7日目
第21話.最後の朝
閉じていた目蓋に刺激を感じる。
目を開けると、なだれ込むように雨の滴が入り込んできた。
針のような雨が降りしきっている。
どうやら崖から足を踏み外し、今の今まで気を失っていたらしい。
……俺は何をやっているんだ、こんなところで。
身体中に痛みが走っている。
落下のときに手をついたせいか、左腕が折れているらしい。頭も打ったのか、ひどく痛む。
歯を食いしばりながら、必死に身体を起こした。
全身はずぶ濡れで、身体に震えが走る。
だが、休んでいる場合ではない。骨折した腕を固定する木の板を探す余裕もない。
泥にまみれた重い外套を、引きずるようにして歩き出した。
彼女は今も苦しんでいる。
それなら、こんな痛みはなんでもない。
しかしどんなに探し続けてもエルフの秘薬は見つからなかった。
なんの収穫も得られないまま、致し方なく屋敷へと一度戻ることにする。
――そこで、冷たくなった彼女だけが待ち受けていた。
◇◇◇
七日目の朝が来た。
(今日が、最後の日なのですね)
煉瓦造りの邸宅を見上げながら、ナターニアは思う。
昨日、侯爵家に戻ってきたスーザンは、すべての事情を使用人たちに打ち明けた。
(もちろん、
解毒薬だと差し出されたそれを彼らも訝しんでいたが、スーザンが嘘は吐いていないと信じてくれた。
薬を飲むとアシェルの症状は落ち着き、順調に回復の兆しを見せ始めていた。
今、スーザンは空き部屋に閉じ込められている。
だがアシェルなら、厳しい処分を下したりはしないはずだとナターニアは信じている。
あれからアシェルはまだ、意識を取り戻していない。
昨夜、ナターニアはずっと彼の傍に居たけれど、日付が変わると同時に、また意識が途切れてしまった。
――そして、ナターニアは最後の夢を見た。
厳密には夢ではなくて、生前の記憶を整理しているのだそうだが、ナターニアにとってそれは夢と同じだ。
最期の日の夢だ。
枕元にはスーザンだけが居て、ひゅっひゅ、ぜえ、ぜえ、と途切れる呼吸の合間、ナターニアは必死に言葉を紡いでいた。
――『……スーザン、どう? 今、わたくしはきれいに笑えているかしら?』
――『だってわたくしが死んだあと、旦那さまは私の顔を見るでしょう?』
――『そのとき、苦しそうな顔とか、悲しそうな顔をしていたら、お優しいあの方の重荷になるわ』
――『それに、わたくしだって女なのよ? 妻らしいことは、できなかったけれど……最後くらい、俺の妻はきれいな女だったのだって、旦那さまに誇りに思ってほしいの』
(ちゃんと、わたくしは最後まで笑えていたのかしら?)
アレルギー症状というのは本当に辛いもので、呼吸が苦しいあまり、ちゃんと笑えていたか自信がない。
だがナターニアの身体はすでに土の中。今は信じるしかない、と思うナターニアだ。
「ね、お猫さま。お猫さまはどう――」
ここ数日のクセで話しかけたナターニアは、そこで口の動きを止めた。
周りを見回す。色とりどりの花が咲く庭園。その中に、見慣れた黒猫は浮かんでいない。
「……お猫さま?」
夢を見たあと、決まってナターニアは屋敷の前に佇んでいる。
そうするとどこからともなくお猫さまがやって来て合流していたのだが、今日はいつまで経ってもお猫さまが現れない。
だが、ここでいつまでも待ってはいられない。
というのも、アシェルの様子が気になる。もちろんスーザンの解毒薬だ、効力は抜群だと信じているが、彼が目を覚ますところをこの目で見なければ安心できない。
「どうしましょう。書き置きとかすべきかしら?」
と思うナターニアだったが、そういえば自分はお猫さま以外の何かに触れたりできないのだ。
「うぅっ……ごめんなさい、お猫さま! わたくし、旦那さまの様子を見に行って参りますね!」
どこかに居るだろうお猫さまに聞こえるよう、声を張り上げて空に向かって叫ぶと、ナターニアはドアをすり抜けて邸宅に入っていく。
アネモネの花に出迎えられながら、ナターニアは階段を上っていく。数人の使用人とすれ違うが、彼らの話を聞きかじると、まだアシェルは目を覚ましていないようだ。
祈るような気持ちで、ナターニアは廊下を足早に抜ける。
昨日、初めてアシェルの部屋の位置を知った。三階の角部屋だ。
生前は一度も、この部屋を訪ねることもなかったから、そんな場合でないと分かっていても少々ドキドキしてしまう。
「失礼いたします、旦那さま」
わざわざ声をかけてから、ナターニアはドアをすり抜ける。
ナターニアに与えられたのと、間取りはほとんど変わらない部屋だ。
家具と調度品が置かれた室内にドアがあり、そこから寝室へと直接繋がっている。
ドアは開かれたままになっているから、その影からこっそり――と覗き込む。
いったん、世話係の使用人は下がっているようで、寝室に人の姿はなかった。
だが、そこでナターニアは驚きのあまり硬直した。
アシェルがベッドの上で上半身を起こしていたからだ。
「……はっ」
汗ばむ黒髪をかき上げたアシェルが笑っている。
いっそ残忍にすら見える、嘲るような笑みを目にして、ナターニアは息を止める。
「どうして俺はまだ生きているんだ」
深い紅の瞳に、殺意に近い嫌悪感がにじんでいる。
それが向けられている矛先は、他の誰でもない彼自身だった。
喉が渇いているのだろう。声が掠れているが、用意された水差しに目を向けることもない。
生きるための何かを、身体に取り入れたくないとでも言うように。
「あのまま……いっそ、死なせてくれれば良かったものを」
手元にナイフの一本でもあれば、アシェルは自らの喉にそれを突き立てていたかもしれない。
カーテンは閉め切られていて、明るい日の光の射さない澱んだ室内。
触れれば血がにじむような危うさだけが、色濃く漂うその空間に。
「まぁ、いけませんわ旦那さまったら」
だが、ナターニアは怯まなかった。
頬を膨らませ、腰に両手を当てたナターニアは、まさに説教のような口調で言い募る。
「まだぴちぴちの二十歳なのに、死ぬだなんて簡単に言ってはいけません。これからの旦那さまの人生には、まだまだ楽しいことがたくさん待っているはずですもの!」
(そう。たとえば再婚ですとか!)
アシェルが嫌がるなら、無理に押し通す気はないが、やはり彼には支えてくれる人が必要だ。
とびきり優しい人だから、甘やかしてくれる誰かに傍に居てほしい、とナターニアは思う。
自分には、できなかったこと。
やりたくてもやれなかったことを、叶えてくれる人。
(……正直なところ、悔しい気持ちもありますが)
「って、わたくしったら。聞こえないと分かっているのに、ついうっかり……」
ナターニアは頬に手を当てた。そこが赤くなっている自覚がある。
冷静にツッコんでくれるお猫さまも居ないので、気恥ずかしさは増すばかりだ。
すすす、とカーテンの裏にでも隠れようとしたナターニアは、そこでおかしなことに気がついた。
(……あら?)
アシェルの目が、ナターニアを見ている、ような。
というか先ほどから、動くナターニアを瞬きもせず追いかけている――ような。
(いえいえ、そんなはずありませんわね。旦那さまにはわたくしが見えていないのですもの)
ナターニアは苦笑して、アシェルから視線を外す。
それなのに。
カーテンに寄ろうとするナターニアを、掠れた声が呼び止めた。
「……ナターニア?」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます