第22話.果たせなかった約束
「……うそ」
振り返ったナターニアは、呆然と見返す。
視線と視線が、まっすぐに合う。
それは、アシェルの目が確実にナターニアの姿を捉えている証明だった。
「旦那さま。わたくしが……見えるの、ですか?」
「見える」
問いには、間髪容れず答えが返ってくる。
「柔らかく光る、ピンクブロンドの髪も。青空のように澄んだ瞳も。雪のように白い肌も……すべてが美しいナターニアだ」
「ま、まぁ。旦那さまったら」
ぽぽっとナターニアは頬を染めた。
あり得ない事態に混乱しているのか、朝っぱらだというのにアシェルはやたらと情熱的になっている。
(本当にわたくしが見えているみたい)
……だけど、とナターニアは思う。
奇跡には限界がある。お猫さまは最初にそう言ったのだ。
――『君の後悔と直結するあの男だけは駄目なんだけどね』
幽霊になり、愛する人のところに一時的に戻ってこられても、アシェルに声を届けることはできない。
あの言葉に嘘があったとは考えられない。お猫さまには嘘を吐く理由がないからだ。
それと同時に、確信が芽生えていた。
(お猫さまが?)
ここには居ないお猫さま。清らかな子どものような声をした、青い瞳を持つ黒い子猫。
お猫さまがナターニアたちのために、何か、この世の理のようなものを一時的に歪めたのかもしれない。
そうでなければ、アシェルと視線と言葉を交わすなんてできなかったはずだ。
「生きていたのか、ナターニア。本当に君が……信じられない」
ふらつきながら、アシェルがベッドを下りる。
まだ本調子ではないのだろう。すぐに足元がぐらつき、倒れ込みそうになるアシェルにナターニアは手を差し伸べた。
受け止めようとして、ナターニアの細い身体では支えきれずに、二人で一緒に絨毯の上に倒れ込む。
「きゃあっ」
「……っ!」
寸前のところで、ナターニアの後頭部をアシェルが支える。
触れ合うほど傍に、アシェルの整った面立ちがある。
切なげに細められた瞳と目が合い、ナターニアは大慌てで彼の腕の中から抜け出した。
お尻を動かして壁際まで後退する。
「あっ、ありがとうございます、旦那さま」
「…………」
ややショックそうに黙り込んでいたアシェルだが、気を取り直したように言う。
「いい。いいんだ。君が生きているなら、なんだって」
「……いいえ、旦那さま。わたくしは幽霊なのです」
信じたくないというように、力なく座り込んだアシェルが首を横に振る。
「感触がある。こうして姿が見えるし、声も聞こえるだろう?」
「旦那さま。わたくしは死んだのです。苦手なお魚を食べて、身体が過敏な反応を起こして死んでしまったのだそうです」
「……違う。君は、ここに居るじゃないか」
否定する声はどこかぎこちない。アシェルも気がついているはずだ。
触れ合ったとき、確かに感触はしたけれど……ナターニアの身体は透けていて、生きていた頃と同じではない。
お猫さまが奇跡を起こしてくれたとしても、ナターニアが生き返ることだけはあり得ない。
(わたくしは、もう、旦那さまの傍には居られない)
分かっていたはずの事実が胸に広がっていったとたん。
ナターニアの頬を、自然と涙が伝っていった。
「…………ごめんなさい」
急に泣き出したナターニアに、アシェルは当惑したように眉を下げる。
「どうして君が謝るんだ」
「あなたに、家族を……作ってあげたかったのに」
ナターニアは両手で顔を覆う。
それでも、次から次へと込み上げてくる。押し寄せてくるのは荒れ狂うような後悔だ。
スーザンには、笑顔だけを見せるよう心がけていた。
ナターニアは幸せに死んでいったのだと、そう思ってくれれば満足だった。それがナターニアにとっても救いだったから。
だけどアシェルを前にすると、どうしたって歯止めが利かなくなる。
心の奥底に眠っていた本心が、最後に彼の目に触れたいと泣き叫ぶ。浅ましい欲が顔を出してしまう。
「たったひとりきりで……ひとりぼっちにして、ごめんなさい。約束を守れなくて、ごめんなさい」
「……あの約束は、やはり、俺のためのものだったのか」
アシェルの声が、ずいぶんと近い。
ナターニアはどきりとした。髪の毛に、触れる手の感触がある。
アシェルが撫でているのだと気づくのに、そう時間はかからなかった。
顔を上げる。
屈み込んだアシェルが、泣き続けるナターニアの顔を覗き込んでいる。
「……っ」
