第23話.誓いの言葉

 


 ナターニアはアシェルの広い背中に、そっと手を回す。

 アシェルの鼓動を聞いている間だけは、取り乱さないでいられると思ったのだ。


 その手に、何か察するものがあったのかもしれない。

 アシェルが、ナターニアの耳元に呟いた。


「君に、大切な言葉を言えてなかったな」


 ナターニアに後悔があったように。

 アシェルにとっても大きな心残りがあったのだと、その一言だけで伝わってくる。


「ナターニア。君を愛している」

「……はい」


 アシェルの告白を、ナターニアは全身で受け入れる。

 彼の体温。温もり。汗ばんだにおい。そのすべてを忘れたくなくて、夢中で息を吸い込む。


「生涯、君だけを愛し続ける」

「……それは、駄目です」


 アシェルの身体が硬直した。

 ナターニアの首の後ろに回されていた腕が、痙攣するように震えている。

 その隙をついて、ナターニアは少し身体を離し、上目遣いにアシェルを見上げた。


(やっぱり、旦那さまは格好良い)


 逞しい腕に抱きしめられるのも好きだけれど、彼の整った顔を見ているのも大好きだ。

 だがその顔が、今は絶望のあまり固まっているのだが……。


「駄目?……なぜだ?」


 聞き返すアシェルの声は震えている。


「どなたかと再婚してください、旦那さま。それが言いたくて、幽霊になってまで戻ってきたのです」


 少しだけ、アシェルは考える素振りを見せたかに思われた。

 だが、結果、ナターニアは呆気なく断られていた。


「許してくれ。それだけは聞くことができない」

「え? ど、どうして――」

「誰とも再婚なんてしない。俺の妻は今までもこれからも、君だけだ」

「……っ」


 説得しようと開きかけた唇を、ナターニアは閉じる。

 思えばアシェルは、頑固な人だった。たった一年の夫婦関係だったけれど、ナターニアはよく知っている。

 アシェルがそう決めたのなら、彼は自分の決断を覆すことはない。


 だからナターニアが、諦めることにする。

 諦めて、ただ、アシェルの肩に寄り掛かることにする。


「本当に、誰よりも優しくて、不器用な旦那さまですね?」

「不器用で悪かったな」

「いいえ。……そんなあなただから、わたくし、大好きなのですわ」


 愛おしくて、たまらない気持ちになる。


「ナターニア……」


 アシェルはそれ以上は何も言わず、抱きしめてくれた。

 腕の震えに、喉の引きつりに、ナターニアは気がつかない振りを決め込む。


(……あなたと一緒に、時間を刻んでいきたかった)


 どこにも居ない神さまは、なんて残酷なのだろうか。


(ゆっくり、ゆっくり、思い出を重ねていきたかった)


 子どもを無事産んで、体調も安定してきたら、三人で出かけるのが夢だった。

 二人と手を繋いだら、きっと身体の奥底から力が湧いて、どこまでだって歩いていけたはずだ。


(地縛霊になったっていいから、傍に――)


 そこで、我に返る。


(……駄目だわ。それだけは、選んじゃいけない)


 青目をした黒い子猫のことを、頭に思い浮かべる。


 ナターニアが道を外れた存在にならないように、あの子は力を貸してくれたのだ。

 その思いを、ナターニアだけは裏切ってはいけない。最初に、


 そう思い出した瞬間だった。

 身体の感覚が、塗り替えられていた。


「どうした」


 異変に気がついたアシェルの、その腕からナターニアがすり抜ける。

 焦ってアシェルが手を伸ばすが、届かない。どんどん浮き上がっていく。


「ナターニア……!」


 アシェルが愕然と目を見開く。すでにナターニアの身体に、触れられなかったのだ。

 終わりの時間が唐突に訪れたことを、二人ともが察する。


 しかし最後の日となる七日目も、日付が変わる頃に意識が消える――そうお猫さまは言ったが、まだ七日目の早朝だ。


(やっぱり、何かあったんだわ)


 お猫さまがここに居ないこと。ナターニアとアシェルが会話できたこと。

 この変化も、それによって生じたのかもしれない。


「す、すみません旦那さま。身体が勝手にっ」


 慌てるナターニアは、手足をじたばたさせている。

 窓は開いていないのに、風が巻き起こったかのように髪とスカートが空中に広がっている。

 しかも全身からは神々しいほどの光が放たれている。その光景は、アシェルに向かって、ナターニアがこの世のものでないと知らしめているようだった。


 だが、当の本人は両手を頬に当て、きゃあきゃあと騒いでいる。


「お、お猫さまから聞いてはいたのですが。まぁ、本当にすごい! 宙に浮くのってこういう感覚なのですね……! しかも身体が何やら、光っているような気がいたします……!」

「……君は相変わらず、呑気だ」


 脱力しつつ、アシェルはそんな妻を見上げる。

 というかお猫さまって誰だ、と訊きたかったアシェルだが、今やそれを確認する時間もないのは分かりきっていて。


「ナターニア!」

「は、はい。旦那さま!」


 きりりとした声で呼ばれ、さすがのナターニアも表情を引き締めると。

 アシェルは、よく通る声音で言い放った。


「君が生まれ変わったら、必ず見つけてみせる」

「え……?」


(生まれ変わり?)


