?日目
最終話.君を呼ぶ
町の雑踏の中。
緩やかにウェーブがかった髪を揺らして、少女は歩いている。
そろそろガス灯にも明かりが灯る時間帯なので、家に帰らなければならない。
路地で出会った黒猫を撫でていたら、いつの間にか夕方近くなっていたのだ。誘惑するようにお腹を出して伸びてみせるものだから、心置きなく撫でさせてもらえたのは良かったのだが。
「ええと、ええと。残りのお買い物は、と……」
母親から渡されたメモを取り出して、上から順に見ていく。
夕飯の買い物はほとんど済ませたはずだ。あとは――、
「そうだったわ。明日の朝食のパン!」
こんがり焼いたチーズを載せた白パンは、少女の大好物でもある。
成人したら、チーズをつまみにワインで乾杯しようと父と約束した。
あと半月で、少女は成人を迎える。いよいよそのときが迫っていると思うと、わくわくと胸が弾む。
「……あら?」
ふと、道路を渡っていた馬車から視線を感じた。
貴族の家紋が入った立派な馬車だ。乗合馬車にしか乗ったことのない少女にとっては、ほとんど別世界の乗り物である。
気のせいだろうと思ったが、直後にその馬車が道の端で停止した。
なんとなく立ち止まっていると、馬車のドアが開く。
踏み台をすっ飛ばして下りてきたのは、黒髪の紳士だった。
(まぁ。なんだかとっても慌てているみたい)
何か、馬車から落とし物でもしたのだろうか?
そう思った少女は、きょろきょろと石畳の上を見てみたが、それらしいものはない。
見つけて届けようと思ったのに、役立てそうもない。そう思っていると、頭上に影が差した。
顔を上げると、その男性と目が合った。
艶めく髪。憂いを帯びた紅い瞳。
整った鼻梁に、わずかに開かれた薄い唇――。
「ひゃっ」
びっくりして、少女はたたらを踏む。
男は目を見開き、白手袋に包まれた手を伸ばそうとしたが、寸前で動きを止めた。
行き場をなくした手の先で、少女が限界まで目を見開いていたからだ。
「驚かせてすまない。令嬢の姿が、私のよく知る人と似ていたものだから」
申し訳なさそうに、男が頭を下げる。
そうしながら、窺うように少女のことを休まず観察している。
「…………」
だが、少女は反応を返せない。
手にした大きな紙袋に隠れるように、男を怖々と見ているだけだ。
次第に。
男の顔には、隠しようのない落胆が広がっていく。
それでも何か、意味のある言葉を紡ごうとしたようだが。
「……いや、気のせい……だな。すまない、すぐに去ろう」
力なく呟き、男は踵を返す。
遠ざかっていく背中に、少女は声をかけた。
「お待ちくださいませ」
男が立ち止まる。
だが、いつまでも振り向こうとはしない。まるで、現実を思い知るのを恐れるように。
しかしそんな男にも、少女は容赦なく言う。
「あの、本当にびっくりしたのですが」
「……それは、悪いと思っている」
苦虫を噛み潰したような声音。
少女は小首を傾げて、穏やかに微笑む。
「生まれたときから、誰かの呼ぶ声が聞こえていましたの」
「…………」
戯れ言だと思っているのだろう。唇を引き結んだままの男は、言葉を返さない。
少女は、噛み締めるようにゆっくりと続ける。
「切なそうに、愛おしそうに、何度もわたくしを呼ぶのです。どんな顔の方かしらって、ずっと気になっていたのですが……想像以上に格好良くて、びっくりしてしまいました」
男の肩が、ぴくりと跳ねる。
「ずいぶんとお待たせしてしまいましたもの。髪の毛とか顔とか体型とか、崩れていてもおかしくないですのに、以前より格好良くなっている気がして本当にびっくりしま――いいえっ。どんな御姿に変貌なさっていても、もちろんわたくしの気持ちに変わりはありませんがっ」
聞いてもいないのに、ぺらぺらとよく喋る声。
男は振り返る。ようやく見つけた希望を確かめるように、目を眇めている。
どこか、まぶしそうに。
「……君は」
青空の色をした瞳を蕩けるように細めて、悪戯っぽく微笑む。
彼女の動きに合わせて、ピンクブロンドの髪がガス灯の下で揺れる。
「良かった。ようやく、こちらを見てくださいましたね?」
ナターニアという名の少女は、エプロンドレスをそれっぽくつまんでみせると。
しとやかに挨拶の礼をとった。
「――初めまして、わたくしだけの旦那さま」
その二秒後。
華奢な身体が男の腕に包まれていたのは、言うまでもないことだろう。
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これにて完結です。読んでいただきありがとうございました。
近況ノートに、ちょこっとした本作の解説を置いてあります。
新作もよろしくお願いいたします。
⇒薬売りの聖女 ~冤罪で追放された薬師は、辺境の地で幸せを掴む~
https://kakuyomu.jp/works/16817139555012676363
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