第24話.光射すほうへ
『――やぁ。ナターニア』
ナターニアは目を開ける。
見渡す限り、どこまでも白い空間。
目の前には、一匹の子猫がふよふよと浮いている。
顔はとても小さくて、青色の目はアーモンドの形をしていて。
黒い毛はもふもふと、もふもふーと生え揃っている。
『ごめんね。期限が早まっちゃった。もう少し、時間をあげたかったんだけど』
「……謝ることなど、ありませんわ」
ナターニアは、そう首を振る。
否、もう振る首はない。ナターニアはまた、身体を失っていた。
とうに失ったものだから、致し方のないことだ。それでも、悲しいと思う。
まだやり残したことがあったから。
「力を尽くして、わたくしと旦那さまに奇跡を授けてくださったのですね?」
『……ほんの気まぐれだよ。君が気にする必要はない』
お猫さまは、こんなときも素っ気ない。
だが、言葉の後半にその心情が表れている。きっとナターニアには理解できないほどの苦労や無理をしたのだろうに、気遣わなくていいと。
「ありがとうございます」
下げる頭もないから、声だけに力を込める。
お猫さまは目を細めて、『気にしないで』と重ねて言った。
「わたくし、生まれ変われるでしょうか?」
胸に残るのは、アシェルとの約束だ。
さて、とお猫さまが首を傾げる。
『魂というのは巡ると言われているけど、人間になるかは分からないよ。動物とか植物とか、鉱石とかに生まれ変わることもあるだろうね』
「…………」
『でも、そうだな。――何かの手違いで、前世の記憶が残ることもあるかもしれないよね』
震える声で、ナターニアはもうひとつの問いを重ねた。
「あなたも、生まれ変わるの?」
『……ぼく?』
こくり、とナターニアは頷く。
お猫さまの耳が、ぴくぴくと動き、目線が宙を彷徨う。
『んー……あんまり自分については、語っちゃいけないルールなんだよねぇ』
困った様子で、前足を舐めている。
毛繕いをすることで、お猫さまは心を落ち着かせようとしている。
『まぁ、ぼくは名前もないからね。喋ること自体、あんまりないんだけどさぁ……』
「ケヴィンよ」
お猫さまの舌の動きが止まる。
持ち上げられていた前足が、ゆっくりと下りる。
そんなお猫さまのことを、ナターニアは瞬きもせずに見つめていた。
『……え?』
「あなたの名前、ケヴィンというの。旦那さまと二人で考えた名前よ。女の子だったら、別の名前を用意していたの」
まんまるに見開かれた硝子玉のような瞳。
戸惑いの隙間に、押し殺そうとしても浮かび上がる期待と高揚が見え隠れしていた。
『……なんで……いつ、気づいたの?』
「最初からよ」
ナターニアの言葉に嘘はない。
一目見た瞬間に、気がついていた。
アシェルの黒髪と、ナターニアの青い瞳と同じ色を宿した子猫。
幼げだけど、二人の事情に通じていて、初めて会ったときからナターニアに優しかった。
照れるとそっぽを向いて誤魔化すところは、アシェルに似ている。
お人好しなところは、ナターニアに似ているかもしれない。
「ケヴィン。人に向かってあなたを投げつけたりして、ごめんなさい」
言ってから、謝るべきはそんなことじゃないのだと、ナターニアは唇を噛む。
涙で声が情けなくにじむ。もう眼球だってないはずなのに、視界は膜がかかったようにぼんやりしていく。
(ケヴィン。ケヴィン。ケヴィン)
最後の日に、どんなにいやがられたって抱きしめようと決めていた。
でもナターニアにはもう身体がない。ケヴィンを抱きしめてあげられない。
なんの温もりも分けてあげられない。それだけがどうしても、心残りだった。
「ごめんね、ケヴィン。産んであげられなくて、ごめんなさい。それなのに……わたくしに会いに来てくれて、ありがとう」
そこまでが限界だった。
耐えられずに、わあわあと声を上げてナターニアは泣いた。
