」

 正しくは何と叫んだのか。私の耳にはそう聴こえた。

「ひゃしゃーん!」

 彼女が叫ぶごとに、水たまりの水が減ってゆく。水たまりに飛び込んだ彼女は、叫ぶと同時に、水たまりの底から足を蹴り上げていた。

 終始機嫌が良さそうだった彼女が、何度目かの叫びの後、傘をその場にはらりと落とした。傘と同じく黄色い長靴に、水が入り込んだ様子だ。しかめ面でこちらに走って来たかと思えば、屋根の下で長靴の片方を脱ぎ逆さまにした。

 私の足元で乾いていたコンクリートが、魔法の杖を振るうかのように振った長靴から飛び出た雫で、水玉模様へと変わっていった。

 私のことなど気に止めず、再び長靴に足を入れた彼女が、別の水たまりに狙いを定めた。口を横にきつく結んで、目を輝かせている。

 さらに薄くなったカーテンを突き破って彼女が一歩を踏み出すと、目的の場所に向かう途中で足を止めた。

 紫陽花を眺めている。かと思えば、投げ出した傘を拾いに跳んで行き、再び紫陽花の前へ戻って来た。

「出てこーい」

 私に言ったのではないと重々承知している。だが、私も出て行った。彼女が誰に向かって言っているのか確かめたかった。

「えいっ、えいっ、えいっ」

 身体を左右に振りながら、難しい顔でそう繰り返している。彼女の視線の先に目を落とせば、紫陽花の上で緑色の小さな身体を左右に振っている者の姿があった。蟷螂かまきりの子だ。まだはねが伸びておらず、剥き出しになった尻をツイッと天に向けている。

 時折鎌を動かしながら、「えいっ、えいっ」と言う彼女の声に合わせて揺れている。いや、蟷螂とうろうの動きに彼女が合わせているのか。

 いずれにせよ、何かの儀式のように上体を揺らすふたりに、私も知らず知らず身体が動いていた。

「ぷわぁー!」

 子蟷螂が両方の鎌を天に伸ばした。彼女も傘を天に突き出し回転させた。気付けば空を飛ぶ水滴は、彼女の傘から放たれたものだけになっていた。

 彼女が空の全てを覆っていた黄色い傘を閉じると、傘から放たれた水滴が、黒い雲間に青空の欠片を呼んでいた。

 初めて彼女が笑っているのを見た。それまでも楽しく水遊びをしているのだろうと、彼女の声から勝手に想像していた私であったが、その笑顔を見てそれが誤りであったと気付かされた。

 水たまりを蹴り上げていたのは、戯れていたのではない。憎々しく攻撃していたのだ。彼女も、子蟷螂もまた、青空を欲していたのだ。私は途端に寂しくなり、公園を出て普段は行かぬ坂道を上り始めた。

 のろりそろりと歩を進める私を追い越し、人々はせわしなく歩いている。

 人々の邪魔にならぬよう、歩道の隅を下ばかり見て歩いていた私は、何度も街路樹にぶつかりそうになっていた。

 見上げれば、先程までよりもさらに青空が多く見られている。風が雲を運び去り、街路樹の葉を陽光で透けさせていた。

 その葉たちが、空から降りてきた風に揺らされた。

 葉先から零れた雫は、ぶつかる風で姿を変える度に、光を飛ばす向きを変える。

 やはり私は梅雨が好きだ。

 ゆっくりと降りる雫を見ながら、私はその美しさに首を伸ばした。

 すると、葉先から零れた雫は、私のはだかの首に落ちた。その冷たさに、私は首を縮ませた。

 その私に向かって駆け上がる足音が背後から聴こえてきた。駆け上がると言っても、軽快な足音ではない。餅をついているかのように「ペタンコペタンコ」と鳴っている。振り返らずとも正体が分かった。公園に居た長靴の少女だ。

 彼女は、私を追い越してすぐにクイッと直角に曲がった。なるほど、ここが彼女の家らしい。中から彼女のはしゃぐ声が聴こえた。

「すごーい! 虹みたーい!」

 虹というものは不思議なものだ。現れれば視線を奪われずにいられない。「虹だ」という声が聴こえれば、自然と太陽を背に空の橋を探す。

 この時も、気付けば私は彼女の家の窓辺に居た。申し訳ないと思わなくもなかったが、彼女の言う虹をひと目見たいと体が勝手に動いていた。

 当然、家の中に虹など出るはずもない。彼女自身「虹みたい」と言っていた。偽物の虹だ。

 それでも彼女はテーブルに両手をつき、椅子の上で何度もジャンプしてはしゃいでいる。テーブルの上には、なるほど虹の雫のように様々な色をしたジェリービーンズが、真っ白いコーンスターチの雲に散りばめられている。そのうちのひとつに、彼女が手を伸ばした。

「あたし空色!」

 彼女がそう言って摘まみ上げたのは、空色ではなく水色のジェリービーンズだった。

「それは空色ではなく、水色と言うのだよ」と私が心の中で呟くと、まるでその言葉が聴こえたかのように彼女が言った。

「水色と空色っておんなじなんだよ。水が空をうつしているからおんなじなんだよ」

 それもそうだ。しかし、わたしにとってはやはり水色だ。そんなことを雲がすっかりなくなった空を見上げながら考えていると、窓が開けられ、少女が私の目の前に顔を覗かせた。

 あまりの驚きに頭を隠すことさえ忘れた私の目の前に、七つの色でアーチを描いたジェリービーンズが置かれた。

「でんでんむしもジェリービーンズ食べるかな?」

 少女が頬杖をつき、好奇に満ちた瞳で私を見ている。

「食べやしないよ。ただ、せっかくだから虹の橋を渡らせてもらうとしよう。こんな経験は滅多にできそうもない」

 私はそう言って、小さな虹を渡った。水色の空の下で。夏を迎えた世界の上で。

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うつろう 西野ゆう @ukizm

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