 思いも寄らない言葉に、ナターニアは沈黙する。

 今までそんなこと、考えてもいなかったのだ。死んだら、そこで終わってしまうと思い続けていた。

 だからアシェルの再婚相手だって、本気で探していた。


 でもアシェルは、当然のように続ける。なんの不安もなさそうに言ってのける。


「君がどんな姿をしていても、どんな声をしていても、俺が見つけるから」


 アシェルが、ナターニアに向かって手を伸ばす。

 その手を、呆然とナターニアは見つめた。


「旦那さま。わ、わたくし……」


 喉が詰まって、うまく言葉が出てこなくなる。


 そんなことを約束していいのか。死後、人が本当に生まれ変わるかどうかなんて分からないのに。

 軽はずみに同意し、約束を交わしてしまえば、アシェルをまた縛ってしまう。

 すでに彼の一年間を、ナターニアは奪ったのだ。だが次は、一年では済まされない。


 アシェルの輝かしい人生ごと、ナターニアが台無しにしてしまうかもしれない。


(駄目だと、言わなければ)


 ナターニアは断ろうとした。

 でもアシェルの深紅の瞳を見れば、言えなくなった。


 唇を結び、目に力を込めたアシェルは、頑なにナターニアを見つめている。

 すぐに分かった。言葉こそ力強かったけれど、アシェルだって不安に決まっているのだ。ただ彼はナターニアを安心させようとしていただけ。必死に、気丈に振る舞っているだけ。


(……言えるわけ、ありません)


 きゅう、と胸が疼く。目の奥と、鼻の奥が熱くなっていく。


(だって、わたくし、嬉しいと思っているのだもの)


 これを最後にするつもりはないと、アシェルは言ってくれたのだ。


 どうしよう、とナターニアは思う。

 心震えるほどに嬉しくて、わけがわからないくらい、幸せだ。


「……旦那さま」


 ナターニアは微笑んで、アシェルに向かって手を伸ばした。

 触れ合わずとも、確かに彼を感じる。

 こぼれる涙は光の粒となり、次々と黄金の鳥となって目元から飛び去っていった。


 二人を祝福しているかのような光景を前に、思う。


(まるでもう一度、結婚式をしているみたい)


 あの日、よく晴れた空の下を、白鳩が飛んでいた。

 しばらく眺めていたナターニアが、視線に気がついて振り向くと、アシェルが顔を逸らしたのを覚えている。


 照れる彼の手を、そぅっと握った。

 この人とこれからの人生を共にしていくのだと、胸に刻んだ日と同じ。



「絶対に、生まれ変わります」



 これは約束ではない。誓いだ。

 何がなんでも果たすために、言葉にしてアシェルに思いを返す。


「生まれ変わっても、人じゃないかもしれません、けれどっ」


 口にしている間に、胸がはち切れそうになる。

 ぼろぼろと涙がこぼれて、止まらなくなる。不細工な顔をしている自覚はあったけれど、どうしようもない。


「男の人かもしれませんし、牧場の牛かもしれませんし、野原に咲く花かもしれませんし、旦那さまに集る一匹の虫かもしれませんけれどっ」


 アシェルは愛おしげに目を細めている。

 その瞳からも、熱いものが流れていた。


「ああ。いいよ」

「……っだから、そのときは!」


 他の誰かじゃない。

 誰かに取られるなんて、いやだ。最初からいやだった。


 こんなに優しくて素敵な人。

 誰かに譲るなんて、できるはずがないから。


「わたくしを、もう一度……あなたの妻に、してくれますか?」


 力を振り絞って、ナターニアは両手を伸ばす。

 浮き上がっていた身体を、もう一度だけ、柔らかな温もりが包んでくれた気がした。


「当たり前だろう」


 物が少ないアシェルの部屋にも、アネモネの花が飾ってある。


 赤のアネモネは愛。白のアネモネは期待や希望。

 ピンクのアネモネは、あなたを待ち望む――。



「大好きです、旦那さま」

「ずっと待ってる。俺のナターニア」



 その言葉が最後に聞こえて。

 ナターニアの意識は、透き通った身体と共に、どこかへと溶けていった。



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