「ごめんなさいぃ……! ケヴィン、ごめんねえええ……っっ!」
アシェルと抱き合って、たくさん泣いて、すっかり枯れ果てたのだと思っていた。
それなのに、次から次へと涙が溢れる。どろどろに全身が溶けそうになる。
身体があったなら、涙どころか鼻水も垂れて、とんでもない有様になっていただろう。
そうして子どものような泣き声に、それこそ子どもの泣き声が加わる。
そこに居たのは猫ではなかった。母親から受け継いだ青い瞳を涙でいっぱいにして、幼いケヴィンが泣き喚いていた。
『……ママぁ。ママぁ!』
「ケヴィン……!」
『謝らないで。謝ったりしないで。ママ大好きだよ。ママ、泣かないで。ママぁ』
必死に言い募りながら、駆け寄ってきたケヴィンが抱きついてくる。
ナターニアはもう、人の形をしていないのに。
そんななれの果てをケヴィンは小さな手で抱きしめて、わんわんと大泣きしている。
『ママ大好き。ママ泣かないで、ぼく怒ってないもん。ママ、大丈夫だよ』
熱いしずくが、何度もナターニアに降り注ぐ。
ぽたり、ぽたりと温かい涙を受け止めるたび、胸に愛おしさが募っていく。
黒い髪を撫でてあげたい。青い瞳を見つめ返してあげたい。
募るばかりの思いは、膨らんで、悲しくて、切なくて、弾けてしまいそうだとナターニアは思う。
『ママ、何度もぼくのこと呼んでくれたよね。ぼくのこと優しく撫でてくれたよね。ぼくのこと大好きだって言ってくれたよね』
「だって、だってだって、大好き、だものっ」
『呼んで。ママ。ぼくを、もう一度呼んでくれる?』
ずずっ、とナターニアは鼻を啜る。
「ケヴィン。可愛い子。わたくしたちの小さなケヴィン」
震えて、つっかえて、聞き取りにくい声だ。
それでもケヴィンは嬉しそうだった。ナターニアを抱きしめる手に、ぎゅうと力が籠もる。
涙が落ち着くまで、しばらく二人でそうしている。
『ママ。ずっとぼくは、知りたかったんだ。……ママは、ちゃんとパパのこと、好きだったのか』
「大好きだったわ」
ケヴィンは、不安だったのだろう。
自分は望まれた子どもだったのか。だからアシェルを疑うようなことを何度も口にしていた。
「パパもママのこと、愛してるって言ってくれたわ」
『うん。今は、ちゃんと分かったよ』
でも今は、その表情に心配の色はない。
ケヴィンがナターニアに、頬を寄せる。頬擦りをして、舌っ足らずにナターニアを呼ぶ。
『ママに会いたい』
「会えるわ。何度だってあなたを呼ぶもの。だからケヴィンも、もう一度――私たちのところに来てくれる?」
少しだけ躊躇ってから、こくりとケヴィンが頷く。
『ぼく、行くよ。行きたいんだ。ママとパパのところに』
見据える先には、白い輪っかのようなものが浮かんでいる。
「一緒に、行きましょうか」
『うんっ』
二人はしっかりと手を繋いで、歩き出す。
待ち受けるように光るそれは、出口だろうか。それとも何かの入り口なのか。
あるいは、この先に待っているのは暗闇だろうか。
それとも――もっと恐ろしいものが、待ち受けているのだろうか。
(だけど、越えた先には)
ナターニアがもう一度会いたいその人が、待っているはずだから。
握った手に力を込める。ケヴィンも懸命に握り返してくれる。
ケヴィンと一緒に居ると、失ったはずの身体をほんのわずかに感じられる。
『ママ、怖くない? 大丈夫?』
こんなときにも、ケヴィンはナターニアを気遣ってくれる。
その優しさに、胸の真ん中がきゅうとして、ナターニアはふるふると首を振った。
「ママ、平気よ。ケヴィンは?」
『えー。ママと一緒だもん。なんにも怖くないよ』
「ママも、ケヴィンが居るから大丈夫」
くすくすと笑い合いながら。
二人は、光の輪へとまっすぐに進んでいった。
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