壁とアシェルの間に挟まれたまま、ナターニアは呼吸を止めていた。
ピンクブロンドの頭をアシェルが撫でつける。一緒に寝るとき、いつもそうしてくれたのを知っている。
ナターニアが眠っていると確認してから、アシェルはそうやってこっそりと撫でてくれたものだった。
「嫁いできた夜……女に生まれたからには、子どもを産みたいから協力してほしいと君は言ったな。必ず産んでみせるからと」
「……はい。言いました」
子どもを望んだのはアシェルではなく、ナターニアだった。
同じ寝床に入りながら、アシェルはナターニアに触れようともしなかった。
だからナターニアは自分からアシェルのほうを向いて、彼に縋りついた。子どもがほしいと頼み込んだ。告げた理由は、それっぽく取り繕ったものだったけれど。
涙と一緒に、飾り気のない言葉が唇からこぼれ落ちる。
「わたくし、旦那さまに、幸せになってほしかったのです」
――どんなに望んでも、自分は長くは傍に居られないと知っていたから。
どうしても、アシェルとの間に子がほしかった。
その子を、アシェルは大切にするだろう。アシェルもその子を大事にするだろう。
尊い未来を命がけで望んでいた。その光景を残すためならば、なんでもできると思った。
でも、ナターニアはお腹に子どもを抱えたまま死んでしまった。
夫婦の間で交わされた、たったひとつの約束すら守れなかった。
不義理だと罵られることを覚悟していた。
ぐっと唇を引き結ぶナターニアの額に、柔らかな吐息がかかる。
「……ナターニアは、鈍感だな」
「ど、鈍感……ですか?」
びっくりするナターニアに、アシェルは「そうだ」と頷く。
なんだかちょっと拗ねたような、幼げな表情だった。
「俺は、君に会えて、夫婦になれて……その、とっくの昔に幸せだったんだが」
「――、え?」
思いがけない言葉に、一瞬、完全にナターニアの思考は停止する。
(幸せ、だった?)
「いや……ちゃんと伝えていなかったから、そのせいだな。結局、悪いのは俺か」
アシェルが溜め息を吐く。
髪に触れていた手が離れていく。
「君が居なくなって初めて、君が好きな花の名前を知ったくらいだ。俺は君のことを、なにひとつ分かろうとしていなかった」
「っ違いますわ、旦那さま」
このまま仕舞われてしまいそうな手に、ナターニアは飛びつくようにしがみついた。
アシェルは誤解されやすい人だ。
でも彼がどれだけ優しい人なのか、ナターニアだけは知っている。
「旦那さまは……今までわたくしに、お見送りも許してくださいませんでしたよね?」
まさか幽霊になってまで、その件について掘り返されると思わなかったらしい。
アシェルの目が気まずげに泳ぐ。だが、生真面目なアシェルは最終的に肯定した。
「それは……君に、つまらないことで負担をかけたくなかったから」
しかしナターニアが指摘したいのはひとつではない。
「ダイニングルームに呼んでくださることもなくてっ」
「俺の顔なんて見たって、食事がまずくなるだけだと思って」
「わたくし、デートに誘われることもありませんでした!!」
「……共寝しただけで失神するような妻を、外にまで誘えない」
答えるアシェルの顔は真っ赤だった。
ナターニアの頬にまで一気に熱が上る。しがみついた手に、ぎゅうと力をこめてしまう。
「だ、旦那さまったら破廉恥です!」
「夫婦なんだから、これくらい別にいいだろう」
「ま、まだ朝ですのにっ」
「……夜ならいいと?」
「旦那さまっ」
もう、恥ずかしすぎてナターニアはカーテンの裏に隠れたい。
だけれど、ナターニアは隠れられなかった。
逃げようとしたナターニアの手を逆に絡め取ったアシェルが、その胸にナターニアを抱きしめていた。
あんまり強く抱きしめるから、壊れてしまうかもしれないと思った。
だが、アシェルがそんな風に、力の限りナターニアを抱いてくれるのは初めてのことで。
ただ、身を委ねて目を閉じる。
(…………心臓の、音)
とく、とく、とく、と速いリズムで刻まれる、鼓動の音。
アシェルの音。生きている人間の音。それを聞いていると、ナターニアは思い知る。
やっぱりナターニアの心臓は動いていない。時計の針は、とっくに止まってしまっている。
どうしようもなく、怖かった。
もうきっと、時間はあまり残されていないと分かったから。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます